ヒロイズム




パァン!
事務所いっぱいに大きな平手の音が響き渡って、続いてバタバタと走り去る足音。
後に残された成歩堂は頬の痛みを堪えて、赤くなったその場所をそっと掌でさすった。

「大丈夫?なるほどくん」
「う、うん。相変わらず春美ちゃんのビンタはきくなぁ…」

真宵が側に走り寄って来て、心配そうに顔を覗き込むのに、涙目で返事を返す。
いつもながら、春美の平手は色々な意味で堪える。

「ごめんね…。今日の依頼人、女の人だって、あたしが言っちゃったから」
「いや、いいよ…別に」

以前から、真宵以外の女の人の話にはやたら敏感な春美だけど。
ここ最近は、どうも以前より手が早いような…。

「でも何だかお金持ちそうな人なんでしょ?家に呼びつけるなんて、初めてだよね」

ぼんやり考え込んでいると、真宵は水で冷やした濡れタオルを差し出しながら言った。

「うーん、そうなんだけど。何だか気が進まないんだよなぁ」

依頼の電話が掛かって来たのは、午前中のこと。
これから今すぐ来いだなんて、随分ぶしつけだと思う。
それに、何だか神経質でヒステリックそうな女性だった。

「いっちょ頑張ってね、なるほどくん!」

成歩堂が重い溜息を吐くと、真宵は両方の拳をぎゅっと握り締めて激励してくれた。

「うん、そうするよ。って、真宵ちゃんは来ないのか?」
「今日はこれからトノサマンのスペシャル番組があるんだよ。なるほどくんの分も、しっかりあたしが観ておくから!」
「そ、そう…」

トノサマンなら、仕方ない。何を言っても彼女は来ないだろう。
何となく、一人で行きたくなかったのだけど、まぁいい。
ネクタイを締め直して、成歩堂は支度を整え始めた。



「ねぇ、なるほどくん」

ネクタイをいじる成歩堂の姿を、背後から真宵が覗き込んで呼び掛ける。

「…ん?何?」

振り向くと、彼女はにこりと意味有り気な笑みを浮かべた。

「はみちゃんて…もしかして、なるほどくんのこと好きなのかなぁ…」
「え?な、何で?」
「うーん。はみちゃんが怒るのって、殆どあたしの為なんだと思うけど…。何か最近は、自分のことみたいに怒ってるんだよねぇ…」
「……」

確かに。それは、成歩堂も何となく感じてはいた。
今までなら、依頼人が女性だと聞いただけで、あんなに怒らなかったように思う。

「なるほどくんのこと、王子様みたいに思ってるのかもね」
「王子様、か…。ぼくのガラじゃないよ」

うーんと一つ唸り声を上げて、青いスーツの上着を羽織る。
背中の方で、『じゃあ、はみちゃんはお姫様かぁ』などと呟いている真宵の声を聞きながら、成歩堂は重い足取りで事務所を後にした。



依頼人の家は本当に裕福なのか、大層な豪邸だった。
綺麗に手入れされた庭は広過ぎて、玄関に辿り着くまでに成歩堂は息切れをしてしまった。

「どうも、弁護士の成歩堂龍一です」

浮き出た汗を拭いながら、出迎えた五十代くらいの女の人に挨拶をすると、彼女は品定めするように成歩堂を上から下までじろりと見た。

(うう…嫌な感じだなぁ)

じっとりと絡み付く視線に、既にもう、帰りたい気持ちでいっぱいになってしまった。



「だいたい、知り合いの検事があなたを推薦したのでなければ、こんな名もない弁護士になど頼まなかったのものを…」

応接間に通されてソファに腰掛けるなり、熱い化粧を施した顔を歪めて、彼女は溜息を吐き出した。

「い、いえあの、名前は一応あるんですけど…」
「……」
「な、何でもありません」

じろりと睨まれて、成歩堂は居心地が悪そうに口を噤んだ。
これは…大丈夫なんだろうか。
それに、知り合いの検事とは…。

(もしかして、御剣かな)

もしくは、誰かが御剣に相談して、彼が自分の名前を出したのだろうか。
幾らでも予想はついたが、今はそんなことを考えてみてもどうしようもない。
女性は相変わらず成歩堂に如何わしそうな目を向けていた。
自分が若過ぎるのかも知れないが、こんなことでは信頼関係など築けそうもない。
依頼の内容に辿り着く前に疲れ果ててしまいそうだ。

「それにあなた、そんなに有名ではないわよね」
「え、ええ…そうですね」

彼女の嫌味っぽい口調は続く。

「この尖った頭と言い、眉毛と言い、とても縁起が良さそうには見えないですし・・・」
「は、はぁ…」
「顔もパッとしないし、いかにもうだつの上がらなそうな…。どうせお願いするなら私ももっと名声のある然るべき方に…」

自分で電話を掛けて来ておいてそれはないだろう。

(うう、全く…。もう帰りたいよ、本当)

あまりの居心地の悪さに、冷や汗だらだらになってしまった、その時。

「もう、お止め下さい!!」

急に、やたらと必死な様子の大声が扉の方から聞こえた。
聞き覚えのある声に驚いて振り向くと、小さな拳をぎゅっと握り締めて、和服の袖をしたたかに捲り上げた春美の姿があった。

「……?!は、春美ちゃん?」

一体、いつの間に入って来たのだろう。
それに、どうしてここに。
色々な疑問が浮かんで、呆然としている間にも、春美はその大きな目を怒りでいっぱいにして叫んだ。

「なるほどくんを…なるほどくんを悪くおっしゃると、許しません!!」
「な、何なの、あなたは…!」
「春美ちゃん!」

依頼人の声で我に返って、成歩堂は慌てて春美の側に駆け寄った。

「春美ちゃん、いいから」

なだめようとする成歩堂の手を振り切って、春美は尚も続けた。

「なるほどくんは、なるほどくんは・・…とても頼りになって、真宵さまをいつも助けて下さって、わたくしなどにもとても優しくして下さって、本当に立派な方なんです!!」
「春美ちゃ…」
「そ、それを!!そんな風におっしゃるなんて…わたくし、わたくし…う、う、うわぁぁぁん!!」

興奮のあまりパニックになってしまったのか、春美はわぁっと思い切りよく泣き出してしまった。

「弁護士さん!一体何なの、この子!!」

これはもう、収集がつかない。仕方ない。

「すみません…。ぼくはもう帰ります。申し訳ありませんが、依頼も…誰か別の方にお願いして下さい」

そう言うと、成歩堂は依頼人の女性に背を向け、春美を片手でひょいと抱き上げた。

「ちょっと!待ちなさい!」

ヒステリックな声が聞こえたけれど、振り向くことなく。
春美を抱き抱えたままで玄関を飛び出して、広い庭を走り抜けた。



外に出ても、春美はなかなか泣き止んでくれなかった。

「もう大丈夫だから。ほら、ジュース買ってあげるよ」

何度も頭を撫でて、慰めの言葉を掛ける。
数分後。
ようやく何とか落ち着くと、彼女は恥ずかしそうに俯いてしまった。

「申し訳ありません…なるほどくん」
「いいんだよ。でも、何であそこに?」
「…わたくし、心配で…」
「え……」
「女の方がどんな方なのか知りたくて、こっそり後をつけさせて頂いたのです」
「そ、そうだったんだ」

全く気付かなかった。
道端の自動販売機で買った冷たいジュースを差し出しながら、成歩堂は彼女の行動力に感心してしまった。
流石に、倉院の里から走ってやって来るだけのことはある。
本当に、適わない…。
先ほどの春美の必死な様子を思い浮かべて、成歩堂はふっと笑いを零した。

「ありがとう、春美ちゃん」
「え……」
「さっき、ぼくの為に怒ってくれたんだよね?」
「で、ですが、わたくし、なるほどくんの大事なお客様を…」
「いいんだよ、気にしてないから」
「なるほどくん…」

にこりと笑い掛けると、ようやく春美の顔にも笑顔が浮かんだ。



帰る途中で、春美は泣き疲れて成歩堂の背中に負ぶさったままで、すやすやと寝息を立てて眠り出した。
そう言えば、背中に圧し掛かる春美の感触。
以前より、少しだけ重たくなったような気がする。
背も少しだけ伸びたように見える。いつの間に…。
少し前に、矢張に言われた言葉が成歩堂の頭の中に浮かんだ。
春美の変化に気付かない自分に、お前が見てあげてないから気付かないんだって…。
確かに、そうかも知れない。
彼女はちょっとずつ大きくなって、成歩堂の知らない間に色々なことを考えて成長しているんだろう。

「なるほどくん……」
「……ん?」

不意に呼び声がして返事を返したけれど、春美からそれ以上は何も聞えなかった。
どうやら、寝言らしい。
いつもならここで来るのは『真宵さま…』だったように思うのに。

「……」

『はみちゃんて、なるほどくんのこと王子様みたいに思ってるのかもね』

真宵の言葉を思い出して、成歩堂はそっと振り向いて背後の春美の寝顔を見やった。
王子様と言えば、お姫様のピンチに颯爽と現れて助けてくれる、ヒーローみたいな人だ。
小さな少女の小さな願い。
出来れば、いつだって叶えてあげて、理想のままでいてあげていたいけれど。
颯爽と助けに来て全身で守ってくれようとしたのは、寧ろ彼女の方だ。

「やっぱり、ぼくには向いてないみたいだよ」

この子の王子様なんて。
でも…丸っきり保護者って訳じゃない。
じゃあ、何だろう。
何か考えようとして、成歩堂は思考を停止させた。
今は未だ、このままでいいのかも知れない。
背中に春美の温かさと重さを感じながら、ちょっぴり複雑な思いを抑えて、成歩堂は小さな溜息を吐き出した。



END