Grooming
牙琉霧人は、自身の事務所にある、ゆったりとしたソファにゆったりと腰掛けて、資料に目を通すのが好きだった。
そう、今自分が腰を下しているのは、普通の物とは値段が2ケタは違う、大きくてふかふかのソファ…の筈なのだけど。
何故か、今日は物凄く居心地が悪い。
寧ろ、3分の1程度しか使用していないので、狭い。
と、言うのも…。
「成歩堂…」
「何だい、牙琉」
「狭いのですが」
「…そうかな?凄く座り心地いいよ」
「……」
棘のある霧人の台詞に、残りの3分の2を陣取っていた男は、にこやかに答えた。
成歩堂の言う事は、尤もだろう。
彼の事務所やら自宅、そしてあのしがないレストランの椅子、どれと比べても、この上質のソファとは格が違う。
けれど、それは理由にならない。
「寛ぐなら家に帰ったらどうですか?」
「みぬきがさ、マジックの練習をするとかで、追い出されてしまったんだ」
「…そうですか」
(それが…何だと…?)
当然の突っ込みは胸中で返して、霧人はそっと眼鏡を指先で持ち上げた。
資料に全て目を通すまで、あともう少し。
別に、急ぎの仕事ではないけれど、完璧な仕事をすることに懸けている牙琉にとって、これは今日中に終らせてしまいたい作業だった。
けれど、それは完璧な環境があってこそ。
「はっきり言いましょう、邪魔です」
「…硬いこと言わないで欲しいな。問題はないだろう?牙琉先生」
「……」
相も変わらず、どかりと腰を降ろしたまま当たり前のように返されて、霧人は大きく深い溜息を付いた。
まるで、野良猫に懐かれたような気分だ。
暫く出て行くつもりはなさそうだ。
今日はもう…どうせ、仕事にならない、か。仕方が、ない。
頭の中を別のことに切り替え、霧人は開いていた資料をパタンと閉じた。
それを机の上に綺麗に重ねて置くと、隣に無防備極まりない様でいる男に向き直る。
「問題は…ありませんよ。ただ…」
「……?」
意味ありげに言って、霧人は不意に成歩堂の上に圧し掛かり、グッと体重を乗せた。
「このままでは…済まないかも知れませんが…」
二人分の重みで、成歩堂の体は背凭れをずるりと滑って、寝転ぶような体制になる。
一変した状況に、彼は僅かに目を見開いたが、すぐにいつもの気だるいような表情を浮かべて笑って見せた。
「先生がそうおっしゃるなら…」
「…よく言いますよ…」
寧ろ、全て承知の上だろうに。
溜息混じりに吐き出した呟きを合図に、霧人は彼との距離を詰め、そのままそっと顔を寄せた。
まるでお互いの出方を待っているように、浅いキスを繰り返す。
たまに下から見上げる成歩堂の目には、ただ霧人の姿がぼんやりと映っているだけだ。
一体、何を考えているのやら。
それは、この男…成歩堂も思っていることなのだろうが…。
けれど、何度もそれを繰り返して行くと、徐々に深いものに変っていくことも、もう知っている。
タイミングを見計らって舌を捩じ込むと、答えるように彼の舌が絡み付いて来た。
無言でそれを繰り返していると、成歩堂は不意に腕を上げて、それを霧人の首筋に回して来た。
抱き付く、と言うよりは、ただ腕を絡めているような感じだが。
呼吸を整える為に唇を離すと、彼のそれが霧人の首筋に移動して来る。
彼の舌と唇の動きも、何となくぎこちないのに、絶対に跳ね除けることは出来ないような甘さがある。
そう言えば…何と無く今日の成歩堂は、いつもより動物っぽい。
あるいは、本当に野良猫がじゃれついているような…。
野良猫の相手など趣味ではない。ましてや、こんな…。
「……ぅっ?」
場違いにも、そんなことをぼんやり思い浮かべていた霧人の首筋に、突然、鋭い痛みが走った。
成歩堂が、肌の上にカリと歯を立てたのだ。
軽く走った痛みに、一体何事かと距離を取ろうとしても、首に巻きついた彼の腕がそれを許さない。
何のつもりかと眉を顰めるが、彼がこう言う行動に出るのは非常に珍しく、黙って見守ることに決めた。
理不尽な痛みの分は後でたっぷり返してあげれば良いことだ。倍にして。
暫くの間そうして、ようやく気が済んだのか、成歩堂の腕はそっと解かれた。
噛み付かれた部分はまだ少しだけ痛む。
「痕が付いたらどうしてくれるんです?」
「大丈夫。見せようとしなければ見えないところだから」
「…私に、きみ以外とは交流するな、と?」
「ぼくはそこまで図々しくないよ、牙琉先生」
「……」
そんな台詞を吐く彼の行為が、口先と大いに矛盾しているのは明白だ。
「自分の矛盾は見てみぬフリですか」
「…ぼくはもう弁護士じゃないからね」
「やれやれ…呆れますね、きみには」
そんな、他愛もない会話を交わすと。
その後はお互い口を噤み、体温の上がった肢体でソファに深く沈み込んだ。
「んっ、…ぅっ」
先ほどから、掠れた成歩堂の声が途切れ途切れに上がって耳元に届く。
何度か行為を重ねて、既に知っている…彼の弱いところを重点的に攻めると、流石に無駄口を叩く余裕もないのか。
動きに合わせてひくひくと鳴る喉元に、霧人はそっと唇を押し付けた。
あくまで無意識なのだろうが…。
時折、熱を帯びて潤んだ目が、まるでこの先をせがむように、下からこちらを見上げて来る。
その目に誘われるまま、霧人は彼の中へと身を進めた。
何度も蕩けるような声が漏れたところで、不意にきつく肌の表面に歯を立てると、痛みの為か…ぎゅっと内壁が縮こまって霧人を締め付ける。
「ぁ…うッ…!」
「お返しですよ、さっきの…」
びく、と引き攣った肢体を見下ろして、意地の悪い台詞をさらりと吐き出す。
「ぅん…くっ…」
何か、皮肉でも言おうとしたのだろうけれど…。
増えた質量に耐え切れなくなったのか、薄く開きかけた唇からは、ただ切ない声だけが上がった。
もう、あまり余裕が残っていないのだろう。
けれど、残念なことにそれはこちらも同じこと。
頭を一つ打ち振ると、霧人はゆっくりと動きを再開した。
「きみが来ると仕事にならない…。暫く、きみは出入り禁止にします」
水分を含んだ気だるい空気が、部屋いっぱいに充満する中。
シャツのボタンを留めながら、霧人は未だだらりとソファに体を投げ出している成歩堂に、恨み言をぶつけた。
が、彼は一向に気にする様子はないらしく、返って来たのは、いつもと変らない曖昧な笑みと食えない台詞。
「構わないよ、裏口から入るからね」
(本当に、野良犬猫…と言う訳ですか)
それだけに、飼い繋いでおくことも出来ない…と言うことで。
「成歩堂」
「何かな?」
「今日はこの後も付き合って貰いますよ」
「ああ、それが・・・。悪いんだけど、そろそろみぬきの練習が終る頃だと思うんだ。お腹を空かせた子を一人にしておけないから、もう帰るとするよ」
「・……」
ぴき!と…霧人の額に青筋が浮かんだのを、知ってか知らずか。
「じゃあ又ね、牙琉先生」
暢気な笑顔と爽やかな台詞を残して、成歩堂龍一はそのまま颯爽と事務所を出て行った。
END