チャンスステップ
「防音かぁ…。うーん、どうしようかな…。高いし」
「でも、みぬきちゃん…かなり困ってるみたいなんです」
『俺からも成歩堂さんに頼んであげるから』
みぬきにそう言った手前、言わない訳にもいかなくて。
王泥喜はタイミングを見計らって、この事務所に防音設備を設けるように提案していた。
当の成歩堂が、気乗りしない返事をするのは何となく解かっていたが…。
案の定。
何かを思いついたようにくるんとこちらに向き直った彼は、にこりと笑って、突拍子もないことを言い出した。
「きみ、払ってくれる?」
(うっ、そう来るか…!)
にこやかな彼の笑顔には、ついつい流されそうになってしまうけど。
現実を思いやって、王泥喜はぶんぶんと首を横に振った。
「いやいやいや!無理ですよ!俺だって金、ないですし」
「……」
途端、成歩堂は遥か遠くを見るような目になって、実につまらなそうに呟きを漏らした。
「ふぅん…。じゃあ、今のところは必要ないかな。きみが発声練習を控えればそれで済むことだしね」
「そ、それは、そうですけど…」
成歩堂の変わり身の早さにちょっと落胆しつつも、ここで引き下がってしまっては、流石にみぬきに合わせる顔がない。
王泥喜は何とか彼の気持ちを変えようと試みた。
「も、問題はそれだけじゃありませんよ、成歩堂さんっ!!」
「へぇ…。例えば?」
「例えば!その…」
例えば、だ。
成歩堂がすかさずこう返して来るのは何となく解かっていた。
そう…いつもみたいに、こんな意味ありげなホホエミを浮かべて。
でも、今回、自分にはちょっとした考えがあった。
唐突に、王泥喜は成歩堂に身を寄せると、そっとその唇にキスをした。
甘いグレープジュースの匂いと、彼の唇の感触。
もう何度か、覚えのあるもの。
少し前から、自分と成歩堂は、時々こうして…戯れみたいなキスを交わすことがあった。
勿論、ここに漕ぎ着けるまでは、自分なりに努力したと思う。
一体何処に行っているのか…野良猫みたいにすぐいなくなってしまう成歩堂と二人きりになるのは、本当に至難の業だったけれど。
単刀直入に気持ちを伝えた後、ここまで至るには、そんなに時間が掛からなかったように思う。
そうして…それより先に行き着くのにも、同じく、そんなに時間は掛からなかった。
ただ。
当然、キスをするよりもっと、そんな時間を設ける機会は殆どない。
この人が、いつも勝手に何処かへ行ってしまうからだ。
(全く……)
思わず、切ない気持ちを埋める為に、自分より背の高い彼の体を抱き寄せたくなって、王泥喜はその衝動をぐっと堪えた。
こんな風に、いつも彼に触れることを望んでしまう自分と、彼の気持ちの差も、まだ掴めずにいる。
だからこれは、ちょっとしたチャンス到来、かも知れない。
もしかしたら、色々一気に解決出来るかも…。
そう思いつつ、いつもより少しだけ長く触れて、王泥喜はそっと唇を離した。
そうして、真正面から向き直る。
「例えば…成歩堂さんと、こう言うことしてても、隣の部屋に声が漏れたりしないじゃないですか…」
声が、漏れる。成歩堂の、あの声が…。
「……」
自分で言って、うっかり赤面してしまった。
思わず、そう言うときの彼の声を思い出してしまったからなのだけど…。
そんな甘い感傷にうっとり浸っている暇はなかった。
「…オドロキくん」
「は、はい…っ?!」
涼しい声で呼ばれて、ハッと我に返る。
顔を上げると、又成歩堂が何を考えているのか解からない顔でこちらを覗き込んでいた。
「きみ…まさか、みぬきがいる時にも、こんなことをするつもりかい?」
「……!!」
(そ、それは…!)
それは、そうだ。
さっきの台詞じゃ、そう言ってるのと同じだ。
「で、でも!ほら…成歩堂さんだって、どうしてもそう言う気分になる時があるかも知れないじゃないですか!」
「その時は他のところに行くから大丈夫だよ」
(ぐ……っっ!!)
苦し紛れに出した反論に、手酷い答えが返って来た。
い、幾らなんでも今のは、ちょっと酷いんじゃないだろうか。
そんなこと、断じて、許す訳には行かない!
王泥喜はがしっと成歩堂の二の腕を捕まえた。
「全然大丈夫じゃないです!!そんなの駄目ですよ!成歩堂さんは、絶対、俺じゃなきゃ駄目なんです!」
「随分な自信だなぁ、オドロキくん」
(そ、そう言う訳じゃないんだけど…)
でも、はったりくらいかまさないと…。
何を考えているのか解からない、この人のことだ。
本当に、何処か他の人のところへ行ってしまうかも知れない。
「当然、証拠はあるんだよね?」
少し挑発するような目に促されて、王泥喜はこくんと力強く頷いた。
「も、勿論です!!い、今から証明してあげますよ!」
ここまで来たら、後には引けない。
実証してみせる、まで!
「成歩堂さん…」
耳元で囁いて、その体を引き寄せ、側にあったソファに押し倒すと。
王泥喜は、再び成歩堂の唇を塞いだ。
やや強引に唇を割って、そっと口内に舌を潜り込ませる。
温かい濡れた感触に煽られながら、舌を絡めて、吸い上げる。
「……んっ」
暫くの間そうしていると、先ほど少しだけ脳裏に思い巡らした甘ったるい声が、成歩堂から上がった。
(成歩堂…さん!)
聴覚を刺激する掠れた声が耳元を擽って、体温がぐっと上がった、その時。
ガチャン!と…聞き覚えのある、ドアの開くような音がした。
「……?!!」
「あ……みぬきが帰って来たみたいだね」
心臓が飛び上がりそうなほど驚いた自分の下で、成歩堂はすっかりいつも通りの声色に戻って言った。
がっくり肩を落としたものの、どうしようもない。
落胆する王泥喜にお構いなく、顔色一つ変えずにするりと体の下から抜け出すと、成歩堂はにこりと満面の笑みを浮かべた。
「又今度…楽しみにしてるよ、オドロキくん」
「・……」
それだけ言って、返事を待たずに、成歩堂は扉の奥に消えてしまった。
「パパ!ただいま!」
「お帰り、みぬき」
「あれ?オドロキさんは?」
「ん?オドロキくんなら疲れて寝てるみたいだから、そっとしておこうね」
「そうなんだ、じゃあ静かにしてないとね、パパ」
「そうだね、みぬき」
親子の暢気な会話が聞えて来る。
(成歩堂さんの、意地悪…)
胸中で愚痴を零しつつも…。
今、自分がすんなり出て行ける状況ではないことを彼が察して、配慮してくれている・・・と言うことも解かる。
解かってしまうだけに…。
(だから…止めようとか、思えないんだよな…)
「やっぱり…防音設備、何とかしようかな…」
二人に聞こえないようにそっと呟いて、王泥喜は少しだけ成歩堂の温かさが残るソファに、思い切り顔を埋めた。
END