別離




一日の仕事を終えて帰路に着いていた成歩堂は、自宅の扉の前に立ち尽くしている人影に気付いて、足を止めた。
目を凝らしてよく見ると、馴染みのある人物だと解かる。

「み、御剣?」

彼がこんな風に何の連絡もなしにやって来るなんて。
成歩堂は急いで彼の元へ駆け寄った。

「ど、どうしたんだよ、お前?」
「成歩堂…」

呼びかけると、御剣はゆっくりと顔を上げた。

「……?」

いつもは自信に満ちているやたらと整ったその顔に、何だか生気が感じられなくて、ぎょっとする。
彼の顔は疲れ果てていて、目も当てられないほどに弱っているのがよく解かった。
プライドの高い彼が、自分にここまでの姿を見せるとは。
きっと、余程のことに違いない。
成歩堂は知らず、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「み、つるぎ…。とにかく、中に入れよ」

殊更明るい声を発して、成歩堂は御剣の背中を強引に押して、部屋の中に招き入れた。



「その辺に座れよ」

そう言ったけれど、彼は一向に動こうとしない。
仕方なく、何か気分を落ち着けるものでも…と思い、ティーカップを食器棚から引っ張り出した。
彼には、お茶よりも紅茶がいいんだろう。
いつもバンドーホテルのボーイに持って来させているくらいだし。
家にあるのは普通の安い紅茶のティーパックしかないから、そんなに美味しいものが淹れられる訳じゃないけれど。
ともかくカップにお湯を注いで紅茶を煮出すと、成歩堂は未だ立ち尽くしている御剣へと足を進めた。

「ほら、飲めよ、御剣」

そう言いながら、彼に向けて差し出したその手が、不意に凄い力で捕えられた。
あまりのことに驚いて、握り締めていたカップが指先から擦り抜ける。
ガシャン!と派手な音がして、熱い紅茶が床に散らばって、二人の足元にも飛沫が掛かった。

「…熱っ!」

成歩堂は思わず悲鳴を上げたけれど、御剣は微動だにしない。
熱い湯がもろに足元にかかっているのに、彼はまるで熱さなんて微塵も感じていないように、ぎゅっと、成歩堂の腕を掴んだ指先に力を込めた。

「御剣?」

驚いて、彼の表情を伺おうと顔を上げる。
いつの間にか・・・。
少しの力も感じられなかった双眸には強い光が灯り、射抜かれそうなほど鋭い眼光が、成歩堂を真っ向から捕えていた。

「……?」

ただならぬ雰囲気を感じ取って、無意識の内に肩が揺れる。
不穏な空気に敏感に反応してか、肌の表面が薄っすらと粟立った。

「成歩堂…」
「……?」

小さく名前を呼ばれて、頭に疑問符が浮かんだ、直後。
視界が反転して、背中に軽い衝撃が来た。
気が付くと、その場に押し倒されていて、体の上に御剣が覆い被さるように屈んでいた。

「御剣…?」

圧し掛かる体温が不自然なほど高くて、何故だか身が竦む。
大きく見開いた成歩堂の瞳に、上から自分を見下ろす御剣の顔がいっぱいに映し出された。
そのまま、何も言わない彼の手が襟元に伸びて、器用にネクタイを解く。
襟元からそれが乱暴に引き抜かれ、衣擦れの音がやたら大きく耳に届いて、成歩堂は身を震わせた。

「み、御剣…っ!」

胸板を押し返そうとした手はすぐに掴まれて、強い力で床に縫い付けられる。

「成歩堂、頼む」
「……?!」

続いて、か細い声が降って来て、成歩堂は驚きに目を見開いた。
御剣は、見詰めるこちらの視線から逃れるように、そっと顔を逸らした。

「抵抗、しないでくれ…。頼むから…受け入れて欲しい」

絞り出すように悲痛な声でそう囁かれて、抵抗を試みていた腕をぴたりと止める。
受け入れる…?
すぐには意味が解からない。
でも、何故彼がこんなことを言い出したのか。
彼に一体、何があったのか。
最近の事情を考慮すれば、少し予想は付いたものの、明確な答えには程遠いものだった。

「どう、して…」

だから、やっとのことでそう声を発したけれど、答えはなかった。
ただ、衣服がみるみる緩められて、成歩堂の体温より熱い御剣の手が、シャツの間から差し入れられる。
まるで肌の手触りを楽しむように。
御剣の手のひらが、胸元に、脇腹に、吸い付くように触れる。
そっと首筋に顔が寄せられて、彼の吐息が掠めた。

「…っ、御剣…!」

その感覚に、何故か恐怖に近い感情を抱いて、成歩堂はびくと肩を揺らした。
この感覚には、覚えがある。
彼と裁判で再会して、その後留置所に囚われていた日の夜。
わざわざ自分の元へやって来た御剣は、こうして成歩堂の肩口に顔を埋めて、首筋に口付けをした。
その時成歩堂が感じ取った欲求を、彼はまた自分に対して抱いていた。

受け入れて欲しい。
その意味が解かって、思わず身が竦む。
でも、あの時と違って、訳も解からないままに恐怖だけを感じている訳ではない。
御剣のことが心配で、気になって仕方ない。
その気持ちは以前よりもずっと大きくなっていた。
拒絶することなんかとても出来なくて、そっと、恐る恐る体から力を抜く。

成歩堂の抵抗が止んだのを見て、御剣は顔を寄せて、成歩堂の唇を塞いだ。
生温かい唇の、濡れた感触。
合わせられた彼の唇が、微かに震えているように感じたけれど、すぐにそれは自分の方だと気付く。
御剣の唇も、吐き出す吐息も、圧し掛かる体も、全部熱い。
熱でもあるんじゃないかと思うほど、本当に熱くて。
その唇で、彼は酸素を求めるようにひたすら成歩堂の唇を貪っていた。
逃げる舌が絡め取られて、きつく吸われる。
溢れた唾液が絡まって、甘い。
当然だが、彼とここまで深いキスをするのは初めてだ。
あの・・・彼が留置所まで面会に来た日に、同じようにされたことはあったけれど。
今のこれは、それよりももっと激しくて、何だか飲み込まれそうになる。
でも、嫌ではない。
それは本当に不思議だけど、ただ、漠然とした不安だけは拭えずにいた。

その間も、御剣は深いキスを落としながら、成歩堂の体のあちこちを弄るように撫でていた。
強く緩く、ぐいぐいと容赦なく触れられて、息が上がる。
やがて、彼の手は下衣にまで伸び、衣服が剥ぎ取られて、成歩堂は羞恥に身を縮めた。
御剣の指が膝に触れて、そこを左右に広げようと力を込める。

「御剣!どうして…」

どうして、こんなことを。
何度尋ねても、彼は何も答えてはくれなかった。
それが、どうしても不安で堪らなかった。
せめて、何か一つでも言葉を述べてくれれば、頭の中で幾らでも説明を付けて、納得出来たのに。
でも、彼のこの様子。
今まで見たこともない。
もし自分が拒絶したら、彼はどうにかなってしまうのではないか。
頭の中にはそのことだけが呪いの言葉のように繰り返されて、成歩堂の動きを奪っていた。
きっと、彼は普通じゃないんだ。
だから、こうして自分を頼ってきた。
訳なら、後で必ず話してくれる。
だから…。
行き着いた結論はそれだった。
必死で、それを自身に言い聞かせる。
そうでなければ、とても耐えられそうになかった。



「うっ…!」

潜り込んで来た指先は、想像以上に苦痛を齎すものだった。
下肢が引き攣って、痛みを逃がそうとする努力も功を奏さない。

「力を抜くんだ、成歩堂」
「…ん、ん!」

そう言われても、自分で自分の体のコントロールが利かない。
到底、受け入れることなど出来そうもなかった。

「出来るわけ、ない…!御剣、出来ない…っ」

成歩堂は勝手に浮き上がってくる涙で目を潤ませて、必死に哀願をした。
嫌だから止めてくれ、とは言えなかった。
そんなことを言ったら、彼が壊れてしまうのではないかと思ったから。
御剣を壊してしまうのが、怖い。
ずっと追い掛けてきた彼が、またどこかへ行ってしまうとしたら・・・。
しかも、自分のせいで。
それは、この先与えられるであろう痛みよりも、ずっと恐ろしいことのようで、恐怖以外の何者でもなかった。
それに、嫌ではない。信じられないけれど、それも確かだった。
嫌悪は感じない。ただ、怖いだけだ。

「大丈夫だ。きみを傷付けるつもりはない」

成歩堂が怯えた声を発すると、彼はそう言って、ポケットの中から小さな瓶を取り出した。
中で揺れる液体は、どうやら潤滑油のようなものらしい。
彼の言葉に少しだけ安心しつつも、御剣がこんなものまで用意していたことに改めて驚く。
本当に、彼は自分を抱くつもりなのだ。
今、この場所で。
急に、今までの漠然とした不安ではなく、すぐ目の前に突きつけられた未知の行為へ、緊張と不安が込み上げて、胸が苦しくなった。



暫く、慣らす行為を念入りにした後。
御剣は成歩堂の膝の裏に手を回して、ぐいと押し上げた。
ずっと続いていた行為に、成歩堂はもう呼吸も満足に出来ないほど乱れて、ただ放心したように虚ろな目を御剣に向けた。
何が起きるのか、ぼんやりとした頭ではすぐに理解出来ない。
ひたすら無垢な双眸を見て、少しだけ、御剣は苦しそうな顔をした。

「すまない、こんなに…無理をさせて」

彼は一言だけ、聞き取れないくらいの声でそう言った。
その言葉が頭の奥に届く前に、体中に衝撃が走って、成歩堂は掠れた悲鳴を上げた。

「……ぐっ!!」

御剣のものが容赦なく侵入して来て、奥へと打ち込まれる。

「う、ぁ…あ!」

身を裂くような痛みに、仰け反る肢体が御剣に押え付けられる。
それからは、もうただ夢中だった。
何も考えられない。
御剣が身を揺らす度に、酷い痛みと、信じられないけれど、快楽に似た痺れが走って意識が霞む。

「御剣、御剣…っ!」

自分はただそうやって、何度も彼の名前だけを呼んでいたように思う。
それから、中に熱いものが吐き出されるまで、その行為は続けられた。
体内が浸るなんて、想像したこともない。
御剣から注ぎ込まれたものが熱くて、彼が完全に成歩堂の中から抜け切ると、それは溢れ出て内股を細く伝った。



覚えているのは、そこまでだ。
情けないけれど、気を失ってしまったらしい。
目が覚めたら、辺りはもう薄明るくなっていて、側に御剣の姿はなかった。

「……うっ」

痛みを訴える体に鞭打って、無理矢理起き上がる。
いつの間にか、自分の衣服も、汚れたはずの床も、綺麗に整えられていた。

(御剣……)

彼の名前を呟いてみると、胸の奥が高揚したように酷く熱くなった。
先ほどまでしていた行為を思うと、顔が火照るどころではない。
羞恥で可笑しくなってしまいそうだった。
幾ら親友でも、彼のことが大事でも。
それだけなら、こんなことを許すはずはない。
御剣が自分の中でとっくに特別な存在になっていたことに、今更ながら気付いたけれど。
追い駆けて伝える気力も、今はもうない。
今度。今度会ったら聞き出そう。
どうして、こんなことをしたのか。
きっと、彼は答えてくれる筈。
だから…早く、会いたい。
そう思いながら、成歩堂は痛む体を抱えて、再びベッドに沈み込んだ。

成歩堂が彼の失踪について知らされたのは、それから…二、三日経ってからのことだった。



END