0214
「リュウちゃん」
「――」
そう呼ばれて目を上げると、すぐ側に懐かしい顔があった。
あの頃と少しも変わらない、大好きだった彼女の顔。
「美柳、ちなみさん」
思わず名前を呟くと、彼女はその整った顔に綺麗な笑みを作った。
「冷たいのね。ちいちゃんでいいのに」
「……」
成歩堂が黙り込むと、ちなみは増々楽しそうに無邪気に笑って見せた。
でも、自分はもう知っている。この天使のような微笑の影に、本当の悪魔のように冷たい心が潜んでいること。
「ちなみさん、どうしてきみが?」
「……ああ」
取り敢えず、目下の疑問を解決させようとニット帽を直しながら尋ねると、ちなみはその顔から笑みを消した。
「忘れるところだったわ。はい、リュウちゃん。バレンタインのチョコレートよ」
「……」
そんな言葉と共に、鮮やかな赤色の包装紙でラッピングされた小さな箱が目の前に差し出される。
バレンタインのチョコレート?
彼女が、この自分に?
物凄く場違いで意外なものだ。
目を見開いたまま、すぐには言葉が出て来なかった。
遥か昔の自分なら、きっと手放しで喜んでそれに飛び付いて、何の疑いもなく口にしただろう。でも、今はとてもそんな気にならない。細い手から差し出された箱を受け取りながらも、成歩堂は訝しげに目を細めた。
毒でも、入ってるんじゃないだろうか。この箱を包んでいる紙も、とても鮮やかで綺麗なのに、何故か毒々しく見える。迂闊に触れたら、それだけであてられてしまいそうな。
そんなこちらの胸中を読んだかのように、ちなみは冷たい表情を浮べながらきっぱりと言い切った。
「言っておくけど、毒入りよ」
「…………」
疑惑が肯定されて、増々言葉を失った。
やっぱり、そうだったのか。でも、それを自分に言ってしまったら、意味がないであろうに。
成歩堂が呆れたように目を向けていると、彼女は鬱陶しそうに長い髪の毛を掻き上げた。
「あんたがいないと退屈なのよ。だから、それを食べて早くこっちへいらっしゃい、弱虫のリュウちゃん」
言いながら、ちなみはゆっくりとこちらに向けて手を伸ばした。
そっと頬を撫でる、華奢な指先。白くてほっそりとした冷たい手。赤み掛かった髪がどこからともなく吹いた風にさらさらとなびいて、それに目を奪われる。
視界が一面真っ赤に染まって、そこで目が覚めた。
周りには誰もいなかった。
みぬきも王泥喜も、一緒に連れ立ってどこかへ行っているんだろう。
「酷いなぁ、仲間外れか」
そんな風に呟いてみたけど、頭の中を駆け巡っているのは先ほどまで見ていた夢の記憶だった。
「……ちなみさん、か」
どうして、今になってあんな夢を見るんだ。
いや、時折思い出したように、自分は彼女の夢をみる。
激しい憎悪とあの冷たい顔に重なるのは、いつも初めて会った時の優しい笑顔だ。偽りを述べれば述べるほど美しく輝く、彼女の容貌だ。さっきまでの彼女は、どんな顔をしていたっけ。視線を逸らしたまま、ゆっくりと鬱陶しそうに髪を掻き上げた、冷たい指先。でも、表情は暗く、冷たかった。白い肌に栄える赤い唇が、恐ろしい言葉を紡いでいた。
勿論、彼女が渡してくれた箱なんてどこにも見当たらない。あくまで自分の中の、彼女の記憶なのに。
「あーパパ!起きてたんだ!」
「……!」
突然、事務所の扉が開いて、成歩堂の思考は途切れた。
目の前には愛娘のみぬきと、新米の元気な弁護士の姿がある。
「みぬき……。それに、オドロキくん」
温かい光景にどこかホッとしたように呟くと、王泥喜は意外そうに首を傾げた。
「珍しいですね、昼寝すると夕方まで起きないのに」
「うん、まぁね。それより、二人でどこに行っていたんだい?まさかオドロキくん、みぬきに何か……」
「と、とんでもありませんよ!」
「もう、パパってば!そんなんじゃないよ、はい、これ!」
みぬきは少し頬を膨らませながら、成歩堂に真っ赤な包装紙で包まれた箱を差し出した。
「……!」
夢の中で見た光景に重なって思わず反応出来ずにいると、側にいた王泥喜が補足するように声を上げた。
「忘れてるかも知れませんが、今日はバレンタインですよ、成歩堂さん。みぬきちゃんがチョコを選んで欲しいって言うから、俺も一緒に行っていたんです」
「そっか。ありがとう、オドロキくん」
「パパ!選んだのはみぬきだよ!」
「うん、解かってるよ。みぬきもありがとう」
「どういたしまして!」
「けど、成歩堂さんらしいですよね。バレンタイン忘れてるなんて」
「いや……、忘れてた訳じゃないよ」
「そうですか」
「うん……、そうだよ」
疑いの眼差しを向ける王泥喜を余所に、成歩堂は全開の笑みを浮かべたみぬきの手から小さな箱を受け取った。
先ほどまで見ていた夢の中で手渡されたもの。それと全く同じ色の、綺麗な包装紙。
――それを食べて、早くこっちにいらっしゃい、弱虫のリュウちゃん。
「……っ」
一瞬、くらりと眩暈がして、目の前にあの艶やかな赤い唇が浮かんだ。
「パパ……?」
「なんでもないよ、いただきます」
心配そうな顔の娘を安心させるように笑みを作ると、成歩堂は箱を開けてチョコレートを取り出した。
一口かじると、チョコレートの香りが鼻腔を擽り、口内には甘ったるい風味が広がった。
「美味しいよ、みぬき」
「わぁ、良かった!」
はしゃぐみぬきに笑いかけながら、脳裏には再びちなみの台詞が浮んだ。
甘い誘惑にも似た囁き。恐怖に似た感情を呼び起こすのに、何故か逆らい難い甘さがある。
でも……。
(残念だけど、ぼくはもう弱虫のままじゃない)
だから、まだ。
まだきみの側へはいけないよ。
胸中でそう呟きを漏らして、成歩堂は手の中で溶けかかったチョコレートをもう一つ口に放った。
終