星月夜




カツ、と軽快に踵を鳴らして一歩足を進めると、視線の先で蹲っていた男は、ゆっくりと顔を上げた。
赤いマフラーに、ショッキングピンクのセーター。
既に真夜中で、辺りは街灯もない暗がりの中だったけれど。
彼の姿は、夜空いっぱいに広がった星明かりの下に浮き上がって見えた。
今夜の星は本当に明るい。
きっと、彼の視界には、自分の白いワンピースがくっきり浮き出て見えるだろう。

「ちい、ちゃん…?」

やがて、彼は自分を見上げ、寝惚けたような声を上げた。

「リュウちゃん、大丈夫ですの?お友達と飲まれると聞いていましたけど…これは飲み過ぎですわ」
「うーん…大丈夫。全然大丈夫だよ、ちいちゃん」

そう言ってはいるが、明らかに口調はろれつが回っていないし、視線も覚束無い。
ちなみは側に屈みこむと、何気なく手を伸ばして、その相手…成歩堂の頬にそっと指先で触れた。
触れた場所から、彼のぬくもりが伝わってくる。

「顔が熱いですわ、まだ酔っていらっしゃるのね」

そう言うと、不意に、蹲っていた成歩堂が腕を上げ、頬に触れたままのちなみの手をぎゅっと握った。

「ちいちゃん…」

うっとりとしたような声色に、ハッとする。
少し、無防備に触れ過ぎてしまったらしい。

「ちいちゃんの手、冷たくて気持ち良い…」

直後、その手が軽く引かれて。キスされる、そう思った。
実際、こんな近い距離に顔を突き合わせて、今までそうしようとしなかった男はいなかった。
まぁ、少し癪だけど、そのくらい大したことじゃない。
さっさと済ませて欲しい。
胸中でつまらなそうに呟いて、ちなみはその瞬間を待ったのだけど。
いつまで経っても、その瞬間は来なかった。
その代わりに…。

「ちいちゃん、やっぱり可愛いね、本当に」
「……!」
「やっぱりちいちゃんは、ぼくの運命の人だよ」

成歩堂は子供のように満面の笑みを浮かべて、そう言った。
何がやっぱり、なのかは解からないけれど…。
その様子に、ちなみは自分でも気付かない内に、小さく息を飲んでいた。
この反応…。
この様子ではきっと、あやめとはキスの一つもまだしていないんだろう。
まるで、ママゴトみたいな可愛い恋愛…。
いかにも、甘ったれたこのボウヤと、あやめらしい。

(馬鹿ね)

そんなもので、運命を語ろうだなんて。

(一体、どこが運命なのかしら…リュウちゃん?)

嘲るように呟いて、ちなみは成歩堂に向き直った。
彼は地べたに座り込み、自分は膝を付いた状態。
必然的に、見下ろす格好になる。
多分、自分は微笑していたのだと思う。
成歩堂は、ほんの少しだけ、驚いたように両目を見開いた。

「ちいちゃん…?」

頼りない声が、耳元を擽る。
ちなみは成歩堂の頬を両手で優しく覆い、その形の良い艶やかな唇を開くと、鈴の音のように笑って、彼の愛称を呼んだ。

「ふふ、可愛いのは、リュウちゃんの方ですわ」
「……え?」

更にその目が大きく見開かれる。
真っ黒な彼の両目には、妖艶な仕草で相手を誘惑する自分の姿だけが、溢れんばかりに映し出されていた。
その時ばかりは、この能天気な男にも、ちなみが百戦錬磨の悪女のように見えたことだろう。
成歩堂は、まるで金縛りにでもあったように、動けないでいた。
緊張を解くように頬を撫でると、びく、とその肩が揺れる。

「ち、ちいちゃ…」
「じっとして、リュウちゃん」

仄かな溜息と共に、もう一度名前を呼ぶ。
辺りに、むせ返るような甘い香りが立ち上った気がした。
大きく見開かれたままだった成歩堂の目が徐々に閉じて行き、彼がその色香に酔って行くのが解かる。
その理性の箍が綻んで、音を立てて崩れ去るのを待って、そっと唇を寄せた。
このとき、ペンダントを取り戻すのは、簡単なことだったと思う。
でも、何故か…ちなみは行動を起こすのを躊躇った。
それは、おおよそ自分らしくない行動に違いない。

(馬鹿げてるわ…)

例え何であれ、ほんの一瞬でも、ちなみの心を惑わすものなど、あってはいけない。
だからこれは…。
ただ、騙されていることも知らない、目の前の可哀想な男に、せめて…。
そこまで思い巡らしたところで、信じられないほど強い力に抱き寄せられて、視界が反転するのを感じた。
背中に固くて冷たい感触が当たって、普通ならこんな粗暴なことは、絶対に許さないのだけど。
敢えて何も言わずに、ちなみは静かに目を瞑ると、彼の背中に白い華奢な腕を回した。
瞼の奥には、一瞬だけ成歩堂の肩越しに見た満天の星だけが焼き付いて、いつまでも離れなかった。



END