春
事務所のソファに腰掛けて来る当てもないお客を待ちながら、王泥喜は思い切り欠伸をした。
いつもなら、こんな時間も無駄にしたくなくて、雑用やら事務所の掃除やらに精を出すのだけど。何だか、無性に体がだるくて動きたくない。その上、凄まじく眠い。
(何だろう、この眠気)
頬杖を突いていると、うっかりうとうとしてしまう。こんな感じで午前中を過ごしている内に、気付くと時間はもう正午を回っていた。
そろそろ、昼食の時間だ。でも、別にお腹も空いていない。ただひたすら、眠い。別に一食くらい抜いてもいいか。
そんなことを考えていたら、事務所の扉がゆっくりと開いた。
「やぁ、オドロキくん」
そんな挨拶を述べながら姿を見せたのは、成歩堂龍一だ。気だるげな視線。でも、今の自分なら同じくらい眠そうな自信がある。
王泥喜がまだぼんやりしていると、彼はこちらに足を進めて、すぐ側まで来た。
「もう昼だけど、ご飯は食べたのかい?」
「ああ、いえ。まだです。何か、食欲ないんですよね」
はぁーと大袈裟に溜息を吐いてみせると、彼はパーカーのポケットの中から徐にリンゴを取り出した。
「大丈夫かい?良かったら、これあげるよ」
「あ、ありがとうございます……」
一体どうしたんだ、これ。この人のポケットは四次元か。なんてアホなことを考えつつも、王泥喜は素直にそれを受け取った。
と言っても、折角貰ったけれど、食欲が全くないのだ。成歩堂の好意は嬉しいけど、これは家にでも持って帰るとしよう。
そんな思いで見詰めていたら、何だか急にぐぅっとお腹が鳴った。
(……あれ?)
突然食欲が刺激されて、そのリンゴが美味しそうに見えたのだ。
鼻を鳴らすと、良い香りまでする。釣られるように一口かじると、甘酸っぱくて、爽やかな味がした。
(美味しい……)
ついでに目も覚めた。睡眠欲が、食欲に摩り替えられたみたいだ。
「じゃあね、オドロキくん」
「あ、はい」
一体、何の用だったのだろう。王泥喜がリンゴを平らげるのを見届けてから、彼は颯爽と出て行った。
その翌日。
「ふぅー」
昨日と同じくソファに腰を下ろしながら、王泥喜は深い溜息を吐いていた。
やっぱり、酷く眠い。これが、春眠なんとか、ってヤツか。朝は布団から出たくなくて苦労した。それに、もう昼過ぎだと言うのに、やはり食欲もない。
そんな感じでぼうっとしていると、又しても成歩堂龍一が姿を見せた。
「やぁ、オドロキくん。どう、儲かってる?」
弁護士に言う台詞かと思いながら顔を上げると、彼は口元に笑みを浮かべてみせた。
「どうかしたのかい、ぼうっとして」
「え、あ……、すみません」
言いながら、すぐに顔を伏せる。
そんな側で覗き込まないで欲しい。何だか、落ち着かない。
気まずさを感じて俯いたままでいると、彼は王泥喜の目の前にグレープジュースのボトルをずいっと差し出した。
「飲む?」
「……え?」
「何だか、凄く欲しそうな顔してたから」
「お、俺は、別に……」
別にそんなつもりじゃない。物欲しそうな顔なんて、したつもりない。
食欲もないし、喉も全く渇いてないから。
でも。目の前に差し出されたボトルを条件反射で受け取ると、ふわりとグレープの香りがした。
(いい匂い)
その香りにまた誘われて、咄嗟にボトルを傾けて、こく、と一口含んでいた。喉の奥へ流し込むと、甘くて冷たい感触がする。
凄く美味しい。喉が潤って、満たされる。
喉渇いてたのか。あまりの眠気に気付かなかった。
「じゃ、またね、オドロキくん」
「は、はい」
王泥喜がボトルを返すと、成歩堂は暢気に手を振りながら、また事務所から出て行った。
(何してるんだろう、あの人)
疑問を抱くと同時に、また眠気が襲って来た。
その次の日も、その次も、同じようなことが起きた。
成歩堂は昼やら夕方やらにちょこちょこ顔を出しては、食欲のない王泥喜にお菓子や果物やらをくれた。それは、茜に貰ったと言うかりんとうだったり、牙琉検事に貰ったと言うバレンタインの残りのチョコだったりしたけれど、何だかどれも凄く美味しかった。彼から貰ったものだけは、何故かすんなり喉を通る。そのときだけは食欲が沸き上がる。
そんなだからか、いつの間にか、成歩堂が来るのが楽しみで仕方なくなっていた。あの人が来ると、眠気が治まる。代わりに食欲が刺激される。
そして、今日も。
「また、そんな顔して。今日は悪いけど何も持ってないよ」
そう言って、微笑を浮かべた成歩堂の顔を、王泥喜はぼうっとしたままの視界でじっと見詰めていた。
何も持っていないのか。それは、残念だ。これじゃあ、眠いままだ。
(いや……)
いや、でも、そうじゃない。いつの間にか、眠気が冷めている?
気付くと同時に、何故か、じわ、と頭の奥が痺れた。
(……え)
何だ、今の。
成歩堂の顔をじっと見ていただけなのに、今、何か変だった。
もしかして――。
「オドロキくん?」
「あ………」
認めた瞬間、眠気が完全に覚めた。でも、だからって、いつものように食欲に摩り替えられた訳じゃない。いつも彼のことをどんな目で見ていたのか、今ようやく気付いた。彼の言う通り、自分は物欲しそうにしていたのだ。ただし、欲しかったのは食べ物じゃない。
睡眠欲でも食欲でもない。もう一つの欲求。
「どうしたんだい、オドロキくん?」
そんな風に首を傾げて自分の名前を呼ぶ彼の唇に、思い切り噛み付きたい。何の戸惑いもなく深く口付けて、その口内を思う様味わいたい。そう感じると、ごく、と見っともないほど喉が上下した。
「俺、解かりました」
「な、何が?」
思い切り立ち上がると、つかつかと歩み寄って、がし、と彼の両肩を捕まえる。パーカーのポケットに手を突っ込んだままの成歩堂は、何が何だかと言う様子で目を見開いた。
その表情に、ぞくぞくする。もっと、そんな顔が見たい。
本当に急なことだったのに、溢れて来る衝動は止まらなかった。
「オドロキくん?」
「何も持ってないなら、代わりにあなたがいいです」
「え……?」
曖昧な言い方に、意図していることを理解出来なかったのか、成歩堂は目を見開いて聞き返して来たけれど、そんなこと口に出して言えない。
成歩堂龍一、彼が食べたいなんて。
言葉にする代わりに、ぎゅっとその肢体を抱き締めて、かぷ、と彼の首筋に噛みついた。
「……っ?!」
途端、びくっと肩が揺れたけれど、もうそんなことじゃ治まらない。
リンゴでも、グレープジュースでも、お菓子でもチョコレートでもない。本当に食べたかったのは、この人だ。
はっきり言えば、ずっと欲情してたんだ、この人に。
きっと、春だから。みっともなく、発情してる。
成歩堂は、戸惑っているようだったけれど、王泥喜を拒絶しようとはしなかった。王泥喜がどうしてこんなことをしているのか、確かめたいのかも知れない。
それに甘えて、このまま続けていいんだろうか。
(いいよな、春だし)
勝手な結論を頭の中で弾き出して、王泥喜はそっと彼のパーカーのジッパーに手を掛けた。
(……いただきます)
心の中で手を合わせ、ジッと音を立てて下に引く。
成歩堂が、わっ、だとか、うわっ、だとか、そんな間抜けな声を発したけれど、殆ど耳に入って来なかった。
ついでにこれ以上何か言われないように、彼の唇に自分のものを押し付け、ちゅ、と音を立てて吸い付く。
「んっ、――んぅ?」
目を見開いた成歩堂が息を飲んで呻いたけれど、そんなことにも構っていられないくらい夢中だった。
もっと、と言う欲求に煽られるまま、ゆっくりと口内に舌先を捩じ込んで、何度も吸い付いていると、やがて成歩堂も抵抗を止めて大人しくなった。
「んっ、……っ」
時折堪らないように上がる声が、耳元を掠めると、頭の奥が痺れる。でも、いくらこうして深くキスしても、口内を貪っても足りない。もっともっと。そんな気持ちのまま、衣服を掻き分けて、王泥喜は更に行為を進めた。
ハッと我に返ると、心地良い疲労感と満腹感でいっぱいになっていた。でも、流石に目の前の惨状に我に返って、真っ青になる。成歩堂の衣服も自分の衣服も乱れに乱れているし、彼の内股には白い体液が伝っている。紛れもなく、自分のに違いない。それに、夢中だったせいか、あちこちに噛み痕のような痣がある。これは、ちょっと、いくらなんでもやり過ぎだ。
「あ、あ、あの……、俺……っ」
どうしよう、とんでもないことをしてしまった。
今更慌てふためいたけれど、どうしようもない。
王泥喜が青褪めていると、成歩堂はゆっくりと衣服を整えながら、はぁ、と長い溜息吐いた。
「まぁ、何でこんなことしたのかはともかく……。何か、ぼくに言うことは?」
「え……、あ……」
そうだ。ここまでのことをしてしまったのだから、ちゃんと言わなくては。
ちゃんと――。
「え、ええと、ご、ごちそうさまでしたっ!」
「…………」
「あ……!いえ、そうじゃなくて!」
「……もういいよ、お粗末さまでした」
何だか呆れたようにそう言って、ポンと王泥喜の頭に手を乗せると、成歩堂は衣服を整え、よろよろとよろけながらバスルームへと向かって行った。怒っている様子は、全くない。
その後ろ姿を見て王泥喜が感じたのは、後悔でも罪悪感でもなく、ただ、もう一回食べたい、と言うことだけだった。
終