アンビバレンス




牙琉霧人弁護士。
何の因果か、あの事件以来友人として付き合いを始めた彼は、今まで成歩堂が見て来たどんな人間ともまるで違う人物のように思えた。
柔らかい物腰の間に垣間見える、自信に溢れた態度とか、何気ない仕草に現れる上品さとか。
物を食べること一つとっても。こんなに綺麗にそつなく食事をする人間を、成歩堂は知らない。
親友の御剣怜侍も、かなり育ちが良かったけれど、彼とはまたタイプが少し違う。
例えば、今みたいに、グラスに注いだ飲料を飲み干すときもそうだ。
並々と注がれた液体が、音も立てずに彼の喉の奥に吸い込まれて行くのを、成歩堂は物珍しそうに見詰めていた。

「何か、私の顔についていますか?」

成歩堂の視線に気付いた霧人が顔を上げ、視線を向けて来た。

「あ、いや。何て言うかさ…きみは見ていると飽きないよ、牙琉」
「…そうですか?私も、あなたを見ていると飽きません。珍しくてね」
「……」

こんな風に、整った顔でさらりと毒を吐くこともある。

「…ぼくは、珍獣か何かかい」
「悪い冗談ですよ。気にしないで下さい」

よく、そんな他愛もない会話を交わした。
完璧な笑顔と一緒に吐かれる皮肉な台詞も、彼が相手だと、そんなに腹も立たなかった。



今晩も、ボルハチに夕食を摂りに来た彼と同じテーブルに着いて、成歩堂はグレープジュースをごくごくと飲み干していた。
霧人のグラスにも、ワインの代わりにそれを注いでやると、彼は長い時間を掛けて一杯を飲み干した。

「どうだい?もう一杯」

空になったグラスにジュースのボトルを近づけると、霧人はゆっくりと首を振った。

「甘過ぎる飲み物はもう沢山ですよ」
「そっか…」

何だか、つまらないな。
そんな感想を抱きながら、成歩堂はボトルに直接口を付けて、中身を含んだ。
ごと、と音を立てて、空になったボトルを床に置く。
頬杖を突いて、向かいに座った相手が食事をしている様を見ていると、何となく、幾度となく抱いたことのある疑問が頭を擡げた。

「なぁ、牙琉」
「なんでしょう?」
「きみは、何でぼくと一緒にいるんだい?」

単刀直入な質問に、霧人は僅かに息を飲んだ。
でも、それはほんの一瞬のことだった。
こちらを真正面から見詰める彼の顔は、いつもと変わらない、穏やかで紳士的なものだった。

「理由がなければいけませんか?」
「いや、そう言う訳じゃないけど…。ただ、変だろう?きみみたいな人間がさ…」

これは、皮肉でもなんでもなく、成歩堂の本心だ。
あの事件で、自分は弁護士のバッジを失い、それと一緒に世間の信用や尊敬の念も失った。
でも、彼はそんな自分にかなりよくしてくれた。
彼が庇ってくれなかったら、もっと厳重な処分が下っていたかも知れない…。
でも、そんなことをしても、彼には一文の得にもならないはずだ。
見る限り、忙しくてやり手の弁護士先生が、ただの厚意で成歩堂の為に動いてくれていると思うほど、単純ではない。
真っ直ぐに視線を注ぎながら、黙って相手の返答を待つ。
暫くすると、彼はそっと眼鏡を直す仕草をして、それからゆっくりと腕組みをした。

「そうですね。強いて言うなら、興味かも知れませんね」
「興味…?きみが、ぼくに?」
「はい」
「……」

霧人の言葉の真意が掴めなくて、成歩堂は黙り込んだ。
無言のまま、眼鏡の奥にある二つの目をじっと見詰める。
彼の整った顔からは、何一つ表情が読み取れない。
興味?興味があると言うのは、どう言うことだろう。
本当に、彼は一体何を考えているのだ。
それにしても、こうして見ているといつも思うけれど、この髪の色と言い目の色と言い、少し出来過ぎだ。
語録が足りないから、大したことは言えないけれど…何と言うか…。
視線を合わせたまま、そんなことを考えていた成歩堂は、ややして彼との距離がやたらと縮まっていることに気が付いた。
彼に魅入っていたあまり、無意識に近づいていたのだろうか。
ハッとして、咄嗟に身を引こうとした、その時。
襟元を不躾な仕草で掴まれて、気が付いたら霧人の方へ引き寄せられていた。

「……!?」

同時に、目の前がぼやけて、唇に何かが強く触れ、成歩堂は咄嗟にぎゅっと目を閉じた。
この感触が何なのか解からないほど、子供ではない。
何故こんな事態になっているのかは、少しも解からないけれど。
この不遜な男の前で、見っとも無く取り乱すのは本意ではなかった。
幸い、今客は彼だけだ。店の従業員も、今ここにはいない。
その事実に少しだけ安堵し、無抵抗のまま、重ねられる唇を受け入れる。
優しく触れているだけだったそれは、時間が経つにつれ、我が物顔で唇を侵食し始めた。
噛み付くように、と言う表現が一番合うだろうか。
穏やかさの塊のような男からは、想像も出来ない。
舌が口内へ入り込んで、咄嗟に逃れようとする成歩堂の舌を絡め取る。
顔を逸らそうとすると、襟元を掴んでいた手が、後頭部に回る。
いつの間にか、こちらの反応を追い掛ける動きに飲み込まれて、成歩堂は体の力を抜いた。
激しく深く繰り返される戯弄は、成歩堂の体内に少なからず小さな熱を生んだ。
どの位、そうしていたんだろう。

「グレープジュースの味がします」

すっかり吐息が上がった唇をようやく解放すると、霧人はぽつりと言った。

「…甘いのは、好きじゃないんだろう?」
「そうですね、確かに」

ぐい、と片手の甲で濡れた唇を拭いながら言うと、彼はふっと唇を歪めて笑った。

「でも、きみは別のようです、成歩堂」
「……!!」

けれど、次の瞬間又彼の腕に掴まれて、短く息を飲む。
強く捕らわれている訳ではないのに、何故か振り払うことが出来なかった。
立ち尽くしたままの成歩堂の耳元に顔を寄せ、霧人は優しい声で囁いた。

「仕事が終わったら、あの地下へ行きませんか?きっと、誰も来ない」
「牙琉…」

信じられないと言ったように目を見開いて、成歩堂は目前の男を見据えた。
何を言っているのか、その意味くらいは解かる。
でも、何故・・・?
疑問を抱くと同時に、それを確かめたいと強く思っている自分に気が付いた。



「う……っ」

無遠慮な仕草で肌の上を這う指先に、成歩堂は苦痛の声を噛み殺した。
粗末なテーブルの上にうつ伏せになった体に、背後から霧人が圧し掛かっている。
四肢は彼の思う通りに反応しているのに、まだ頭がついて行かない。
どこか夢でも見ているような成歩堂の反応に、霧人は静かな声を掛けた。

「私がこんなことをするとは、思っていなかったのですか?」
「ぅ…っ…、そりゃ、そうだ、どうしてぼくに…」
「まぁ、私も思っていませんでしたよ。きみに、しかもこんなところででも…こう言うことをする気になるとは」
「…牙琉、…ぁっ!」

深く潜り込んだ指先に、喉が小さく鳴る。

「大丈夫ですよ、力を抜いて下さい」
「……っ」

大丈夫な訳ない。
そう思ったけれど、優しいほどに穏やかな霧人の声に、逆らう気力が削がれる。
抗う代わりに、成歩堂は複雑に入り組んだテーブルの木目に爪を立てて、痛みをやり過ごした。
衣服の乱れた首筋に霧人が顔を寄せ、そこを軽く吸い上げる。

「っ、ん……っ」

ぞくりと、寒気に似た強い痺れが走って、成歩堂は身を硬くした。
緊張を解すように、霧人のもう片方の手の平が肌の上を丁寧に這い回る。
首筋から移動した唇が耳元に触れ、濡れた舌が耳朶をなぞる。
痛みと共に体内に巣食った熱が頭を擡げて、意識が飲み込まれてしまう。
知らず足元が震えて、その場に崩れ落ちそうになると、背後から彼の腕に抱き抱えられた。

「もう、止めないか?明日も…仕事があるんだろう?お互い」
「解っていますよ。だから慣らしているんじゃないですか、十分に」
「んっ、…っ!」

ぐる、と指を中で回すように動かされ、一瞬走った痺れに成歩堂はびく、と四肢を引き攣らせた。
柔らかいベッドの上ではなく、こんな場所でこんな風にすることに、彼は抵抗がないのだろうか。
自分には、まだ抵抗がある。
ここへ足を運んだときから胸に巣食っているのは、罪悪感なのか、戸惑いなのか解からないけれど…。
地下の冷たく湿った風が成歩堂の頬を掠め、体温の上がった首筋には汗が伝い、相反した温度に妙な不快感を覚えた。

「……っ」

指先が引き抜かれ、ひくりと喉が鳴る。
続いて押し当てられたものに、無意識に体が強張った。

「…うっ、…ぁッ!」

躊躇の欠片もなく奥まで押し込まれ、成歩堂は掠れた悲鳴を上げた。
咄嗟に口元を覆うとした手が、霧人の指に掴まれる。

「声を出すと、聞こえてしまいますよ」
「……っっ」

彼はそう言って、慣れたような手付きで二本の指を持ち上げると、成歩堂の口内に深く差し入れた。

「ぐ、ん・・・!」

えずく間も無く、そのまま始まった律動に成歩堂は鳴き声に似た声を漏らした。

「んっ、ンっ、…ぅ」

けれど、やがて聞こえて来るのは、苦しそうな、けれど甘さを含んだ声。
微かに漏れる声に煽られたように、霧人は突き上げる速度を早くした。

そう言えば、どうしてこんなことを受け入れるつもりになったんだったか。
彼が、どう言うつもりだか、知りたかったのではなかったか。
ぼやけた頭の中でそう思ったけれど、何かを考える力は殆ど残っていなかった。
でも、いつかきっと解かる。

「あ、あ…ッ!」

そんなことを思い巡らしながら、更に奥へと入り込んで来た相手の熱を感じて、成歩堂は強く目を瞑った。



でも、結局、彼の本心など見えないまま、時間だけが過ぎてしまった。
七年間。
気付くと、弁護士として過ごした時間より、こうしてピアノが弾けないピアニストのまま過ごした時間の方が長くなってしまっていた。
霧人は、相変わらず何を考えているのか解からない。
いつの間にか、自分もそれに習って、本心を見せることはなくなった。
交わされるのは、始めの頃したような、他愛もない皮肉やら、毒気を含んだ丁寧な言葉やら。
けれど、それが表面上だけなのだとしても、霧人は優しかった。
だからなのか、何なのか…いつの間にか、その感覚を心地良いと思っていたのかも知れない。
いや、心地良かったことに間違いないと思う。
だから、真実を導き出すのに七年も掛かってしまったんだろうか。
それは解からないけれど。
あの全てが明らかになった裁判の時、彼が初めて見せた偽りのない本音が、あの憎悪だと言うなら、それはとても悲しいことだ。

(牙琉……)

今自分がどんな顔をしているのか解からなくて、水色のニット帽を目深に被る。
同時に、狭い視界の中の景色は、額縁の奥の古い絵みたいに色褪せて、やがてぼんやりと滲んで見えなくなった。
でも。
自分は、七年掛けてようやく彼の本音を引き摺り出した。
誰も踏み込んだことのない場所に触れることが出来たと、心のどこかで喜んでいるなんて。
何だか少し歪んでいるようで、きっと、一生口にすることは出来ないなと、そっと思った。



END