誤解




 先ほどまで、一大決心をして向かっていた目的地から、御剣はふらふらとした足取りで遠ざかっていた。
 今の今まで自分が耳にしていた声と、部屋に漂っていた水気を含んだ重い空気が未だに纏わり付いているようで落ち着かない。
 信じたくない。けれど、実際耳にした声はあの成歩堂龍一のものだった。 間違いない。
 ――成歩堂龍一。
 子供の頃からの知り合いで、紆余曲折を経て、自身にとってかけがえのない存在になった。友人と言う立場は不動のものになったけれど、御剣は彼に対してそれだけとは言い切れない、微妙な感情を抱いていた。もう、子供の頃からずっと、彼は御剣にとって特別だった。会わない時期だって、忘れたことはなかった。
 それで、気付いた。これはただの友情ではない。
「なぁ、聞いてるか、御剣」
 上の空な自分に少し不満そうに唇を尖らせ、至近距離でこちらを見詰める成歩堂に、何度心臓がどくりと高鳴ったか解からない。そのまま、頬をがしりと捕まえて、物凄い勢いで唇に噛み付きたいのを、寸でのところで堪えたこともある。
 または、しきりに熱いラーメンにふーふーと息を吹き掛けるのを見て、寧ろ自分がラーメンの麺になりたいだとか健気かつ少し微妙なことを考えて、溜息を吐いたことも多々ある。
 けれど、彼は奈何せんそう言うことには鈍くて、自分がこんな感情を抱いて側にいるなど、微塵も気付いていないだろう。それに、知られてしまったら、軽蔑されてしまうかも知れない。
 ――お前の顔なんて見たくもなかった。
 以前、彼に面と向かってそう言われて、何とか平静を装ったものの、あのときは金属製のたらいが頭上に落ちて来たときのようにショックだった。
 嫌われて会えなくなるのは、辛い。けれど、この気持ちを抱えたままなのもかなり辛い。
 天才検事の自分ともあろうものが、あんな凡庸そうな男にどうしてこうもハマってしまったのか、謎だ。
 でも、昔からそうだった。彼の笑顔を見ると気分が高揚した。大事な大事な宝物を見付けたような気分にすらなった。
 結局、どう考えても自分は成歩堂龍一が好きなのだ。
 こうなったらもう、伝えてしまうしかない。
 悩んで悩み抜いた末、御剣は自分の気持ちを彼に伝えることにした。

 そうなると、善は急げだ。時計を見るともう夜中近くだったけれど、こんな悶々とした思いを抱えたまま朝を迎えるのは偲びない。それに、きっとこの時間ならまだ起きているはずだ。
 そうして、決意を固めて彼の部屋の前に立って、御剣は呆然とする羽目になった。チャイムを押そうとした直後、中から人の話し声がしたのだ。成歩堂の声と、もう一つ。今、あまり耳にしたくなかった、もう一人の幼馴染の声だ。
(矢張?何故、こんな時間に、ここに?)
 彼のタイミングの悪さと成歩堂と二人きりの空間を共有していることに、思わず苛立ちを感じた。間が悪いのは寧ろ後から来た自分の方なのだが、そんなことはどうでもいい。この際、彼にはさっさと出て行って貰おう。そう思って、思い切り扉を開けた瞬間だった。
「い、いた、痛いって、矢張っ」
「…………?!」
 思わず、涙ぐんだような成歩堂の声が聞こえて、御剣はその場にぎしりと固まってしまった。何だ、今の艶っぽい、と言うか、色っぽい声は。確かに、成歩堂の声なのに、今まで聞いたこともないような声。そして、それに続く軽薄なあの男の声が聞こえる。
「大丈夫だって、もうちょっと力抜けよ、ほら」
「ん……、い、いた……っ」
「…………」
 御剣は愕然とした。今、何が起きているのか。
 しかも、この状態。まるで間男、いや、ただの出歯亀だ。
「もうちょっとだろ、何とかしろよ、成歩堂!」
「わ、かってるって、ん……っ、そんなに無理矢理、するなよ!」
「…………」
 そこで、御剣は光の速さで扉を閉めた。
 これ以上聞いていたら、頭の中が爆発していたに違いない。
 思わず手の平で口元を覆いながら、かつかつと音を立てて足早に部屋の前から去る。

 何を。一体何をしていたと言うのだ、あの二人は。
 真夜中に二人っきりであんな声を上げて。考えたくない。考えたくないけれど、やることなんて、決まっている。
 何てことだ。まさか、あの甲斐性なしの矢張に。あの締まりのない顔と締まりのない下半身が売りの男に、子供の頃から大事にしていた宝物のような存在を横から掻っ攫われるとは!
 いや、あの男には昔からそう言うところがある。成歩堂が泣き落としに弱いのを知っていて、みっともないほど縋り付いて上手く取り入ってしまう。キサマにはプライドと言うものがないのか!と何度叫びそうになったか解からない。プライドの塊のような自分には到底出来ない方法で、彼はいつも上手く成歩堂の懐に飛び込んでしまうのだ。
 でも、成歩堂は本当に、矢張に体を許してしまったんだろうか。
 色々考えていると、際限なくどす黒い感情が吹き荒れだした。
 矢張は、どうやって彼に触れていたんだろうか。成歩堂は、あの男にどんな顔を見せたんだろう。
 痛い、と言っていた。何てことだ。全て手遅れだったと言うのか。自分などは彼とキス一つしたことなくて、ずっと我慢していたのに。まさに鳶に油揚げを掻っ攫われる、だ。
 矢張が女たらしなのは知っていたが、男までたらすことはないではないか。それも、よりによって成歩堂龍一を。
 二度と成歩堂に突っ込んだり出来ないように、矢張のそのようなアレをいっそのことちょんぎってしまいたい。矢張が突っ込んだ成歩堂の尻も思い切り引っ叩いてやりたい。
 いや、そんなことをする権利は、自分にはない。でも、もう自分は大事なものを失ってしまったのだ。
 目の真は真っ暗だ。当然だ、あまりのことに苦悩するように天を見上げながら目を瞑って歩いていたから。お陰で電柱に思い切り顔面をぶつけてしまった。
 あまりの痛みにちょっと涙が出てしまったけれど、それ以上に胸が痛かった。



「ふーぅ、ここまで柔らかくすればいいだろ!」
「て、何でぼくが柔軟体操に付き合わされなきゃいけないんだよ!しかもこんな夜中に!」
「仕方ないだろ!例のあのコ、体操教室の先生な訳よ」
「それとこれと、何の関係があるんだよ!だいたい、例のあのコって誰だよ!もういいから、気が済んだら帰れよ!!」
「ああ、ありがとうな、成歩堂」
「全く、体中が痛いよ」
 御剣が立ち去った部屋で、矢張と成歩堂が交わしていた会話は、当然打ちひしがれている当の本人に届くことはなかった。