雨音




 ふと気付くと、いつの間にか雨が降り出していた。遅くまで事務所に残って一人で資料の整理をしていた霧人は、聞こえ出した雨音に気付いて窓の外を見た。作業はあともう少しで終わる。これ以上雨が本降りになる前に、もう帰ろうか。
 そんなことを思い巡らした直後、不意に背後でガタンと物音がした。顔を上げると、扉がゆっくりと開き、見覚えのある水色のニット帽が目に入る。
「成歩堂!」
 即座に椅子から立ち上がると、霧人は足早に彼の方へ歩み寄った。
 別に、彼がこうしてここを訪ねて来るのは初めてではない。でも、様子が変だ。よく見ると、彼は全身びしょ濡れになっていた。
「どうしたんですか、そんなに濡れて」
「途中で雨が降って来てね」
 流石に驚いたように尋ねると、彼は別段慌てた様子もなく、いつも通りの笑みを浮かべてみせた。ぶる、と小さく身震いする様が、その辺の野良猫のようだ。
 一瞬、呆気に取られたように立ち尽くしていた霧人だけど、このままでは綺麗に整えられた事務所の玄関がぐちゃぐちゃになってしまう。
「とにかく、これを」
 慌ててタオルを取りに行って手渡すと、霧人は溜息混じりに告げた。

「私に何か、用事だったのですか」
「うん、今日は仕事が休みだったから」
「……」
 答えになっているような、なっていないような返答。
 先ほど差し出したタオルで、彼は包まるように身を覆っている。何をしているのやら。
「着替えくらいは貸します。濡れた服を着ていると風邪を引きますよ」
「うん、そうだね」
 霧人の声に反応して顔を上げると、彼は素直に頷いた。

 取り敢えずパーカーを脱がせ、水滴のせいで肌に張り付いていたシャツも着替えさせる。代わりの衣服を渡すときに触れた手は、ひやりと冷たかった。
「言った通りです。すっかり冷えてしまってますね」
 何故ここまで世話を、と思いつつも、放り出すことは何だか出来ない。
「シャワーでも浴びて来たらどうですか。今日は特別使って良いですよ」
 そう言って、事務所の奥を指差すと、成歩堂は視線だけ上げてそちらを見た。でも、その視線がすぐに逸れて霧人の上で止まる。
「何か……?」
 じっと、意味有り気な視線で見詰められて、霧人は眉を寄せた。
「いや……。きみがあっためてくれると思ったからさ、先生」
「……」
 冗談なのか本気なのか解からない台詞。成歩堂からこう言うことを言い出すときは、決まって何かあるに決まっている。みすみす乗るのは、本意ではない。
 でも。敢えて乗るのも、手の内の一つだ。
「解かりましたよ。私で良ければ……」
 完璧な笑みを浮かべてそう言うと、霧人は冷たくなった成歩堂の手を掴んで、側へと引き寄せた。
 眼鏡をそっと外してデスクの上に置くと、まだ水滴の滴る彼の顔を手の平で撫で、そっと顔を寄せた。少しずつ深くなるキスに比例して、どくどくと鼓動が乱れて、落ち着かない。成歩堂は、こちらの体温を奪うようにぎゅっとしがみ付いて来る。いつもと違うやり取りに彼の本心を探ろうとしながら、霧人は冷たい肢体を少しずつ開いていった。
 いつの間にか、すっかり荒く乱れた二人分の吐息が重なって、雨の音は聞こえなくなってしまった。

 その後。
 成歩堂の後にシャワーを浴びて戻って来ると、一体どこから調達したのか、始めから持っていたのか、彼がいつものグレープジュースの瓶を傾けているのが見えた。
 ごく、ごくと言う音と共に彼の喉が鳴り、濃い液体がその奥に消えて行く。立て続けに繰り返される行為に、霧人は黙っていられずにその瓶を取り上げた。
「成歩堂、飲み過ぎです。せっかく温まったのに、また体が冷えてしまいますよ」
「……いいじゃないか、好きなんだよ」
 恨みがましい目に見詰められる。取り返そうと伸ばされた手を遮ると、彼は拗ねたようにソファの上で膝を抱えた。
「……手放してしまうとさ、不安なんだ。いつも側に置いていないと、落ち着かない。怖いんだよ……牙琉」
「……」
「きみには、そう言うものはないのかい」
「……どう言う意味ですか」
「そのままの意味だよ、先生」
「……あいにく、私にそんなものはありませんよ」
「そうか……」
 彼の返答を聞きながら、コトン、と音を立てて、ジュースの瓶を置く。もう成歩堂はそれに手を伸ばそうとしなかったけれど、代わりに霧人の長い髪の毛を掴み、ぐっと側に引き寄せた。
 指先に絡みつくように捕らえると、その目から笑顔が消えた。
「先生は、あれからいつもぼくの側にいるよね」
「……」
「何でかな、きみみたいな人がさ……」
「成歩堂。どう言う意味ですか」
「さぁね……」
 煙に撒くような言い様に、霧人は眉根を寄せた。
 そっと手を持ち上げて、ずり落ちてもいない眼鏡を直す。
 少しの間、黙って視線を合わせた後、彼は大人しく霧人の髪から手を離した。
「今日はもう、お開きにしましょう、少し疲れました」
「そうだね、ぼくも少し酔ったみたいだ」
 グレープジュースで?そう問い掛けたかったけれど、敢えて何も言わなかった。

 そのまま、成歩堂は余分に置いてあった傘を持って事務所を後にした。
 窓から見送っていると、折角貸したのにそれをささずに歩いて行く背中が見える。またずぶ濡れになるつもりなのか。何て物好きな。
 溜息を吐き出したけれど、もう彼には聞こえない。
 それに。

 怖いんだよ、牙琉。
 いつも側に置いておかないと。

 頭の中に木霊した先ほどの言葉は、ただ単に彼の本心なのか、暗に霧人のことを言っているのか。今更気になって仕方なかったけれど、もう確かめる術はなかった。