毒薬




 全てが終って、二度と来ることはないと思っていた場所。
 そんなところへ、自分は何故、再び足を運んだのだろう。
 ここへ来る途中に何度も自問してみたけれど、結局答えは出なかった。

「何か、ご用ですか?成歩堂龍一」
「牙琉……」
 冷ややかな声で名前を呼ばれて、静かな敵意を発する人物に目を向けた。
 二人の間は、重くて冷たい鉄の格子に遮られてはいるが。
 一歩一歩進む度に、足が重くなるような、ぴりぴりと肌を刺すような……剥き出しの感情を真っ向から受ける。
「牙琉。きみは今……ぼくが憎いんだろう?」
 目当ての男の姿が見える位置まで来てぴたりと足を止めると、成歩堂は彼と視線を合わせ、唐突にそんな言葉を口にした。
「いや。そもそも始めから……きみはぼくを憎んでいたんじゃないのか?」
 静か過ぎる部屋に、自身の声が響く。
 少し離れたところにいる看守にまで、それは聞えているかも知れない。
「違うかい?牙琉先生」
「……」
 問い掛けに、すぐに返答はない。成歩堂はただ黙って、牙琉霧人の返答を待った。
 妙に意味有り気な、長い沈黙の後。
 やがて、霧人はあくまで穏やかな調子で口を開いた。
「それは違いますね、成歩堂」
「……」
「あなたのことなど……何とも思っていませんでしたよ。言ったでしょう、ただの運が良いだけの、ハッタリ弁護士だと。ただ、それだけです」
 丁寧な言葉の裏に、激しい拒絶を感じる。
 ――牙琉。ぼくにはきみが解からない。
 少し前にここへ訪れた時、確かにそう思っていた。
 今なら、彼の人間性が……ほんの少しだけ解かる気がするけれど。
 でも、まだ、全てが見えた訳ではない。
「その後のことも、全部嘘だったのかい……?」
 七年間も共にいて、全てが……。
 認めたくないだけかも知れないが、成歩堂はそれが知りたかった。
 そして、確かめたいこともあった。
 探るようなこちらの口ぶりに、牙琉は眼鏡をそっと直して、呆れたように頭を振った。
「そんなことを知って、どうするのですか?救われたい……とでも?」
「……」
「それに、本当の目的はそんなことじゃないでしょう」
「……え」
 突然、胸の中を覗き込まれたようで、驚いて顔を上げると、間近に感情のない二つの目が見えた。
 そこに映っている自分が酷く頼りなげで、思わず目を逸らすと、追い掛けるように牙琉の声が響く。
「こんなところまでわざわざ出向いて来て、きみは一体何を恐れているのですか?」
「……恐れる?ぼくが……きみを?」
「違いますか?」
 鼓動が、少しずつ早く音を刻んでいく。彼の言葉に、じわじわ侵蝕されるような感覚に、成歩堂は眩暈を覚えた。このまま、ここにいてはいけないと思うのに。足が動かない。いや、そもそも、自分はここへ来てはいけなかったのに。来てしまった。もう、遅い……。
 ごく、と一度喉を上下させ、成歩堂は渇いた声を発した。
「確かに……そうかも知れないけど……」
 先ほどの言葉を肯定すると、霧人はふっと口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「やれやれ……。買い被って貰っても困りますね。こんな寂しいところに一人でいる私に、一体何が出来ると?」
「でも、きみは直接手を下さずに、あの親子を……」
「……ええ。でも、今はもう無理ですよ。ここから抜け出す方法もありませんしね」
 それは確かに、尤もな台詞だった。
 けれど、自分は……牙琉の言う事を真に受けることは出来ない。
 成歩堂は、解かっているのだ。死者でさえ、恐るべき脅威になり得ることを。
 以前、そんな事件が起きたことがあった。
 あの時、裁判で牙琉が成歩堂へ向けて顕にした怒り……ああ言った感情に、自分は覚えがあった。
 それは、ある少女が、成歩堂の師匠である綾里千尋へ向けて発した怒りに、よく似ている。
 暗い執念は人を狂わせる。だから、恐れているんだろうか。
「そうだね、ぼくは……正直、怖い。きみのぼくへの怒りが、ぼくの大事な人を傷付けるんじゃないかと……」
「……」
「そうなることだけは、避けたいのかも知れない」
「だとしたら、一体どうすると……?きみの大切な人へ怒りが向かないように、きみ自身が大人しく私の怒りを受け入れるとでも?」
「解からない……。でも、今きみが……ぼくに復讐しようなどと思っているなら、逃げずに受け止めようと思ってる」
「…………」
 あまりに意外だったのか、呆れ果てたのか、暫くの間彼からは何の反応もなかった。
「……正気とは思えませんね」
 ややして、溜息混じりに吐き出された言葉に、自分でさえ、そうだと思う。
牙琉の言う通りだ。こんなこと、誰が聞いてもそう思うだろう。
(……ぼくは、何を言ってるんだ?)
「ああ……。ぼくも、そう思うよ」
「……」
 落ち着いた声で返すと、霧人は訝しげに眉を顰めた。
「もう一度聞きますが……。きみは、被告人に担当弁護士を外されて逆恨みした挙句に自分を罠に嵌めて、その上で7年も見張っていた愚かな男に、どうされても良いと……?」
 牙琉が鼻でせせら笑う。
 けれど、言葉とは裏腹に、彼の目は先ほどより確実に熱を帯びて見え、まるで獲物を捕えるような強烈な力を浮かべていた。
 憎い男へ復讐するチャンスを与えられたからか、少しずつ、彼の目に生気が宿って行く。
 纏わり付くような視線を受けて、成歩堂は尚も首を縦に振った。
「その通りだよ、牙琉」
「本気で言っているのですか?」
「ああ……どうやらそうみたい、だね」
「……」
 再び、辺りには沈黙が広がった。
 目の前に飛び込んで来た愚かな獲物をどうしてやろうか。
 牙琉霧人の頭の中は、きっと今そんなことでいっぱいに違いない。
「それなら、成歩堂……。こちらに来て下さい」
 沈黙を破る牙琉の声が響き渡ったのは、それから数分後のことだった。
 言われるまま、鉄格子の限界まで足を進め、彼の目を間近で見詰めて。成歩堂の背筋に、初めてぞくりとした悪寒が走った。
 何て冷たい目で、自分を見詰めるのか。あの、彼の心を閉ざしていた黒い錠と同じ。暗くて、冷たくて、悲しい色に見える。どうして、この冷たい目に自分を預けようなどと思っているのか。
 成歩堂自身にも、よく解かっていなかった。
「実は、私の部屋……部屋と呼んでいいのか解かりませんが……ここはまだ、以前にきみが来た時のままなんですよ」
 周りを見渡すと、確かに部屋の中はそのままだった。
 彼が世話していると言うレトリバーの写真も、赤い薔薇の花も、マニュキアも、そして、小さなテーブルの上の黄色い封筒も。
 何と無く、ざわりとした予感が成歩堂の胸に込み上げる。
「さっき、そこの封筒に貼ってある切手に触れていた指です。あなたになら、この意味が解かりますね?」
「ああ……」
 切手に付いているのは、猛毒。
 即ち……目の前にこれ見よがしに翳された彼の指先にも、同じものが……と言うこと。
 そんなはずない。証拠品はあれから押収されてしまったに違いない。けれど、彼のことだ。何かを巧妙に隠していても可笑しくない。危険だ。これ以上近付いてはいけない。それなのに、頭が麻痺したみたいで、上手く回らない。
 ただ彼の指示だけを待つように、成歩堂は視線を上げて、霧人の顔を見詰めた。
「口を開けて下さい、成歩堂」
「……?」
 不審に思いながらも、不思議な抑揚のある声に命じられるまま、ゆっくりと口を開く。
 その、ゆるりと開いた隙間から、牙琉がそっと指を差し入れて来た。
「……っ!ん……ぅ」
 口内に押し込められたものが、ゆっくりと粘膜の上を辿って奥に進められる。
 何故か、不思議と恐怖は感じなかった。
 無抵抗な舌の上、その手触りを楽しむように、牙琉霧人の指が這う。
「ん、……っ」
 直後、背筋に走った痺れは、得体の知れない牙琉の行為への恐怖か、もっと危険な刺激が欲しいと言う欲なのか。解からないまま、一本、もう一本と指が増やされ、気を抜けばすぐにでもえずいてしまいそうな不快感に耐える。
 それ以上に。不快も何も……もしかすると自分には間近に死が待っているかも知れないと言うのに。その恐怖すら押し退けて、この恍惚に似た痺れに体を委ねているのは何故だろう。
「大丈夫ですよ、ここからは、看守にも見えていません」
「……っ」
 そう言う問題じゃない。解かった上で、彼の優しげな声がそう囁く。
 無意識に追い返そうとする舌が逆に押し返されて、口内を犯す指先が乱暴に蠢き出した。
 軽い吐き気が込み上げて、目には薄っすらと生理的な涙が浮き上がる。
「んぅ、……ぅ」
 それでも、その指先に歯を立てることも出来ず、成歩堂はいつ終るとも解からない不快な行為を辛抱強く受け入れた。
「……よく、出来ました」
 どの位そうしていたのか。ややして、唾液に濡れた指先がそっと引き抜かれた。
 すっかり乱れてしまった息を整え、舌先で唇を舐める成歩堂を、冷たい無機質な目が見下ろす。
 穏やかな仮面を捨ててしまった目に見詰められる度、どく、どく、と少しずつ音を立てて鼓動が早まって行く。頭の奥が霞んでしまったように、思考力が低下して、何も考えられない。
 自分は、可笑しくなってしまったのだろうか。
 目の前の出来事を何処か他人事のように捕えながら、成歩堂は次に牙琉が起こすであろう行為をじっと待った。

 そして、数秒後の沈黙の後。
 耳元に聞こえたのは、盛大な溜息だった。
「全く、きみには呆れますね」
「…………?」
 声に反応しておぼつかない視線を上げると、彼はいつもの穏やかな落ち着いた表情で悠然と腕を組んでいた。その目に、先ほど感じたあの冷たい色はもうない。代わりに、憐れみのような、そんな色が浮かんでいた。
「牙琉……」
 頼りない声で呼び掛けると、成歩堂はぐい、と濡れた唇を拭った。
「哀れな人ですよ、きみは……。私なんかを……」
「……?」
 彼が、何を言おうとしたのか、はっきりとは解からなかった。
 でも、霧人は途中で言葉を止め、それから眼鏡をそっと直した。
「安心して下さい。毒なんて、もうここにはありませんよ」
「………けど、それじゃ……」
「もう、気は済んでいます。言ったはずですよ、きみのことなど、最初から何とも思っていなかった」
 その声に、偽りは感じられなかった。
 成歩堂が恐れていたものは、もう霧人の中にはないように見えた。
「そう、か、じゃあ……ぼくはもう帰るよ」
「ええ、気を付けて……」
 そんな、当たり前の日常のような会話を交わして、成歩堂はゆっくりとその場を離れた。

 欲しい答えは得た。彼の怒りが成歩堂の大事な人に向くことは、きっと、もうない。
 でも、それなのに何故、胸に溢れているのは安堵の気持ちではないのか。
 苦しいような甘いような痺れが胸の奥で疼いて、じくじくと痛む。
 彼の指が触れた唇にそっと触れると、何故かまだ軽く痺れているような気がした。
 きっと、彼に会ってしまった日から、彼と言う毒が体中に回ってしまったに違いない。
 ――哀れな人ですよ、きみは、私なんかを……。
 霧人が言い掛けた台詞の続きが、そのとき解かったような気がした。
「だから、嫌いなんだよ、毒薬は……」
 そして、裏切りも。
 けれど、もう自分はこの甘い毒に酔っている訳にはいかない。
 ぐい、と唇を拭うと、成歩堂はそっと目を閉じて、瞼の裏に浮かぶ霧人の姿を打ち消した。