フルネーム
「狩魔冥」
「何かしら」
「何か食べようか。そろそろ昼だし」
「ええ、そうね。成歩堂龍一」
「……」
二人で街を歩きながらそんな会話を交わした後。
成歩堂は不意にぴたりと足を止め、隣に立つ狩魔冥の横顔を見やった。
今までずっと、思っていたことがある。そんなに重要ではないのかも知れないけど、はたから見ていると結構可笑しいことだと思う。言うなら、早いほうが良い。
そう思って、一度大きく深呼吸すると、思い切って口を開いた。
「あのさ、狩魔冥」
「……何?」
呼び声に反応して、彼女がきりっと整った顔をこちらに向ける。
視線が合うと、成歩堂はもう一度深呼吸して口を開いた。
「その、いい加減、成歩堂龍一ってフルネームで叫ぶの、止めてくれないかな」
「……?」
「一応さ、デートとかしてる訳だし」
「……」
成歩堂の言葉に、彼女はぎゅっと腕の辺りの衣服を握り締めた。
裁判のときなどによく見られる、彼女のくせだ。何か考えたり、苛々しているときにそうするように思う。
黙り込んだ彼女を覗き込んで、成歩堂は探るような声を上げた。
「狩魔冥?どうし……」
言い掛けた途端、ぴしゃりと顔面を鞭が直撃し、あまりの痛さに息を飲む。
「いててて!な、何だよ!」
「自分の胸に手を当ててよく考えることね!」
「え、な、何……?」
「あなただって人のことは言えないでしょう?このわたしに向かってその不愉快なフルネーム呼び……無礼なことこの上ないわ!」
「……」
(う、うう……確かに……)
的確過ぎる狩魔冥の言葉に、成歩堂は口を噤んだ。
彼女の言う通りだ。
最近はずっとこう呼んでいたから、ごくごく自然なことになっていた。でも、お互い街を歩きながらのフルネーム呼び。実際は不自然なことこの上ない。
「やれやれ……」
「溜息を吐かない!」
「は、はいっ」
凛とした怒鳴り声と共に思い切り肩の辺りをぶたれて、成歩堂は咄嗟にびしっと姿勢を正した。
全く、これでは身が持たない。と言うか、これはデートなのか試練なのか。何となく怪しいところだ。
でも、この狩魔冥が、嫌なことには断固ムチで抗議しそうな彼女が。こうして一緒に歩いてくれていると言う事は、やはりまんざらではないのだろう。
御剣だったらきっと、自分よりも彼女を上手く扱えるのだろうけれど。まぁ、でも、それはそれだ。
成歩堂は気を取り直して、真っ向から彼女に向き合ってみた。
「じゃあさ、一緒に考えようよ」
「何をかしら……?」
「だから、どう呼んだらいいのかをさ。そりゃ、ぼくだってその…いつまでもきみをフルネームで呼びたい訳じゃないし」
「……!」
成歩堂の言葉に、狩魔冥は少し意表を突かれたように息を飲んで、ふい、と視線を逸らした。
「そ、そうね。そう言うことなら、一緒に考えてやってもいいわ」
「うん、よろしくね。じゃあ、今からフルネームで呼ぶのは禁止ってことで」
「え、ええ。解かったわ」
素直じゃない返答に口元を綻ばせながら、成歩堂はこくんと首を縦に振った。
「早速だけど、わたしはあなたを何て呼べばいいのかしら」
「そ、そうだなぁ」
尋ねられて、成歩堂は色々と考えを巡らせてみた。
どんなのがいいだろう。いつも自分が呼ばれている愛称と言えば。成歩堂の脳裏には、可愛らしい助手と敬愛する師匠、そしていつも一生懸命な小さい女の子の姿が浮かんだ。
「なるほどくんとか、どうだい?」
「……!呼べる訳ないでしょ、そんなバカみたいな呼び方!」
「バ、バカみたいなって、酷いなぁ、狩魔め……」
うっかり呼びそうになって、成歩堂は慌てて口を噤んだ。
結構いい考えだと思ったのに、鞭によって一喝されてしまった。
でもまぁ、よく考えると彼女にそう呼ばれるのは合わないような気がしないでもない。
「じゃあ、名前の方かな……」
「名前……」
と言っても、いきなり龍一なんて呼ばれるのも慣れない。でも、だからと言って……。
「でも、リュウちゃんは止めてくれよ、トラウマだから。まぁ、ちゃん付けじゃなければそれでいいかな……」
そう言うと、彼女は即座に首を横に振った。
「リュウは……私の姉の子が飼っている犬の名前なのよね」
「え……」
「犬と同じで良いならそう呼んであげるわ」
「い、いやいや、やっぱり止めよう」
そう言えば、父親の狩魔検事がそんなことを言っていたような。
いくら何でも犬の名前と同じ呼び方は勘弁して欲しい。
成歩堂も首を振って、ハァと溜息を吐き出した。途端、ぎろりと睨まれて、咄嗟に取り繕うように声を上げる。
「じゃ、じゃあさ、きみの方を考えてみようか」
「え、ええ。そうね」
狩魔冥。
彼女のこと、何て呼んだらいいだろう。
彼女の場合も、冥、何て呼べば、一気に距離感がなくなるような気がする。でも、ちょっといきなり過ぎるかも知れない。ここは普通にちゃん付けで、と思ったのだが。
「一ついいかしら」
「ん、何……?」
「冥ちゃんと言うのは、止めて貰えるかしら。あの愚かな絵描きを思い出して不愉快だわ」
「え、あ、ああ」
(矢張のことか)
確かに、凄くデレた声で呼ぶ矢張の姿が頭を過ぎって、成歩堂も落ち着かない。
そう言う事情なら、先ほどのことは撤回して、思い切って呼び捨てか。
「じゃあ、冥は……」
「それはレイジを思い出すから……悪いけど却下するわ」
「そ、そうか……」
御剣を引き合いに出されては、引くしかない。
二人の間にどう言う経緯や感情があるのか詳しくは知らないけれど、ここは彼女の要望を聞いてあげたい。
「じゃあどうしようかな。狩魔、じゃ何だかあんまりだし、だからって狩魔検事じゃ今までと変わらないよな」
ぐだぐだと言っていると、段々と焦れて来たのか、少し険しい声が降って来た。
「いつまで考えているの!はっきりしなさい!」
「そ、そんなに急かすなよ。きみだって上手い呼び方思いつかないんだろ」
「そ、それは……」
ぐっと言葉を飲んだ狩魔冥だったけれど、すぐに怯むことなく鞭を振り上げ、声を張り上げた。
「けれど、元々あなたが言い出したことよ。しっかり考えなさい!」
「い、いた!」
パァンと引っ叩かれて、成歩堂は痛む頬を押さえながら涙目で訴えた。
「そ、そうは言うけど……元はと言えばきみがぼくをフルネームで呼んだりするからいけないんじゃないか!元はきみがいけないんだよ!」
「な、何ですって!」
なかなか決まらなくて少し苛々していたのか、尤もなこととは言え、ついついそう言い捨ててしまった。
しかも、その言葉に遂にぷちっと来たのか、元々きつい狩魔冥の目が更に吊り上がる。
そして。
「お黙り!この、成歩堂龍一が!」
「な、何するんだよ、狩魔冥!!」
凄い勢いで鞭を振り下ろした狩魔冥と振り下ろされた成歩堂は、今までの苦労も虚しく、結局は思い切りフルネームで呼び合ってしまった。
終