break it




「成歩堂、起きろよ」
「……ん?」
 夜中。
 ふと、自分を呼ぶ声がして、成歩堂は目を覚ました。部屋には誰もいないはずなのに、一体誰が。一瞬そう思ったけれど、呼び声には聞き覚えがあった。
 身じろごうとして、すぐにその誰かがずっしりと肢体の上に圧し掛かっていることに気付く。
「……重い」
 まだ寝惚けた声を出しながら幾度か瞬きをすると、暗闇の中にぼうっと輪郭が浮かび上がって来た。こんな夜中に部屋に侵入して、あろうことか圧し掛かっている人物。こんな迷惑なことをする男は、一人しかいない。以前にも一体どうやったのか知らないけれど、何食わぬ顔で入り込んで、ふられたから慰めろだとか、そんな風に喚き散らしたことがある。
「何だよ、矢張?」
 返事はなかったけれど、間違いない。目が闇に慣れて来て、先ほどよりも輪郭がはっきりして来る。もう見慣れてしまった幼馴染の顔に、成歩堂は溜息を吐きたくなった。
「どうしたんだよ、また彼女にふられでもしたのか」
「……」
 矢張から、すぐに返事はなかった。いつもなら、ここで目に涙を溜めながら情けない声で縋り付いて来て、無茶苦茶な要求をして来るのに。一体、どうしたんだろう。
「おい、矢張って」
 とにかくちゃんと向き合って話そうと起こし掛けた上体が、即座にベッドに縫い付けられた。
「……っ?」
 驚いてもがこうとした腕まで、がっちりと掴まれて、枕の左右に固定されてしまった。
 そこで、彼の様子がいつもと違うことに成歩堂はようやく気付いた。
 何だか知らないけれどただごとじゃない。漂う微妙な緊張感に、いつの間にか眠気は吹き飛んでしまった。
 思わず、ごく、と喉を上下させて、続く言葉を待っていると、数秒の沈黙の後。静かな矢張の声がした。いつもより低くて、どこか凄みのある声。
「成歩堂、お前さぁ」
「ん……?」
「お前、ここからいなくなってくれよ」
「…………」
(は……?)
 一瞬、何を言われたのか全く解からなかった。少し経って、いつもの悪い冗談なのだと思った。でも、矢張の纏っている気配がいつもと違い過ぎて、すぐには笑い飛ばすことが出来ない。代わりに、ごく、と喉が鳴って、成歩堂は掠れた声を吐き出した。
「矢張、お前……、何言って……」
「お前に、いなくなって欲しいんだよな」
「……っ」
 先ほどよりはっきりと言われて、息を飲んだ。
 夜中に人の部屋まで押し掛けて上に圧し掛かって、何を言っているんだ、こいつは。そう言って蹴落としてやろうと思っても、上手く行かない。
 何故かって、小さな頃からずっと一緒だった間柄だ。彼が本気で言っていることがよく解かってしまったからだ。訳の解からないいい加減な男だけど、それは間違いないと思う。
 でも、どうしてそんなことを言うのか、さっぱり見当もつかない。自分は、知らず知らずの内に彼を怒らせていたのか。疎まれて、こんなことまで言われるほど。心当たりなんて、全くないと言うのに。
 矢張のことは、自分で言うのもなんだけど親友だと思っている。手が掛かるし、だらしないとこもあるし、短絡的だし。でも悪いやつじゃなくて、憎めない。それに、あの事件から、彼のことはとても大切な人間の一人だ。彼にまでそれを求めるつもりはないけれど、今まで結構上手くやって来たと思っていたのに。それなのに、夜中にこんな風にやって来て、まるで今にも首でも締めんばかりの剣幕をして。何がどうなっているのだろう。
「矢張、訳を……、訳を言えよ、ぼくが何かしたなら、ちゃんと謝るから」
「訳なんて、そんなもんないぜ!とにかく、目障りなんだよ、成歩堂!」
「矢張……っ」
 これは、流石にショックだった。親友だと思っていた相手にこんなことを言われるのは、きつい。
 部屋に溢れる気まずい空気が重くて、胸具合が悪くなりそうだ。圧し掛かる矢張の体がやたらと熱い。こっちにまでそれが伝わって来て、成歩堂の額にも汗が浮き上がった。
 彼は、こちらがしっかりと返答するまで動く気はないらしい。何だって、こんな無茶な要求に返事をしなくちゃいけないんだ。そう思いながらも、成歩堂は張り付いた舌先を必死に動かした。
「お、お前の周りには、顔を出さないようにするよ、それで、いいだろ」
 精一杯の虚勢だった。本当は、こんな酷いことを言う相手なんて、怒りに任せて追い出してしまいたかったけれど。胸の中に溢れているのは怒りより悲しみだ。
 酷いヤツだ。でも、嫌いにはなれないし、この期に及んで、これ以上嫌われたくないなんて思っている。
「そうしてくれよ、成歩堂」
 成歩堂の応えに満足したのか、彼は素っ気無くそう言って、ようやく成歩堂の上から退いて、去って行ってしまった。
「何なんだよ」
 押さえ付けられていた手首が、痛い。容赦ない力で掴まれていた証拠だ。赤く腫れた皮膚の上を指先でなぞって、成歩堂は呆然と呟くことしか出来なかった。

 その一週間後。
「やっぱり、駄目だ」
「……矢張?!」
「やっぱり、いなくなってくれよ、成歩堂」
 再び真夜中に部屋に侵入して来た彼は、この前より切羽詰った様子で、そんなことを言った。あんまりな台詞に、ずきっと胸が痛む。
 どうしてそこまで言われなくてはいけないのか。自分勝手な酷い台詞に、胸の辺りに苦い感情が走って、目の奥が熱くなった。
 とにかく、理由だけでも知りたい。そう思うのに、以前と同じように両腕を掴んで押さえ込まれて、向き合って話すことも出来ない。それならせめて少しでも反撃してやりたいと、成歩堂は声を荒げた。
「な、何言ってるんだよ!お前の前に姿を見せなかったし、電話だってしてないだろ!何が不満なんだよ!!」
「じゃあ何でお前はいつもいつも俺の頭の中に浮かんで来るんだよ!」
「…………?!」
 自分の発した声の何倍もの迫力で返って来た言葉に、成歩堂は目を見開いた。
(は……?)
「……矢張?」
 今、彼は何と言ったのか。頭の中で繰り返す前に、間抜けな声が出た。
 見上げる矢張は、相変わらず苛々したような顔で、ぐっと成歩堂を押さえ込む手に力を込めた。
「今日だってコズエとデートして会った途端、お前の顔が浮かぶし、手を繋いでもキスしても、思い出すのはお前の顔ばっかりだ!お陰で浮気でもしてるんだと疑われて、ふられちまったんだぞ!どうしてくれる!!」
「……え、え?」
「可愛い子がいて話し掛けても、お前のことばっかり考えちまうんだよなぁ、なぁ、どうなってるんだよ、成歩堂!」
「…………」
 それ、って……。
 いくら自分が色恋に鈍くても、何となく解かる。
 物凄く言い辛いけど……。それは、何て言うか……。
 理解すると、何だか少しだけに冷静になった。
 なんてバカなヤツだろう。
 彼に何と言って解からせてやろうかと、頭の中で思い巡らしている内に、自棄になったような矢張の声が降って来た。
「とにかく、お前のせいだ……!」
「え……、っ、んっ……?!」
 直後、熱くて柔らかいものがぐっと唇に押し付けられて、息を飲んだ。
「ん、……んんっ?!」
 慌てて何か言おうとした唇からは、くぐもっとような声が上がった。唇が何かで塞がれている。しかも、この感触は……まさか。
「んっ、んーー?!」
 それが彼の唇だと気付いて、成歩堂はパニックになったようにじたばた暴れたけれど、圧し掛かる矢張の手はびくともしなかった。
 こちらが暴れれば暴れるほど、彼の拘束は強くなる。マウントポジションを取られているのだから、はなから分が悪い。それどころか、ただ押し付けられていた唇はやがて噛み付くようにゆっくりと蠢きだした。
「ふ、っ」
 窒息しそうになって口を開けると、その間からぬるりと濡れたものが潜り込んで来る。それが逃げる成歩堂の舌先を追い掛けて、無理に絡めてきつく吸い上げる。眩暈のするような激しい行為に、成歩堂は息も絶え絶えになった。
「矢……張?」
 やがて、ようやく解放された唇からは頼りない声が上がった。
 見下ろす矢張の目には、先ほどまで浮んでいた苛立ちに加えて、どこかぎらついたような、熱に浮かされたような色が浮かんでいた。
 矢張が先ほどよりも体重を乗せ、ベッドがぎしりと軋んだ。耳元に寄せられた唇が、低い声で囁く。
「いなくなるのが無理なら、壊れちまえよ、成歩堂」
「……っ」
 自棄になったような台詞に、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。

 矢張の手が、こちらの意志を無視して肢体の上を無遠慮に這い回っている。逃れようと身を捩っても、上手く行かない。矢張の手は成歩堂の弱い場所を見つけ出してそこを強引に弄んでいる。いつの間にか毛布は引っぺがされて床に投げ捨てられて、先ほどよりも熱を直にぶつけられていた。
(な、何だって、ぼくがこんな目に!)
 自分の不運と矢張の鈍さを呪ったけれど、この状況じゃどうしようもない。このままじゃ、勘違いした彼に何をされることか。
 何とか煮えたぎった頭を冷ましてやろうとしたけれど、彼には全く付け入る隙がなかった。それどころか、腰の辺りを意味あり気に撫で、胸元を辿る仕草に思わず反応を返してしまう。彼の手は本能的に愛撫を施すことに慣れている。
 壊れてしまえ、なんて―。そんなこと言った割には、彼の仕草はとても優しい。まるで壊れ物でも扱うみたいに慎重に、ゆっくりと触れて来る。
「……んっ、ぅ」
 巧みに動き回る手に、思わず短い声が勝手に漏れて、成歩堂は改めて身の危険を感じた。
 やがて、腿の辺りを撫でていた手がゆっくりと上がって来て、ひっと喉が鳴った。咄嗟に足を閉じようとすると、矢張が両足の間に体を押し込めて遮る。無防備になった下肢を、熱い手の平が我が物顔で這い出した。
「……ぁ、ちょっと、待てって……、本当にっ」
 このバカ!
 そう怒鳴ってやりたいのに、情けない声しか出ない。
 じわじわと齎される痺れに、少しずつ呼吸が上がってしまう。引き出される快楽に眩暈がする。でも、このままじゃ本当にまずい。現に今、矢張の指先は成歩堂の衣服に掛かって、それを手早く引き剥がそうとしている。きっと、数秒後にはこの衣服も床に投げ捨てられた毛布と同じ運命を辿るだろう。それだけは、何ともしても回避しなくては。
「成歩堂」
「……っ」
 呼び声が耳元でして、ぞく、と背筋が痺れた。首筋に熱い吐息が掛かってそこからざわざわと肌が粟立つ。もう、一刻の猶予もない。成歩堂は必死の思いで足に力を込めた。
「いい加減にしろ!!矢張!!」
 ガツン!と音を立てて、成歩堂の膝が矢張の顔面にヒットするのと、下衣が半分引き摺り下ろされるのはほぼ同時だった。

「何すんだよ!痛いだろ!」
「こっちの台詞だよ、この、バカ野朗!」
「バカとは何だよ!」
 ムキになって怒鳴る矢張に、成歩堂は衣服を整えながらはぁ、と長い溜息を吐いた。
 矢張に悪気はない。それは、解かった。でも、問題は、この当人にそれをどう解からせるか……。
 少し唸って、成歩堂は未だ縋り付くようにこちらを見詰める彼に視線を向けた。
「……矢張」
「何よ、成歩堂」
「お前、まだ気付かないのかよ」
「……?何が?」
「だからさ、お前の……その、気持ち」
「……?」
 って、何で自分でこんなこと言わなくちゃいけないのか。勘違いだったら、自分はかなり恥ずかしいヤツだ。でも、きっと勘違いなんかじゃない。
 成歩堂が黙り込むと、矢張はがばっと覆い被さる様に身を寄せて来た。
「何だよ、気になるだろ!成歩堂!」
「こら、くっつくなって!」
 慌ててベッドの隅にずり上がるように逃げると、成歩堂はすっと真顔を作って唇を開いた。
「お前さ……、ぼくのこと好きなんじゃないか?」
「…………え」
 矢張は、何を言われたのか解からないと言ったように、ぽかんとした顔を見せた。
「何しててもどこにいても気になるって、そう言うことじゃないのか」
「……」
「ぼくも、そう言うことあまり得意じゃないから、自信ないけど……」
「……」
「でなきゃ、何でいなくなって欲しいとか言っておいて、こんなことするんだよ」
「……」
 矢張は、呆然としたように成歩堂の台詞を聞いていた。あまりに反応がないので、間違ってしまったのかと、不安が込み上げる頃。
「そう、よなぁ、そうかも、知れないよ、な」
 ようやく彼は気の抜けたような声を発した。そう言う彼からは、先ほどまでの刺々しさがすっかり抜けていて、もういつも通りの気の抜けた顔だった。
 その様子に、ホッとして、成歩堂も緊張を解いた。
「きっと、そうだよ」
「そうよなぁ……」
 どこか他人事のように呟いて、矢張は又ずいっと身を寄せた来た。
「わっ!」
 腕が掴まれて思い切り引かれ、バランスを崩してベッドに引き倒される。
 けれど、その上に再度圧し掛かって来た矢張は、憑き物が取れたような爽快な顔をしていた。
「じゃあ、お前が好きだ、成歩堂」
「……うん」
 返事をすると同時に、ぎゅっと容赦ない力で抱き締められて、息が詰まってしまった。縋り付くようにぐいぐい体を押し付けながら、矢張は成歩堂の肩口に顔を埋めて、そのまま動かなくなってしまった。
 本当に、何て手の掛かる男だ。いきなり夜中に忍び込んで、いなくなれなんて暴言を吐いたと思ったら、人を強姦しかける。挙句に好きだと言って縋り付いて来る。
 でも……。
(でも、まぁ、いいか)
 我ながら、いつも思うけれど彼には甘いのだ。
 それに、こんなバカなヤツ、放っておけない。
 そろそろと腕を上げて矢張の背中に回すと、成歩堂は彼に気付かれないようにそっと溜息を吐いた。