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 床に座り込んで背中を向けて、少し離れた位置で話していたはずなのに。成歩堂はいつの間にか側に擦り寄って、背後にいた人物に体重を預け、ずるりと姿勢を崩した。思い切り圧し掛かった反動で、彼が小さく呻いたのが聞こえたけれど、そこから退こうとはしない。背後から伝わる温かさを確認すると、成歩堂はほっと溜息を吐き出した。
 それから、高い天井を見上げて、何の感慨もないように呟く。
「何で、毒だったんだろう」
「……」
 唐突な台詞だったけれど、あの事件からまだそんなに経っていない。成歩堂が何を言っているのか、彼……牙琉響也にならすぐに解かっただろう。
「前もそんなことがあったんだよね。もう大分前の話だけど……。だから、そのときから裏切りと毒薬は、ぼくがどうしても許せないものだったのに……」
「そりゃ、色々事件扱っていれば、凶悪なものにも胸が悪くなるものにも当たるよ」
 当たり障りのない言葉に、成歩堂はゆっくりと首を横に振った。
 違う。扱った事件のことを言っている訳じゃない。
「そうじゃないんだ……ぼく自身に起こったことで……。側にいたのに解からなかった。何でいつも、解からないんだろう。いや……解かっているのに見ないフリをしていたかったのかな」
 昔みたいに、目を覚ませと叱り飛ばしてくれる人もいなくて、そのまま側にいた。裁判の局面まで、信じていたかった。
 尤も、以前側にいたのは、違う人物だったけど。一目見て恋をしたのは、間違いなくあの彼女の方だ。
「全く……。何でぼくの好きになった人は、いつもぼくを裏切るんだろう」
 思い切り寄り掛かったまま呟くと、響也がこちらを振り向く気配がした。そこそこ重いだろうに、文句は言わない。
 ただ、少し疲れたように吐き出される吐息。
「いつもって訳じゃないだろう?大袈裟だし、あんたのこと慕ってる他の人に悪いよ。あのお嬢ちゃんとかね」
「好き、の意味が違うよ、牙琉検事。ぼくだって、そのくらいは、解かってる」
「……」
 さらりと告げられた台詞に、響也は少し意表を突かれたように息を飲んだ。
 彼が何に驚いているのかは、解かる。でも、今更隠していても仕方ないし、誰かに、いや、響也には聞いて欲しかったのかも知れない。彼の弟である響也に。
 昔、あの彼女の妹が少なからず自分を救ってくれたみたいに。
「あのさ、成歩堂龍一?」
「何だい?」
「それだと、あんたが兄貴を好きだったって言ってるみたいに聞こえるんだけど……」
「ああ、そう聞こえるね」
「……」
 響也はそのまま黙り込んで、そして数秒後に大きな溜息を吐いた。
 彼が膝に顔を埋めるように身を屈めたので、成歩堂は更に反り返るようにますます彼に寄り掛かることになる。
 彼の心中も、かなり複雑なんだろう。背負わせて悪いとは思うけれど、今現在、成歩堂の体を跳ね除けないように、響也だったら……受け入れてくれる。そんな気もあった。
「しかもさ、前は五年で今回は七年だよ。いいじゃないか、少しくらい不貞腐れても」
「あんたねぇ……。ぼくだって、生まれたときから兄貴を知ってるんだ。ぼくの心境だって相当なものだと思って欲しいね」
「ああ、そうだよね……ごめん」
「あんたに謝られてもね……。それに……」
 そこで一端言葉を止め、ぱちんと、小さく指を鳴らしてから、今度は彼が独り言みたいに呟く。
「ぼくにだって、解からないからね。兄貴が、本当に何を考えていたのか…」
「……」
「尊敬していたし、自慢の兄貴だった……。何を考えてるか、少しは解かってるつもりだったのにね……」
「それは、ぼくもだよ。ただ、もし彼が罪を犯していて、それを隠そうとしているなら、真実を知りたいと思っただけで……」
「罪か……」
「……?」
「それなら、ぼくはどうなんだい。ぼくは、あんたがずっと証拠を捏造したと思っていた」
「……」
 響也の言いたいことは解かる。
 でも。
「ぼくはきみが嫌いじゃないよ、牙琉検事」
「……返事になってないよ」
「きみはずっと苦しんでたんだろう?だからずっと、世間に検事としては顔を出さなかった」
「……」
「もういいじゃないか、どうでもさ」
「……」
 投げ遣りにしか聞こえない言葉だったけれど、響也は気分を害した様子はなかった。
 ただ先ほどよりも、一段と深い溜息を吐くと、小さく囁いた。
「誰かに……。いや……あんたにそう言って貰いたかったって言ったら、どうする?」
「……牙琉検事?」
 少なからず驚いて、首だけ動かして彼の顔を覗き込む。
 でも、見えたのは、長めの金の髪から覗いた耳朶が少しだけ赤く染まっていることだけだった。
 尤も、それで十分なのかも知れないけど。
「……何でもないよ、もう、帰ってくれ。愚痴を言い合うのはこれくらいでいいだろ」
「うん、そうだね。ありがとう、牙琉検事」
 頷いて、ようやく身を起こすと、成歩堂はのんびりとした動作で立ち上がった。
「じゃあ、またね」
「……」
 意味有りげな笑みを浮かべて言うと、響也は黙り込んだままで、首だけ縦に振った。
 それを確認すると、成歩堂もそっと彼に背を向けて歩き出した。