標的




あの裁判の日。
今まで築き上げて来たであろう立場やら信頼、そして約束されていた未来まで、彼は全て失った。
その後の彼を監視する、と言う目的もあったには違いないが。
彼が身を置いているというレストラン・・・霧人がそこへ足を運んだのは、何もそれだけではなかった。
この手で堕としてやった気の毒な男の有様を、間近で見てやりたかったのかも知れない・・・。



「あの子は・・・どうしていますか?」
「ああ、みぬきちゃ・・・みぬきか?流石にこの時間じゃもう寝ているよ」

善意の仮面を綺麗に被った霧人に、その男、成歩堂はにこやかな笑みを浮かべて答えた。
眼鏡の奥にある、冷たい色になど気付く様子もない。

「彼女は、本当にこのまま君が引き取ることに?」
「ああ、そうなるかな」
「こう言ってはなんですが・・・。君一人で彼女を育てて行くのは、正直・・・楽ではないでしょうに・・・」
「君の言う通りだよ。どうして良いかなんて、本当のところは解からない。けど、まぁ・・・何とかやって行くしかないんだろうな」

そう言って、彼は再び笑った。
法廷では、どんなに窮地に立たされていても、常にふてぶてしい笑顔を絶やすことのなかった男ではあるが・・・。
その笑顔とは、何かが違うような気がする。
その、心配の種であるみぬきとのやり取りこそが、酷く打ちひしがれた彼の心を救っていた訳なのだが・・・。
そこまでの事情を、自分はまだ知らない。

「・・・・」

どこかふっ切れたような成歩堂の笑顔を見て、何と無く、胸の中が疼いたような気がした。
急に胸中にもやもやとしたものが溢れて、抑えようがなくなる。
苛立ちと焦りが入り混じったような、妙な気持ち。
そうして、気が付くと・・・。

「じゃあな、牙琉。今日は来てくれてありがとう」

そう言って、身を翻しかけた彼の腕を、咄嗟に手を伸ばして捕まえていた。

「・・・?牙琉?」

こちらの行動が意外だったのだろう。
一瞬、暗がりに阻まれてよく見えなかったが、成歩堂はその顔に驚きの色を走らせ、両目を少しだけ見開いた。
その様子に、先ほど感じた疼きのようなものが、少しだけ和らぐ。
今、この・・・何もかもなくした男の腕を捕まえて、一体自分は何をしたいと言うのだろう。
一度自問してみて、何と無く自嘲気味な笑みを浮かべた。
決まっている。この男を・・・。
自覚、と言うか・・・何をどうすれば良いか解かってしまえば、後は簡単なことだった。
成歩堂に気付かれないように、霧人はほんの少しだけ唇を歪めて笑った。

「良ければ・・・教えてあげましょうか、成歩堂龍一」
「・・・?」

眉を寄せた成歩堂の耳元に、そっと囁く。

「これからのきみが、少しは賢く生きれる方法、ですよ」

言うと、彼の肩を押して、側にあった壁に身を押し付けた。
唐突に近付いた他人の体温に驚いたのか、反射的に身を引いた彼の逃げ道を塞ぐように立ちはだかる。

「な、何を・・・?」
「・・・きみが進もうとしているのは、今までとは全く違った世界だ。何が起こるか解からない。そうですね?」
「・・・・!」
「きっと、こう言うことも必要になりますよ」
「・・・っ?!」

グイと顔を寄せて、不意に耳朶を軽く噛むと、びく!とあからさまに体が引き攣る。
全く免疫のない、無垢な反応。
更にその仕草を繰り返していると、ひゅぅっと短く息を飲む音までして、ようやく牙琉は安堵を感じた。
ついさっきまで自分を追い立てた妙な焦燥感は消え、代わりに胸中にどっと溢れて来たものがあった。

(成歩堂・・・)

まだまだ。こんなものでは、全然物足りないのだ。
この手で堕とした?何をぬるいことを・・・。
やるなら、もっと完璧にしなければ。

「牙琉?」

頼りなげな声を上げる成歩堂の顎を捕まえて、真っ向から顔を覗き込んだ。

「成歩堂・・・」

名前を呼びながら、霧人は自分が思ったより緊張を感じていることに驚いた。
少し乾いた唇を、彼に気付かれないようにそっと唾液で濡らし、それからその口を塞いだ。
成歩堂の気配がサッと険しくなり、増々身が引き攣る。
これから一体、どうやってもっともっと奈落の底まで突き落としてやろうか。
楽しいゲーム・・・などと言うものではない。
これは、新しい生き甲斐と言っても良いかも知れない。
何故こんなに、彼の存在は、ぞくぞくと霧人の背筋を刺激するのか。
唇を割って舌を滑り込ませる。
唾液を絡めて柔らかく吸い上げる。
そうしている間、彼は殆ど無抵抗に近かった。

「・・・ッ、止めてくれ、何を馬鹿な・・・」

時折、不本意な行為に対し、びくついた腕や足が無駄な足掻きとでも言うように蠢くだけで、それを封じることは苦ではない。

「じっとしているのが、あなたの為です」
「・・・っ!牙、琉・・・!」

衣服の中に指を忍ばせると、引き攣った声が上がった。
徐々に乱れて行く彼の吐息が、耳に心地良い。
近くに寄せた胸板の奥で、どくどくと早くなる心臓の音に、笑みが零れそうになる。

「大丈夫です、力を抜いて、私に任せて下さい」
「・・・・く」
「そんなに辛くはない筈ですよ、あなたがこれから行こうとしている道に比べれば・・・ね」
「・・・・!」

その言葉に、何か思うところでもあったのだろうか・・・。
抵抗を止めた成歩堂の腕から力が抜け、だらりと下に降りる。
もう、捕まえたも、同然・・・。
確信から来る勝利の味に息を詰めて、もう一度彼の口を塞いだ。

「ん・・・・・ぅ・・・」

上手く息が出来ないのか、苦しそうな声が上がるのを無視して、絡み付くようにその行為を繰り返す。
視線を流すと、耐えるように眉根を寄せ、ひたすら屈辱に耐える顔が目に入った。
その顔に、先ほど見た・・・妙にふっ切れた穏やかな笑顔が被る。
あんな風に、いつまで笑っていれるか、見届けてみたい・・・。
全ては、これから。

ゆっくり・・・。
本当にゆっくりと、じわじわと獲物を駆るように、その日牙琉は成歩堂を追い詰めて行った。
そして、この日始まった長い時間。
七年後のその先に、どんな展開が待っているのか、当然・・・今の牙琉には、解かる筈もなかった。



END