Freeze
「じゃあね、みんな!お休みなさい」
「お休みなさいませ!」
皆で食事をした後、何度も手を振りながら、真宵と春美の二人は連れ立って帰って行った。
糸鋸刑事もいつの間にか帰ってしまって、今ここには三人しかいない。
成歩堂龍一と、御剣怜侍と、そして自分。
「じゃあ、わたしも…」
真宵と春美の姿が見えなくなるのを見送って、そろそろ自分も帰路に着こうとした、その時。
突然、隣の方でドサっと言う音がした。
「……?」
続いて、そこに立っていたはずの成歩堂龍一の姿が視界から忽然と消えた。
(な、なに…?)
驚いてそちらを見ると、さっきまで元気そうにしていた彼が、何だかぐったりと地面に倒れているのが見えた。
「な、成歩堂龍一?!」
何事かと慌てて屈み込んで、様子を伺う。
成歩堂の額には汗の粒が浮き上がっていて、既に意識は完全になかった。
まさか…?
嫌な予感を振り払うように、声を荒げる。
「どうしたの?!しっかりしなさい!成歩堂龍一!」
声を張り上げると同時に鞭も振り上げると、側にいた御剣から慌てたように制止の声が掛かった。
「メ、メイ…。大丈夫だ。彼は寝ているだけだ。そんなに鞭で叩いたら気絶してしまうぞ」
「…!!そ、そうね…」
本当だ…。
御剣怜侍の言う通り。成歩堂からは気持ち良さそうな寝息が聞こえているだけだった。
きっと、気が抜けてしまったんだろう。
考えてみたら、ちょっと前まで入院していた人間が、すぐに元気になるはずがない。
まだ熱もあるようだから、やっぱり、かなり無理をしていたのだろう。
そんなことを考えている間に、御剣はてきぱきとした動きで成歩堂の体を起こして、側にあった塀に寄り掛からせた。
そして、くるりとこちらに向き直った。
「私は車を持って来る。その間、きみは少し成歩堂のことを看ていてくれ」
「な…!ど、どうしてわたしが…!」
「…このまま、彼を一人で地面に転がしておく訳にもいかないだろう」
「別に。この男がどうなろうと、わたしの知ったことではないわ」
片手を腰に当ててきっぱりと言い放つと、御剣はハァ、と深い溜息を吐き出した。
「メイ」
「何かしら」
「もし、こうして放っておいて彼に何かあれば、きみは一生この男に負けたままだが、それで良いのか」
「……!」
「きみが勝つ為には、彼が五体満足である必要があると思うが…?」
御剣怜侍の言う事は尤もだ。
悔しいけれど、そう言うことなら…やむを得ない。
「そ、そうね。それなら、仕方ないわね」
そう言うと、御剣は安心したように駐車場の方へと歩き出した。
と言っても。
意識のない成歩堂と二人取り残されたところで、何をどうしたら良いものか。
これと言った答えが何も浮かばなかったので、取り敢えず、側に寄って屈み込んでみる。
そっと覗き込むと、苦しそうに眉根を寄せた顔が目に入った。
少し荒く吐き出される息は熱くて、熱が高いのもよく解かる。
こんなになったのも、仕方の無いことだろう。
つり橋を踏み壊して、冬の川に転落したなんて。しかも、あんな急流に。
状況を詳しく聞けば聞くほど、呆れてしまう。
あんな脆い橋を渡ろうとするなんて、本当に…。
「本当に、バカな男…」
言いながら、体温を確かめる為に、そっと額に手を伸ばす。
その、直後。
今にも額に触れそうになっていた手が、突然横から伸ばされた手にぎゅっと掴まれて、ハッと息を飲んだ。
「バカで悪かったな、狩魔冥」
「……!!」
続いて、か細い成歩堂の声がした。
いつも法廷で聞く、力強い言葉が嘘のように、弱々しい彼の声。
そして、いつの間にか開いていた二つの目が、はっきりとこちらを捕らえていた。
「な、成歩堂龍一!あなた、起きていたの?」
「あれだけぶたれれば、流石に起きるよ」
あまり呂律の回らない声で言う彼の体温は、熱のせいかとても高い。
だからなのか…皮の手袋の上から掴まれている筈の手が、何だか直に触れられているような、変な気持ちになる。
「御剣は…?」
「車を取りに行ってるわ。あなたが急に倒れるから、何だかとても驚いて動転していたみたいだけど」
「そっか…。何だか、悪いなぁ」
気の抜けたような成歩堂の呟きに、何故か少しだけ苛々する。
彼は、ちゃんと解かっているのだろうか。
「橋を渡ろうとすればどうなったか…少し考えれば解かったはずよ。改めて、バカはバカゆえのバカげた行動しか取らないと言うことね」
「はは…。厳しいよね、きみは」
―でも、自分でもそう思うよ…。
冷たく言い捨てたのに、彼は何だか少し楽しそうに笑って、そう言った。
何がそんなに可笑しいのか、理解に苦しむ。
眉根を寄せて、何度目になるか解からない溜息を吐き出すと、尚も、熱に浮かされたような彼の声が聞こえて来た。
「でも…前もきみに言ったけど…あの時は何も考えなかったからなぁ」
「……」
「もしかしたら、橋の向こうにいたのがきみでも、渡ろうとしたかもね…」
「…!!な、何を、馬鹿なこと…」
予想もしていなかった言葉に、何だか動揺して、頭に血が昇る。
「あなたに助けて貰う義理なんか、ないわ」
そう告げても、彼は全然動じた様子もなく、そうかな、などと暢気な呟きを漏らした。
こんな、意識が半ば朦朧としている人間の言うことなんか、まともに聞いていられない。
第一、彼はいつまで人の手を掴んだままでいるのか。
それに、勝手に熱くなってしまった頬が、なかなか元に戻らない。
思うことは沢山あるのに、それ以上は言葉が出て来なくて、何だか、居心地が悪かった。
彼のことなんか放って、このまま逃げ出してしまいたいのに、体が動かない。
そうこうしているうちに、また具合が悪くなって来たのか、成歩堂はゆっくりと目を瞑ってしまった。
同時に、手を捕まえていた指先からもするりと力が抜けて、力なく地面に落ちる。
視線と熱から解放され、ようやく居心地の悪さが抜けたので、冥は少し身を乗り出して、彼の顔を覗き込んでみた。
少し荒い呼吸が繰り返し聞こえるだけで、眉ひとつ動いていない。
もう、眠ってしまったんだろうか。
先ほどよりは楽そうだけど、熱はまだ高そうだ。
相当熱いのだろうか。少し、気になる…。
無意識の内に、ゆっくりと持ち上がった手が、彼の額へと伸びる。
そう言えば……。
さっきはいつの間にか彼が目を覚ましていて、手を掴まれたりしてかなり驚かされたけれど。
今はもう熟睡しているし、大丈夫だろう。
そんなことを考えながら手の平を額にかざそうとした途端。
「あのさ、狩魔冥」
「……!!な、な、何かしら!」
凄いタイミングで声が掛かって、思い切りびくっとしてしまった。
しかも物凄くうろたえて、引き攣った声まで出た。
今回は、彼の目はちゃんと閉じられたままなのに。
どこかにもう一つ目でも付いているのではないか。
内心で慌てふためく自分にお構いなく、彼は目を閉じたままで静かに続けた。
「御剣が来たら、起こして…」
「…わ、解かったわ」
あまりにびっくりし過ぎたせいで、まだ心臓がドキドキして煩い。
でも、何とか平静を取り繕って返事をすると、彼は満足したように首を縦に振った。
「じゃあ、おやすみ、狩魔冥」
「……ええ」
そのまま、再び規則正しい寝息が聞こえ出しても、もう二度と彼の額に触れる気にはならず。
御剣がやって来るまで、狩魔冥はそこから少しも動くことが出来なかった。
END