ある夜
ある晩。けたたましくチャイムを鳴らす音に驚いて、王泥喜はベッドから飛び起きた。
こんな時間に来客なんて。一体誰だろう。
考えみると、ふと水色のニット帽を被った男の顔が何故か浮かんだ。
そうして、扉の前に立っていたのは、たった今思い浮かべたばかりの顔だった。
「ど、どうしたんですか?こんな時間に」
何か緊急事態でもあったのだろうか。目を見開く王泥喜に、成歩堂龍一は表情の読めない顔でこちらを見詰めながら、ぽつりと言った。
「何も言わずに泊めてくれない?」
(……はぁ?)
要求された内容に、一瞬物凄く訝しげな顔になる。
「別れた恋人か何かですか、あなたは」
半ば呆れたように言うと、成歩堂はニット帽を直しながらくるりと背を向けた。
「駄目かい?駄目なら、牙琉検事のとこにでも」
「ま、待ったぁ!わ、訳を言って下さい!」
慌ててパーカーを引っ掴んで彼の体をこちらに向かせると、王泥喜は一先ず玄関先に成歩堂の体を引っ張り込んだ。彼はいつも訳の解からない言動を振り撒く読めない男だけど、こんな風に王泥喜の部屋に訪ねて来るなんてことは一度もなかった。
「本当に、どうしたんです」
表情を伺いながら尋ねたけれど、成歩堂はただ視線を伏せただけだった。
「それが言えるなら、何も言わずになんて言わないよ」
「まぁ、それもそうですけど……」
それもそうだけど、こう言う場合、訳を知りたいと思うのが普通じゃないか。でも、断ったら、彼は先ほど言ったように他の人物のところへ行ってしまうのだろう。それは、自分にとっても不本意だ。
少し考えて、王泥喜は仕方なく彼を部屋に上げることにした。
「散らかってますけど、どうぞ」
「ありがとう、オドロキくん」
そこで、彼は今晩初めて笑顔をみせた。
それから数分後。
大した会話もないまま、成歩堂と二人部屋で向き合って、王泥喜は早くも後悔していた。彼は体を丸めたように床に座り込んで、動かない。積極的に話掛けても、反応が薄い。とにかく、何だか変な感じだ。
だいたい、彼がこの部屋にいること自体違和感がある。しかも、二人きりだ。自慢じゃないけれど今月の給料すら不安な新米弁護士には、だだっ広い部屋なんて借りれないから。お陰ですぐ近くに体温を感じて落ち着かない。
何だか居た堪れなくなって、王泥喜はそっと声を掛けた。
「あの、成歩堂さん」
「……」
「しつこいようですけど、何かあったんですか」
「何もないよ、きみが心配するようなことは」
「そ、そうかも知れませんけど……」
予想していた返答にがっくりしながらも、何だか納得行かずにむっと唇を尖らせる。こんな夜中に理不尽な迷惑を掛けられているのだから、ちょっと誠意を見せてくれたっていいじゃないか。
それに、それだけじゃない。それだけじゃなくて。
「心配くらいさせて下さい。一応、あなたは俺の……」
そこで、何を言おうとしたのか自分でも解からない。言葉に詰まって、王泥喜は思わず口を閉ざしてしまった。
何て言おうとしたんだろう。何を言えば良かったんだろう。
あなたは、俺の先生なんだから、とか?いや、悪いけど、彼の弟子になったつもりなんてない。牙琉検事は勝手に成歩堂が王泥喜の新しい先生だなんて思っていたけれど。そう言う訳じゃない。
じゃあ、なんだろう。
あなたは、俺の憧れの人だったんですから?
そんなこと、あんな事件のあった今では、素直に口に出来ない。霧人の裁判のとき、彼が王泥喜にした仕打ちを、忘れた訳じゃない。
そんなことがなかったら、それくらい素直に言えるのに。
いや。
(そうじゃない……)
ただの憧れだなんて、そんな綺麗なままの感情、もうこの人に持っていない。あるのは、何だろう。胸の中を掻き乱され引っ掻き回される不安と、それでも思わず引き付けられてしまう、妙な感覚。そんなもの、口になんて出来ない。
それに、どんなに聞きたいと思っても、彼が素直に言う訳ない。
だったら、もういい。
「もう寝ましょうか、成歩堂さん」
「……うん」
はぁと溜息混じりに言うと、彼は素直に首を縦に振った。
けれど、その数分後。
「……って!俺の布団に入って来ないで下さいよ!」
「何で?」
「何でじゃないです、狭いし、暑いし、何より邪魔です!」
「酷いなぁ、オドロキくん」
布団を剥いで怒鳴ると、背中を丸めた猫のように寝転がっていた成歩堂は、恨みがましい目でこちらを見詰めて来た。
「さっき言ったくせに……」
「な、何をです」
「ぼくのこと、別れた恋人か何かって」
「そ、それが何か?」
「昔の彼女がこうやってきみを頼って来たら、こんな風に冷たくはしないんだよね」
「あなたは、別に俺の昔の彼女じゃないし、第一女の子でもないです」
「……まぁ、そうだよね」
きっぱりと言い放つと、彼は急に納得したように頷いて、黙り込んでしまった。
俯いた目が何だか寂しそうに見えて、ぎくりとする。ちょっと言い過ぎただろうか。もしかしたら、彼は何かに落ち込んでいて、こうして王泥喜を頼って来てくれたかも知れないのに。
けれど、そんな思いで胸を痛めたのは一瞬のことだった。
「じゃあ、きみはソファで寝ればいいんじゃないかな」
「……は?」
「ぼくはベッドじゃないと熟睡出来ないんだ」
「い、いつも事務所のソファで転寝してるじゃないですか!」
「あれはあくまで転寝だから」
「はぁ、そうですか……」
って、納得している場合じゃない。
王泥喜はがっくりと肩を落として、溜息を吐いた。
「もういいですよ。ただし、あまり寄らないで下さいね」
「……うん」
結局折れて、王泥喜は彼が一緒の布団に寝ることを許可した。
大の男が二人。何だってこんな風に一つの布団で一緒に寝なくちゃいけないのか。
いや、虚しく思っているのはそんなことじゃない。
成歩堂とこんな風にくっついていたって、自分たちの関係が何一つ歩み寄ってないことに苛立っているのだ。
彼はいつだって図々しく王泥喜の中へ入り込んで来て、踏み荒らして、その癖自分が残したその跡をみようとしない。自分が王泥喜の気持ちをどれだけ荒らしているのか、そんなこときっと、考えもしないに違いない。
今回だってそうだ。明日になれば、じゃあ世話になったね、なんて言葉と曖昧な笑みを残して、彼は帰ってしまうだろう。
その場面が容易に想像出来て、王泥喜は憂鬱になってしまった。
(もう、寝よう)
寝て、全て考えないようにしよう。もう自棄だ。
そう思って、布団を頭から被って成歩堂に背中を向けた。
でも、そんなささやかな決意も成歩堂は受け入れてくれない。暫く経つと、彼はごそごそと動きながら耳元に顔を寄せて来た。
「あのさ、オドロキくん」
「……」
「こう言う風に、彼女と一緒に寝てたら、変な気分になったりしない?」
「…………しません、多分」
「泊めて貰ったお礼に、とか言って迫られても?」
「――」
何を言い出すんだこの人は。思わず絶句しつつも、王泥喜は固く閉じていた瞼の裏に、そう言う風に甘い声で囁く女の子の姿を思い浮かべてしまった。
でも、何となく思い浮かべただけのぼやけた輪郭は不意にしっかりとした人の形になって、王泥喜に笑い掛けた。先ほど耳元に聞こえた人物の顔になって。
「……っ!」
途端、どく、と心臓が跳ね上がって、王泥喜はすぐに頭の中の映像を蹴散らした。何を考えているんだ、自分は。
(俺、重症かも知れない)
それと言うのも、彼が変なことを言うからいけない。
「そう言う話をしに来たなら、帰って下さい」
「……」
少し棘のある口調で言うと、成歩堂はしゅんとしたように黙り込んでしまった。
でも、もう良心は痛まなかった。代わりにあるのは苛立ちと、先ほどの言葉がまるで彼が自分に囁いたように聞こえて、それに動揺して高鳴る心臓の音だけだ。
「悪かったね、いきなりさ」
数分後。
てっきりもう寝ていると思った成歩堂から、再びそんな言葉が掛けられた。咄嗟に何も言い返せなくて、無言になる。そのまま、気まずい沈黙が部屋に広がった。
背中に、成歩堂の気配がする。彼が動く度、小さな衣擦れの音と、繰り返される呼吸の音。それだけで心臓がどきどきしているのを、彼に悟られたくない。
「怒ってるのかい、オドロキくん」
再び掛けられる台詞に、眠っているフリでもしようと思ったけれど、成歩堂には通じそうもない。仕方なく、やや投げ遣りな感じに口を開いた。
「ええ、まぁ……」
「悪いと思ってるよ」
「悪いと思ってるなら、態度で示して下さい」
「……」
自棄になったように乱暴に言い捨てると、ややして、小さな音が聞こえた。
聞き覚えのある音。ジッパーを下げる音だと気付いたときには、それに続いて衣擦れの音がした。
「成歩堂さん?」
慌てて顔を上げると、着ていたパーカーをシャツごと脱ぎ捨てる成歩堂の姿が目に映った。
(え――)
「示してあげるよ、態度で」
「……っ」
そう言った彼の目に浮かび上がった何とも言えないような色に、王泥喜はただ息を飲んで見惚れていた。
「な、何言ってるんですか!服を……」
我に返って、服を着ろと言い掛けた声は、途中で途切れてしまった。
本当は、ふざけるなと怒鳴って一蹴してしまおうとしたのに、口から出た声はやたらと緊張したように掠れていた。
見っとも無い。こんなこと、いつもの冗談に決まっているのに。からかわれているんだ。しっかりしろ。そう思っているのに、少しずつ露になって行く彼の肌から目が離せない。思わず、ごくりと喉が上下して、体温が上がるのが解かった。上着を脱いだだけだ。男の裸なんて、どうってことない。どうってこと……。
相手が、この男でさえなければ!
そんなことを思いながらも、気付いたら手が勝手に伸びて、目の前の成歩堂の体をあっと言う間に自身の体の下に組み敷いていた。
「自分が何を言ってるか、ちゃんと解かってるんですか、あなたは」
今のは冗談だと、そんなに真面目に受け取らないでくれと、今ここで言われたら、それで諦めがつく。そう思っての、最後の賭けだった。
でも、成歩堂は一度だけ視線を伏せて、それから先ほど見た気だるげな表情に薄い笑みを浮べた。
「勿論だよ、オドロキくん」
そう言われるのと同時に、ぶつりと理性が切れた。
苛立ちをぶつけるように唇を塞ぐと、思っていたよりも柔らかい感触に、すぐに頭の奥に甘い痺れが走った。噛み付くように触れる温かい唇は、王泥喜を拒もうとはせず、ただ優しく受け入れてくれた。余裕のないキスを繰り返していると、刺々しい自分の中の思いが少しずつ消えて行く。成歩堂にこんな柔らかさがあったなんて、驚きだ。触れてみて、初めて知った。
じゃあ、彼の中はどんな感じなのだろう。そう思って、慣れない手つきで行為を進めて行く。
きっと、今自分は物凄く必死な顔をしているに違いない。意識のどこかで、それを恥ずかしいと思っているのに。柔らかく触れる体温に、そんなことを思い巡らしている余裕はなかった。
征服したいって言う気持ちが、今ほどよく解かることはない。いつも何を考えているか解からない人。何だか近くにいるのに遠くて、ふざけているのか真面目なのか。王泥喜が側にいるのに、何だか上の空で遠くばかり見ている表情とか。それがもどかしくて、いつも苛々していた。
でも、今彼の中はきっと王泥喜のことでいっぱいだ。ほんのひと時でも、成歩堂の全てを独占している。なんて浅はかなんだろうと思うけど、それでもいいと思う、どこかでやけっぱちな自分もいる。
でも、まさか今日、こんなことになるなんて。
ことの成り行きを考えようとして、王泥喜は思考を止めた。こんなときに、こっちが気を逸らしてどうする。そんな焦りを振り切って見下ろすと、案の定、こんなに近くにいるのに、何だかぼんやりしているような双眸が見えた。
その様子にムッとして、まだそんなに慣れてない彼の中を強引に突き進んでみる。
「んっ……ぃ、ぁ……」
こちらの動きに合わせて成歩堂の肩がびくつき、同時に引き攣れた声が上がった。
「オドロキくん」
呼び声は掠れていて、こちらのちょっとした暴挙に抗議するような声色を含んでいたけど、わざと気にしない振りでそのまま動いた。
「うっ……、あ」
短く、律動に合わせて声が上がる。始めこそ苦しげだったけれど、少しずつこの行為に反応して甘い息を吐き、熱い内壁で締め上げてくる。
そのまま、結局は徐々に成歩堂に飲み込まれ、やがて快楽を追うだけで頭の中はいっぱいになってしまった。
こんなことで、彼はもう自分のものだと、胸を張って言えたらいいのに。
でも、言えるはずない、そんなこと。
胸中に渦巻く声を口にする代わりに、ただ彼の中を突き上げることにだけ集中して、王泥喜はもどかしい気持ちを何処かへ押しやった。
「大丈夫ですか、成歩堂さん」
「ん――、あれ、ぼく寝てたかい」
「はい」
行為が終って後始末をするなり、糸が切れたように眠ってしまった成歩堂に、王泥喜は何とも言えない視線を注いでいた。
すうすうと憎らしいほど気持ち良さそうにしている横っ面を引っ叩いて問い詰めたい。そんな衝動を一晩中堪えていたのだから、ちょっと褒めて欲しい。
けれど、だるそうに起き上がって尖った髪の毛を掻き上げている姿は、もういつもの彼だった。昨日王泥喜を受け入れてくれた優しい雰囲気とか、確かに感じた甘い雰囲気なんて、少しもない。
何となく解かっていたけれど、何だか釈然としなくて、王泥喜はむすっとした表情のまま口を開いた。
「後悔、してますか?」
成歩堂の視線がこちらを向くのと同時に、王泥喜は気まずそうに顔を逸らした。それを見て、彼がふっと笑い声を上げる。
「それはきみなんじゃないの?」
「ち、違います!俺はっ!」
ぎゅっと拳を握り締めて叫んで、ハッとした。まただ。自分だけがこんな風にムキになったって、何にもならない。言い掛けた言葉を一度飲み込んで、王泥喜は遠慮がちに口を開いた。
「あなたは、狡いですよ。何でもかんでも、俺に言わせようとしてる」
「うん、そうだね」
「あなたは何も言ってくれないんですから、俺だって、何も言いたくないです。後悔してたって別にいいですよ」
まるで、ふてた子供のようだと思いつつも、そんな台詞ばかり口から出てしまう。けれど、成歩堂は気分を害した様子もなく、相変わらず何だか楽しそうに笑いながら王泥喜を見ていた。
「きみだってさ、いつも何か言いたそうにしていたのに、結局は何も言ってくれなかったじゃないか。だから、お互いさまだよ」
「う……、え……?そ、そうですか?」
「そうだよ」
「……う」
それって。自分の気持ちなんてばればれだったってことじゃないだろうか。
果てしなく気まずさを感じて顔を上げると、成歩堂は意外にも少し困ったように笑っていた。
「何てね。だからさ、昨日は実力行使しただけだよ」
「実力行使?」
「きみがぼくのことどう思ってるのか、確かめたかったんだよ」
「……え」
「こう言うの、案外緊張するもんだね、ぼくも初めて知ったよ」
「な、成歩堂さん……」
信じられない言葉に、王泥喜は目を見開いたまま、間抜けな声を発した。
じゃあ、あんな理解し難い行動も何もかも、王泥喜の為だったと言うのか。
(そんなこと、信じられない)
信じられない、と思っているけど、彼が嘘を吐いているはずないのも、何故か解かってしまって、王泥喜は困惑した。
でも、何でそんなややこしいことをしたんだ。いつも通り、あの余裕ぶった態度で、言ってくれたら良かったのに。
この人も案外、王泥喜が思うほど器用じゃないのかも知れない。
「俺の気持ちにちょっとでも気付いてたなら、言ってくれれば良かったじゃないですか」
「言っても、きみは認めてくれないと思ったからね。きみがもうちょっと素直だったらねぇ」
「お、俺のせいですか!」
ガン!とショックを受けながらも、確かに彼の言うことにも一理あると思い直して、肩を落とした。
いつも何も言ってくれないと思っていたけれど、もしかしたら、彼に言わせない雰囲気を作っていたのは自分かも知れない。
「じゃあ、これからは努力します、もう少し……」
「うん、頼むよ、オドロキくん」
優しい顔で見詰められて、心臓がどくんと大きな音を立てた。
何と言うか、物凄く照れ臭いけれど、素直になってみるのも悪くないかも知れない。
そうして、二人の間には今までにないほど柔らかい空気が漂った。
けれど、その数日後。
「だいたい!何であなたはいつもそう訳解かんないんですか!」
「心外だなぁ、ぼくのどこが訳が解からないって言うんだい」
「何もかもです!だいたいですね!まだ俺は、あなたから好きかどうかとか、はっきり聞いてないんです!」
「ぼくだってまだ聞いてないよ。きみの気持ち、ちゃんと知りたいなぁ」
「ぜ、絶対に言いませんよ!俺からは!」
「この間、もっと素直になるって泣きながら約束してくれたじゃないか。本当はぼくのこと好きで堪らないくせに」
「勝手に脚色しないで下さい!だいたい、俺、成歩堂さんなんて大して好きじゃありません!」
「酷いなぁ。傷付いたよ、オドロキくん」
「にやにやしながら言わないで下さい!!」
デスクをドン!と叩きながら、王泥喜は成歩堂に突っ込みを入れていた。
彼と本当にいい関係になるには、まだまだ掛かりそうだ。
でも、それはそれでいいかも知れないと、王泥喜は思い切りデスクを叩いた弾みで痛んだ拳を手の平で撫でながら思った。
終