氷雨3
目の前に、あのマスクがぼやけるほど近くにある。
そして、口元には温かい濡れた感触。
口内に潜り込んで来た柔らかいものは、少しだけ苦い味がした。
自分が何をされているのか気付くまで、少し時間が掛かった。
「ん、んん…っ!」
キスされているのだとようやく悟ったときには、逃げられないようにきつく押さえ込まれて、動くことが出来ない。
それ以前に、逃げ出すことなど忘れてしまったように、体が動かない。
無防備な肢体にゴドーの手が伸びて、衣服が乱暴にはだけられた。
「っ…!」
唇を塞がれたまま、びく、と肩が揺れて。
成歩堂の喉の奥で、意味をなさない声が小さく上がった。
衣服の中に潜り込んで来た手は、何故かとても冷たかった。
雨に濡れて震えていたのは、もう大分前のことだし。
熱いほどに煮えたぎったコーヒーを注いだカップを、ついさっきまでその手に持っていたはずなのに。
冷たい手の平に、体温と動きを奪われる。
逃げ出すことが出来なかったので、代わりにただ黙って、真っ直ぐな視線で彼を見詰めた。
「…そんな顔するな」
「……」
ゴドーの声が降ってくる。
「ここで、あいつみたいな目で…」
「……?」
よく聞き取れないまま、彼の言葉は途切れて、代わりに行為が再開された。
あいつ…?
誰かと、混同しているのだろうか。
けれど、耳元に聞こえて来た彼の言葉は、命令口調と言うよりも胸の奥底から懇願でもしているような声で、それ以上は何も言う事が出来なかった。
尚もじっと視線を送っていると、ゴドーの手が伸びて、そっと成歩堂の両目を覆った。
「……っ」
ぐっと押し付けられた手の平に視界が塞がれて、思わず身が竦む。
けれどゴドーの指先は止まることなく、尚も衣服を掻き分けて、開いた方の手で肌の上を辿り続けた。
愛撫と言うに程遠くて、内部まで乱暴に暴かれるような感覚に怯えながらも、時折甘く走る痺れに逆らえない。
「……ぁっ!」
内股を伝って奥まで差し入れられた指先が、熱い体の中へと潜り込む。
「…っ、痛…」
「俺を煽ったのはあんただ。これくらい、我慢しな」
「…ぼくが、何を…っ、あ…っ!」
息も絶え絶えに上げた問い掛けは、内部を押し広げる乱暴な動きに途切れてしまった。
一体何が、彼の琴線に触れたのかは解からない。
でも。
口ではそう言っているけど、彼の指先は成歩堂を傷付ける気など、微塵もなさそうだ。
ただ、何かに流されまいとして、躍起になっているように感じる。
視界が覆われて彼の顔が見えない分、剥き出しの感情が成歩堂の上に直に降り注いでいるように思えた。
痛みに翻弄されながらも、やっぱり、何か感じる…と思う。
敵意だけじゃない、どうしてそんな風に思うのか。
でも本当は、彼をここに連れて来たときから、解かっていたのかも知れない。
ずっと感じている懐かしさの正体。
でも、それはあり得ないことで、何だか、決して口にしてはいけないことのように思えた。
それに、彼もきっと…同じような感情を抱いているに、違いない。
理由は解からないけれど、何故かそんな確信があった。
そうして、一旦集中し始めると、彼は深く深く行為に没頭して、他のことなど見えてもいないように成歩堂の体を暴き始めた。
打ち込まれたものが何度も内壁を突き上げて、その度に痛みを忘れるような痺れが走る。
「う…っ、ぁ…く!」
繋がっている部分がやたらと熱くて、中から蕩けそうだ。
何故か嫌悪は感じない。
それに、彼は時折何かを思い出したようにハッとして動きを止め、壊れ物でも扱うように優しい刺激を与えて来る。
交互に与えられる感覚のギャップに頭がどうにかなってしまいそうだ。
声を塞ぐようにして降って来るキスも、揺さ振る動きも何もかも激しくて、息が苦しくなる。
何をそんなに、焦っているのだろうか。
気のせいかも知れないけれど、そう感じる。
「く…っ、ゴドーさ…ん、止め…っ」
少し加減して欲しくて声を上げたけれど、言葉にならない。
第一、彼に自分の声など届いているかどうか…。
けれど、どこまで抉られるのかと思うほど深く繋がって、滅茶苦茶に突き上げられて、やがては抵抗することも忘れしまった。
それから、どの位経ったのだろう。
ゴドーが帰った後も、成歩堂は何もする気にならず、彼の余韻が残る事務所でぼんやりとしていた。
でも、いたずらにぼんやりしている訳じゃない。
何だか彼の一部が自分の中に流れ込んで来たようで、酷く切ない気持ちだった。
苦い涙が勝手に溢れて来て、頬を伝ってぼたぼたと零れ落ちるのを、止めることが出来ない。
それは、自分が千尋を思い出して苦しくなる気持ちによく似ていた。
ただ、彼のはもっと、ずっとずっと深いものなのだろうけど。
一体、彼は何だと言うのだろう。
あの検事のことをもっと知りたいと、その時初めて思った。
そう言えば、いつだったか…。
決してあんたを認めないと、ゴドーに言われたことがある。
もし、彼が成歩堂の本当の名前を呼ばないのが、そのせいなのだとしたら。
彼が成歩堂のことを認めたら、その時は自分も呼ぶのだろうか。
今は誰も知らない、彼の名前。
(本当は、何て言うんだろう、あの人…)
そんなことを考えていると、ふと、テーブルに置かれたままのカップに目が留まった。
ゴドー検事が飲み残していったコーヒー。
―この味が解かる、大人になることだ。
彼はそんな風にも言っていた。
ゆっくりとした動作でカップを掴み、一口飲むと、口内に苦い味が広がった。
美味しいだなんて、到底思えそうもない。
自分にはまだ、色々解かりそうもない。
「苦い……」
一言だけ呟くと、カップを静かにテーブルに戻して、成歩堂はバスルームへと足を運んだ。
END