Good Night
「まだ帰って来ないのかな、成歩堂さん」
「そうみたいですね」
「そうみたいって…心配じゃないの?みぬきちゃん」
笑顔で答えるみぬきに、王泥喜は両の拳を握り締めながら声を上げた。
もう今年も終わりだと言うのに、成歩堂が12月半ばに一度帰宅したきり、顔を見せないのだ。
そりゃ、元々あんまりしょっちゅう帰って来る人じゃないけれど。
「だいたい、もう年末なんだから、一回くらい顔見せてくれたって…」
もしくは、電話やメールのひとつくらい。
クリスマスも、てっきり皆でパーティか何かだと思ったのに。
結局帰って来なかったのだ。
今の時期、みぬきはショーで引っ張り蛸だし、殆ど無職のようなあの人も、こんな時くらいはピアニストもどきとしての仕事があるんだろうか。
「元気出して、オドロキさん。パパがいなくて寂しいのは解かりますけど…」
「なっ!何言ってるんだよ、みぬきちゃん!俺は別に、寂しいとかそう言うんじゃないから!」
「そ、そうですか…」
何気ないみぬきの言葉に、王泥喜はムキになって反論してしまった。
ともかく、彼が帰って来たら、今度こそしっかりと言っておかないと。
帰るなら帰る、帰らないならそう言ってくれれば、期待だってしないのに。
って……期待って何だ。
別に、全く持ってそう言うことじゃないのだけど。
ただそう、年の終わりくらい、ちゃんとけじめと言うか、そう言うのをきちんとして欲しいだけだ。
「じゃあ、ごめんなさい、オドロキさん。みぬき、帰りは朝になりますから」
「うん、行ってらっしゃい。頑張って来てね」
「はい!」
夕方頃、ショーへ出掛けるみぬきを見送って、王泥喜は深い溜息を吐いた。
成歩堂はやっぱりまだ帰らない。
(全く…いつ帰って来るんだろう、あの人は!)
だいたい、あの人が言ったんじゃないか。
この事務所で働かないかって。
なのに、当の本人は事務所のことは全部王泥喜に任せたまま、滅多に帰って来ない。
大掃除だって、王泥喜が一人でやったのだ。
それに、こんな忙しい年の瀬だと言うのに、この事務所は暇で暇で仕方ない。
成歩堂もみぬきもいない中、何だか自分だけが暇を持て余している。
別に、事務所なんて閉めて、友人のところへ行くなりなんなり、好きにすればいいのだろうけど…。
でも、もしかしたら今日こそは帰って来るかも知れない。
そんなことをぐるぐる考えていたせいか、夜になっても中々寝付けず、王泥喜はずっとソファの上で寝たり起きたりを繰り返していた。
彼のことなど放っておいてさっさと寝てしまえば良いのに、全く眠くならない。
そうこうしている内に、真夜中近くになり、流石にうとうとし始めたその時。
ようやく、カチャ、と事務所の扉が開く音がした。
(……あ!)
僅かな音だったけど、思い切り目が覚めた。
みぬきは朝まで帰らないと言っていたから、成歩堂がようやく帰って来たのだろうか。
それなら、今日こそは、絶対に一言言ってやる。
そんな決意を固めて、王泥喜はソファから飛び降りると、勢い良くの部屋の扉を開けた。
そうして。
「うわっ?!」
視界に飛び込んで来た成歩堂の姿を見るなり、びっくりして軽い悲鳴を上げてしまった。
「あれ、オドロキくん」
「あ、な……」
成歩堂さん、そう呼ぼうとして、王泥喜は口を開けたまま硬直してしまった。
「ああ、オドロキくん。悪いね、シャワーでも浴びようと思ったんだけど、起こしちゃったかい」
「い、い、いえ…っ」
そう言う彼は、着替えの真っ最中だったのか、殆ど衣服を身に付けていなかった。
歩きながら脱いでいたのか、彼が通った後に道しるべのように衣服が散らばっている。
かろうじてちゃんと下着は付けているけれど、家の中で目にするには結構刺激の強い格好だ。
そう言えば、衣擦れの音が聞こえていたような…。
けれど、イライラがピークだった王泥喜はそんなことに気を留めなかったのだ。
いや、でも。
そうは言っても、相手はれっきとした男だ。
しかも、33歳で、みぬきと言う娘もいて。
だから、全く持ってどうと言うことはない。
その筈、なのだけど…。
(う、うう……)
王泥喜は固まったようにその場から動けなくなってしまった。
(ええと、どうすればいいんだ?!)
まずは、とにかく落ち着こう。
そうだ、水着!水着だと思えば…!
夏には皆で一緒に海に行ったりしたのだから、見慣れている筈だ。
ここは、海。夏の海だ。そう言えば…。
海と言えば、あの時成歩堂は何故かあんまり泳ぎたがらなくて、砂浜で子供みたい膝を抱えて座ってばかりいた。
何だかちょっと、大きな子供みたいで面白かった。
成歩堂にもあんな一面があるなんて、事務所に来るまでは知らなかった。
って……。
(い、いやいや、そうじゃなくて!)
今は暢気にそんな思い出に浸っている場合じゃない。
どうやってこの場を切り抜けるかだ。
気を取り直して、王泥喜はちら、と成歩堂の方を見やった。
彼はこちらの視線にはお構いなく、相変わらず肌を大幅に露出した格好で、暢気にグレープジュースの瓶を呷っている。
彼が喉の奥にそれを流し込む度に、こく、こく、と小さく喉が鳴る。
何だか目が離せなくて、王泥喜は引き付けられるように魅入ってしまった。
何と言うか…なんでこう、成歩堂には妙な色気のようなものがあるんだろう。
それに、見れば見るほど…。
(って!じっと見てる場合か!)
目の前に映る光景と頭の中が噛み合わずに、王泥喜は半ばパニックを起こしていた。
きっと、おデコにはびっしりと変な汗が浮かんでいるに違いない。
ジュースの瓶を置いた彼は一息吐いて、ぐいと手の甲で唇を拭ったのだけど、その仕草にすら何だかドキっとする。
もう今日は、お説教なんか諦めて早く奥の部屋に行ってしまえば良いんだろうけど…。
足が床に張り付いたみたいに、動かない。
結局、どうすれば良いか解からないまま立ち尽くして、どれ位の時間が過ぎたのか…。
気まずい沈黙を破ったのは、成歩堂の方だった。
「どうしたんだい、オドロキくん、さっきから」
彼は何となく意味有り気な笑みを浮かべて、王泥喜の顔を覗き込んで来た。
「……え!いや、あの…」
咄嗟に返す言葉が見付からなくて口籠もると、彼は少し考える素振りをして、再び口を開いた。
「ああ、もしかして」
「な、なんですか」
「一緒に浴びたい、とか?シャワー」
「…!!そ、そ、そんなんじゃないですよ…っ!」
一体何を言い出すのか、この男は。
思わず咳き込みながら、王泥喜は大声を上げてしまった。
夜中だとかそんなことは、頭の中から綺麗に吹っ飛んでいた。
「そうかなぁ…。そんな風に見えるんだけど」
けれど、彼は未だそんなことを言いながら、何だか楽しそうに笑っている。
カァっと耳まで真っ赤になって、王泥喜は何度も首を横に振った。
「ち、ち、違います!!もういいですから!ふ、服着て下さいよ!」
言いながら、散らばった彼の服を掻き集めてぐいぐいと両腕に押し付ける。
「でも、これからシャワー…」
「もう遅いですから!明日入って下さい、明日!」
「ええー…。シャワーくらいいいじゃないか…」
「駄目です!絶対駄目です!」
王泥喜が強い口調で言い放つと、成歩堂はかなり不服そうにして、衣服を抱えたままで少し腰を屈めた。
そして、下から覗き込むように王泥喜を見上げる。
「頼むよ、オドロキくん…。入りたいんだ、どうしても…」
「……っ!」
無意識にねだるような声に、王泥喜は思わずごくっと息を飲んでしまった。
「た、頼むって、言われても…」
本人はただ嘆願しているだけのつもりなのだろうけど、そんな格好でされると、もう色気を振り撒いているとしか思えない。
血が昇って赤くなっている顔を見られたくなくて、王泥喜はそっと顔を伏せた。
何だかいても立ってもいられなくて、早くこの部屋から逃げ出してしまいたい。
と言うか、そもそも…自分はここへ何しに来たのだ?
一言言ってやろうと思っていただけであって、決して着替えを覗く為ではない。
それにしても…わざわざ着替えの最中に飛び込むなんて、自分のタイミングの良さにはほとほと感服だ。
(いやいや、そうじゃなくて!)
それを言うならタイミングの悪さだ!
「オドロキくん?どうしたんだい、何だか顔色が悪いけど」
「わぁっ!なっ…何でもありません!」
「……?」
すぐ側まで顔を寄せてこちらを覗き込んでいた成歩堂に驚いて、王泥喜は過剰なまでに反応してしまった。
あまりに大袈裟な反応に、流石に彼も少し怪訝そうな顔になる。
(ま、まずい…)
これでは、ただの変な人だ。早く落ち着かなくては。
やっとのことで何とか気を取り直すと、王泥喜は正面から成歩堂に向き直った。
「あの、成歩堂さん」
「何だい、オドロキくん」
「だから俺は…年末くらい、ちゃんと帰って来て欲しいなと言うか、ちゃんとご飯食べてるのかとか、そう言うことが言いたくて…」
「ああ…そうか。心配してくれたんだね」
「…っ!そ、そんなんじゃ…」
そんなんじゃありません!思い切り良く否定しようとした途端。
目の前で成歩堂がとびきりの笑顔を作り、王泥喜は思わず言葉を飲み込んでしまった。
そして、目を見開く自分の前で、彼は全開の笑顔のまま、ゆっくりと口を開いた。
「ありがとう、オドロキくん」
「……!!!」
どくん!と、意思に反して大きな音で心臓が高鳴った。
そんな顔をされては、この先の言葉が見付からないではないか。
「でも、大丈夫だよ。あとは正月の初めまで、ずっとここにいるから」
「あ…は、はい…」
「だから、その時一緒に入ろう」
「は、はい…」
そうか。じゃあ、来年の始めまでは、一緒に過ごせるんだ。
何だかホッとして、それから王泥喜はハッと我に返った。
「い、一緒に入るって何なんですか!!」
「え、だから、シャワーに…」
「は、入らないって言ってるじゃないですか!」
「でも…」
「もういいです!俺は寝ますから!!」
「ああ、お休みオドロキくん…」
成歩堂が言い終わらないうちに王泥喜は颯爽と身を翻して、脱兎の如く走り去り、バァン!と勢い良く扉を閉めた。
手と足が同時に出ていたけれど、この際どうでもいい。
凄まじい音を立てて閉まった扉を見詰めて、成歩堂は不思議そうに首を傾げた。
「もしかして…シャワーじゃなくて、ちゃんとお湯を溜めた方が良かったのかな…」
そして見当違いな台詞を呟くと、いそいそと服を着始めた。
その後、王泥喜はと言うと…。
なだれ込むような勢いで部屋に入ると、誰が忍び込む心配もないのに部屋の鍵を固く掛け、ベッド代わりに使っているソファの上に寝て、毛布を頭からガバリと被った。
忘れようと思えば思うほど、先ほどの成歩堂の笑顔だとか裸に近い姿とかがチラついて、どうにもならない。
よくよく考えてみれば、ここ数日彼が一体どこへ行っていたのかも解からず、言いたいことを伝えることも出来ず、何一つ解決していないのだ。
それなのに…何も出来ず逃げ帰って来るとは…。
(全く!何なんだよ、あの人は…!)
頭から布団を被って胸中で叫びながら…王泥喜はその晩、一睡もすることが出来なかった。
END