Haze
一段ずつ、ゆっくりと階段を降りる度に何だか気分が重くなる。けれど、足を止める気は毛頭ない。頭のどこかでは引き返せと言う声も聞こえたけれど、もう遅い。
今の心中と同じくらい重たい扉を押して部屋の中へ入ると、そこにいた男はこちらの姿を見て、少なからず驚いたようだった。
咄嗟に、牙琉……と呼び掛けようと動いた唇が途中で止まる。ここは暗いし、きっと一瞬だけ兄と間違えたのだろう。
けれど、そうではないと解かると、彼……成歩堂龍一は静かに笑ってみせた。
「どうしたんだい?検事局きってのスター検事さんがこんなところに……」
「……」
「ああ……。きみも……ゲームでもしに来たのかい」
「いや。残念だけど違うよ。それに、好きで来た訳じゃない……」
気を取り直すように指を軽く鳴らして、気だるそうな視線を送る目の前の男を見詰める。もう、少し前の面影など微塵もない。どこからどう見ても、元弁護士には見えない。
改めて彼の顔をじっと観察でもするように見て、響也は深い溜息を吐いた。ここへ来たのは、間違いだっただろうか。足を運んだ経緯を考えて、響也は苦い表情を浮かべた。
あれは、もうかなり前。あの裁判から数日しか経っていない頃のことだ。
牙琉霧人弁護士、自分の兄と、あの成歩堂龍一が何度か一緒にいるのを見たという噂は、以前から何となく噂で聞いてはいた。けれど、実際にそれを目の当たりにしたのはその日が初めてだった。
用事があって兄の弁護士事務所を訪れたとき、その入り口付近に立っている成歩堂の姿を見つけた。しかも、側には兄がいて、何だかやたらと親密そうに話し込んでいた。二人は会話に夢中なのか、響也の存在には気付かない。
一体何を話しているのかよく聞こえなかったけれど、どうでもいいし、興味もない。兄には兄の考えがあってのことだろうし、どうせすぐ繋がりなんてなくなるだろう。エリートそのものの優秀な兄と、運だけで勝ち上がって来た成歩堂。元々、住む世界が違うのだ。
でも。
ややして、ようやく話が済んだのか、別れ間際に立ち去ろうとした成歩堂の腕を、霧人が突然掴むのが見えた。急に視線を辺りに巡らせるような仕草に、慌てて身を隠す。覗いていたのがバレたら、嫌味の一つでも言われるに違いない。ただ、そう思っただけだ。
けれど、その直後。霧人が、掴んだ成歩堂の腕をそっと引き寄せて、顔を寄せるのが見えた。
「……?!」
(……え)
ほんの少しの時間だったけれど、確かに兄は彼にキスをしていた。あまりのことに、瞬きをするのも忘れてただ呆然とその光景を見ていた。
でも、驚いたのは成歩堂も同じだったのか…。
「牙琉先生……!」
目を剥いて霧人の手を振り払い、彼は酷く狼狽したように声を荒げた。その取り乱した様子に、霧人がふっと口元を綻ばせる。
「すみません、きみがあんまり無防備なので、つい……」
そんなことを心底愉しそうに言って、霧人は成歩堂から離れた。
(兄貴……)
冗談とは言え、性質が悪い。どうして、あんな男に。
ざわざわと、胸の中が不穏に騒ぐ。あのときの顔が引っ掛かって離れない。兄はあんな性質の悪い戯れをするような人間じゃない。
それに。
(それに、何だってあの男なんだ!)
兄のこともそうだし、何より、あの裁判が忘れられない。
霧人は、彼をろくでもない男と言っていた。でも、あのときの成歩堂龍一の目。偽造しようと言う弁護士が、あんなに堂々と真っ直ぐな目を出来るんだろうか。
いや、でも、自分は間違っていない。
そう思わないと、何だか足元から何かが崩れてしまいそうな気までしていた。
霧人が、成歩堂の処分に異議を唱えたことは知っている。きっと、兄にも思うところがあったんだろう。
でも、それだけならともかく、その後一年ほど過ぎても、兄はまるで寄り添ってでもいるみたいに彼の側にいた。それがどうしても理解出来なくて、不愉快だ。
もう、自分の中に燻る苛立ちも焦燥も、さっさと昇華してしまいたい。
その後も、あの弁護士の噂はたびたび耳にすることがあった。今はボルハチと言うレストランで、あろうことかピアニストとして働いているとか。そして、彼がそこで仕事をするようになってから、ある噂も飛び交うようになっていた。
成歩堂龍一は、ポーカーで無敗。
それが、どうしたって言うんだ。
元弁護士が、ポーカー?馬鹿馬鹿しい。
それで、何が何だか解からないまま、気付いたら足がここへ向いていた。この薄暗い地下の部屋に、彼はいるらしい。
居心地が良いとは到底思えない。薄暗くて鬱蒼とした、落ちぶれた人間に相応しい場所だ。
響也は気を取り直すと、揶揄するように口を開いた。
「噂以上だね、成歩堂龍一」
「……」
「こんな場所で、元弁護士さんは何をしてるんだい」
「勝ちが欲しくて、証拠を捏造、でも若い検事さんに暴かれ、被告人は逃走、ぼくは弁護士バッジをなくした。それで親切な弁護士さんの好意にあやかって生きてる。こう言えば満足かい」
「……っ!!」
霧人のことを暗に示唆する台詞に、何故だかカッとした。思わず何か声を荒げそうになるのを押さえて、一度軽く咳払いをする。それから、気を取り直して口を開いた。
「兄貴は……何だってあんたなんかにそんなに構うんだい」
「さぁね、優しいからじゃないかな」
「ふざけないでくれないか」
「ふざけてるつもりはないよ」
どう考えても、真面目に答える気なんてなさそうだ。それとも、本当に何も知らないとでも?
ざわざわとした不快感に煽られるまま、響也は段々と自分の感情が酷く高揚していることに気付いた。
「じゃあ、はっきり聞こうか。あんた、どうやって兄貴を丸め込んだんだい?」
「人聞き悪いこと言わないで欲しいな、牙琉検事」
「しらばっくれるのは止めてくれないかい。兄貴が、理由もなくあんたに構うはずないじゃないか」
「……そうだね」
「……」
「どうしてか、知りたいかい?」
ふ、と口元を歪めて彼が笑みを零した瞬間、あの光景が頭の中を過ぎった。
霧人がそっと顔を寄せて、彼の唇を塞いでいたこと。
その直後、気が付いたら至近距離にあった彼のその唇に、切れそうなほど強く自分のものを押し付けていた。
甘い雰囲気なんてどこにもない。ただ、怒りに任せたような乱暴なものだったのに。触れた瞬間、頭の奥で何かじわりと痺れるような感覚が湧き上がった。
それに、ぐぐ、と強く押し付けても、成歩堂は一切抵抗しない。自分だけムキになっているのが、何だか気恥ずかしいような気がして、響也はややしてゆっくりと彼の襟首を掴んだ手から力を抜き、そっと唇を離した。
けれど、あまりに強く触れていたせいかなんなのか、未だにリアルに唇に残る感触に、酷く落ち着かない気分になる。キスなんて、なんでもない。今まで、色々な人と交わしたこともある。
ぐい、と拭う仕草をしながら、響也は急に妙な罪悪感に襲われた。もしかしたら、あれは兄がただふざけていただけかも知れない。兄だって人間だ。たまにはあんな風に異色なことだってやりたくなるのかも知れない。
「あ……今のは……」
そう思うと急にいたたまれなくなって、その場を取り繕うとしたけれど。言い掛けた言葉に、成歩堂の声が重なった。
「きみたち兄弟は……キスするくせでもあるのかな」
「……!!」
冷えかけていた頭に、再びカッと血が上った。
彼と兄が、そうしていると言う台詞。実際目にしたのだから、間違えようもないことなのに。彼の口からそれを聞いた途端に、何だかどこかで糸が切れてしまったような気がした。
力が抜けて今にも離しそうになっていた襟首に再び力を込めて、ぐっと持ち上げる。呼吸が詰まったのか、少しだけ眉根を寄せた彼を見下ろして、響也は先ほど気付いた高揚感がより増していくのを感じていた。それが、いつの間にか乱暴な衝動へと置き換えられる。
もう一度、ぐっと強く唇を寄せて、今度は遠慮なく口内までも無茶苦茶に侵蝕した。
散々深くキスを交わした後、ようやく彼を解放すると、成歩堂の乱れた呼吸が室内に聞こえた。それだけではなく、自分のどくどくと煩く鳴る心臓の音までも聞こえる。
響也は一度唇をぐい、と手の甲で拭うと、そのまま彼の衣服を緩めて、中央にあるテーブルの上に押し倒した。
「どうやって兄貴に近付いたのかなんて、あんたに教えて貰うまでもない。ぼくが確かめてあげるよ」
「牙琉……」
驚いたように目を見開いた彼は、その後何て言おうとしたのか。兄のことなのか、この自分のことなのか。確かめる前に、響也は再び彼の唇を乱暴に塞いだ。
この行為には、何の感慨もない。心が伴わない、ただの、戯れだ。なのに、触れただけの柔らかい唇に、先ほどと同じように頭の芯がじわりと痺れた。
終