チョコレート




「だからね、どうして居眠りなんかしていたのかって……聞いてるのよ、なるほどくん」
 夕方の所長室。
 にこやかな笑顔と共にこちらを見詰める双眸を前に、成歩堂は無言のまま顔を逸らした。
 この、優しい笑顔。
 でも、解かっている。結構怒っているのだ、彼女は。
「聞いてるの?なるほどくん」
 いくら顔を伏せてやり過ごそうとしても、彼女…千尋はとことん追求してくる。
 何と言ってこの場をやり過ごそうか。
 千尋には嫌われたくないし、だからと言って怒られるのも怖いし。
 そんなことを考えていた成歩堂の視界に、ふと……デスクの上に乗った箱が飛び込んで来た。
 品の良い色の包装紙で綺麗にラッピングされた、小さな箱。
 今日は2月14日。そしてこれは、どう見てもチョコレートの箱だ。
「なるほどくん?ちゃんと聞いてるの?」
「千尋さん……」
「所長って呼びなさいって、言ってるでしょう?」
「千尋さん……チョコレート渡す人なんて、いるんですね」
「……?」
 一向に噛み合わない会話に千尋が眉を顰める。
 けれど、こちらの視線の先に気付くと、すぐに大きな溜息を付いて、額を抑えた。
「あのね、なるほどくん。今はそんな話をしている場合じゃないでしょう?」
「……す、すみません」
「それに……もし私にそんな人いても、別に構わないわよね?」
「……!」
 千尋の言葉が引っ掛かって、成歩堂は咄嗟に少し唇を噛んだ。
 そりゃ、彼女の言う通りだ。
 自分は、恋人でもなんでもない。
 でも。そんな言い方……しなくても……。
「とにかく、もういいわ。仕事に戻りなさい。ただし、今度はこんなことないようにね」
「……」
「なるほどくん!」
 折角お説教から解放されると言うのに、又一向に動かなくなってしまった成歩堂に、千尋が声を荒げる。
 真っ直ぐに視線を向けてじっと見詰めると、今度は彼女が、先ほどこちらがしたように、ふいと顔を逸らした。
 そうして、少しの沈黙の後。
「ああ、もう!仕方ないわね!」
 千尋が遂にちょっと怒ったように言って、何を思ったか、机の上に置いてあった箱の包装紙を素早く破き始めた。
「ち、千尋さん……?」
 何が起きているのかよく理解出来ない成歩堂の目の前で、千尋はみるみる包装紙を取り去って行く。
 そうして。
「はい、これ」
「んっ……?!」
 急に口元に温かい感触がして、続いて彼女の手にあったチョコレートがぐい、と口の中に押し込まれた。
「千尋さ……」
「何だか欲しそうな顔していたから。あげるわ」
「そ、そんなんじゃありませんよ!!」
 慌てて声を荒げる。
 そう言う訳ではない。そんなんじゃないのだ。
 ただ……千尋が。
 彼女みたいな人が、一体どんな人にチョコレートを渡すんだろうと思うと、妙に引っ掛かっただけで。
 勿論、やきもち何かでもない。
 でも。
 あんなにビリビリに包装紙を破いてしまって、しかも、中身は一個欠けているし。
 きっとこれで、あのチョコレートは誰にも渡されることはない。
 そう思うと、何だか妙にホッとしていた。
「さ、仕事に戻ってね」
「はい。千尋さん……」
 今度こそ素直に頷いて、成歩堂は千尋に向けて笑顔を作った。

 その、すぐ後……。
「あれじゃあ……渡すに渡せないじゃない、馬鹿ね……」
 折角、何とかしてさり気無く渡そうと思っていたのに。
 成歩堂に聞こえないように呟きを漏らして、千尋は大きく溜息を吐いていた。