一部始終
ある日の午後。
突然、成歩堂事務所を訪れた思わぬ人物に、出迎えた王泥喜は目を丸くした。
「こんにちは」
元気の良い挨拶と、にこやかな笑顔で現れたのは、もう大分おなじみになっている、女刑事。
「あ、茜さん?!どうしたんですか?」
「ちょっとね…。ねぇ、成歩堂さん、いる?」
「え、はい。いますけど…事務所の中でグレープジュースを…」
飲んでます、と言う台詞を言い終えない内に、ドンっと衝撃が来て、王泥喜は扉の前から吹っ飛ばされてしまった。
「……?!!」
(な、何だ?何だ?)
何事かと目を剥くと、王泥喜を押し退けた茜が、凄い勢いで事務所の中へと飛び込んで行くのが見えた。
「成歩堂さん!」
「やあ、茜ちゃん…。久し振りだね」
「お久し振りです!」
一気に弾んだ会話と…茜の、見たこともない様なはしゃいだ様子に。
王泥喜はただ目を丸くして、その場を呆然と見守るだけだった。
「でも、本当に…残念です。7年前のこと…」
「茜ちゃん…」
あれからもう数十分が過ぎているけれど。
二人の会話は今も尚弾んでいる。
何だか、口を挟む隙間はない。
仕方ないので、隣の部屋から少し顔を覗かせて、王泥喜はこっそりと様子を伺っていた。
「あたし、何でか刑事になっちゃっいましたけど……でも!それはそれで、何か事件が起きたら、成歩堂さんに情報流し放題にしようと思ってたのに」
(茜さん、それはまずいんじゃないかな、立場的に)
「あ、それから勿論、あの人にもですけど」
(あの人…?)
誰のことだろう。牙琉検事…ではなさそうだ。
「…困るなぁ、茜ちゃん」
「え…?」
「そう言う時は、ぼくか彼か、どっちかだけにしてね」
「は、はい!それはもう、勿論、成歩堂さんに!」
(“あの人”の立場はどうなったんだろう…)
茜の変わり身の早さに、王泥喜は見知らぬ“あの人”にちょっとだけ同情してしまった。
「そう言えば、茜ちゃん。どうしたの、さっきからそんな必死にメモなんかとって…」
「あ、これですか?今、あたしが、良き母良き妻になれるか、分析してるんです。カガク的に」
「へぇ、そうなんだ。それで…結果は?」
「ええと…科学的に言って、20%くらい…です」
(やれやれ…少ないな)
胸中で突っ込みを入れた途端。
ガツン!と王泥喜のオデコに衝撃が走った。
(痛…っ!?)
床を見ると、茜が常に携帯しているかりんとうが転がっている。
こちらを見もしないのに、確実におでこに向けて投げて来るとは。
しかも、何も口に出していないのに。女の人の勘は、恐ろしい。
「それに…あたし…」
かと思うと、茜は急にしおらしくなって、今度は思い詰めたように俯いていた。
本当に、こんな顔も見たことない。
「あたし…ショックでした。娘さんのこと聞いた時は、成歩堂さんが結婚してたんだと思って。何も教えて貰えなかったんだなと思って…」
「ごめんね、茜ちゃん」
「い、いいんです!あたし、一番大事なときに側にいれなかったから…側にいたって、何か出来た訳じゃないかも知れないですけど…。でも!せめて、あのじゃらじゃらの検事さんに、コツンと一発くらわせるくらいは…!」
「茜ちゃん、そんなに後悔しなくても大丈夫だよ」
「でも!」
「コツンと一発するのなら、今からでも出来るからね」
「は、はい!そうですよね!じゃあ、あたし、今度こそ渾身の一撃をゴツンと!」
(牙琉検事…可哀想に…)
きっと彼は近い日、渾身のかりんとう一撃を食らうハメになるのだろう。
成歩堂のせいで。
「あの…成歩堂、さん…?」
そこで、急に茜の声色が変った。
何だか無意識に甘えるような、そんな声。
女の子らしさを感じさせる声にぎくりとして、思わず扉から身を乗り出すと、茜が成歩堂との距離をぐっと縮めて側に寄っていた。
「これから、どこかに行きませんか?その…二人きりで」
「うん、構わないよ。お金ないけど、オドロキくんに貰うし」
(何で最初から貰うなんだよ!この人には、借りるって言う概念がないのか!?)
今のは…何も遠慮して胸中で突っ込まなくても、口に出して良かったかも知れない。
まぁ、そう言ったとしても、返すあてがないものを貸してなんて言えない…とか言われそうだけど。しれっと。
王泥喜がいじけている間にも、茜は何処からか取り出した雑誌をデスクの上に広げて、遊園地の特集記事を熱心に見ていた。
「成歩堂さん!じゃあ、じゃあ、ここなんかどうですか?」
「うん、いいよ。茜ちゃんも、やっぱりこう言うのが好きなのかい?」
「あ!何ですか、もう!今、子ども扱いしましたね?あたし、もう子供じゃないです、カガク的に!」
「そんなつもりはないよ、本当に立派になったよね?茜ちゃん」
「わぁっ!ありがとうございます!成歩堂さん」
(わぁっ、…と来たか…)
恐らく、語尾にはハートマークの一つや二つ、散りばめられていたに違いない。
何だか彼女の言葉遣い、高校生みたいだ。
彼女の言い方で言うと、丁度高校2年生くらいだろうか、カガク的に。
「それにあたし…もう成歩堂さんにも、あの人にも、釣り合う年齢になったと思うんですよね、極めて厳密に分析して…!」
(だから、あの人って誰なんだよ)
何度目になるか解からない突っ込みを入れたところで、急に茜がずい、と成歩堂に身を寄せるのが見えた。
「成歩堂さん、あたし…」
続いて、さっき聞いたのと同じ、何だかやたらと女の子っぽい感じの声。
(うわっ!これって、まさか…)
何だか自分まで赤面してしまって、王泥喜は顔を両手で覆った。
勿論、指の間からしっかり見てはいたけど。
でも、今みぬきがいなくて良かった。
ちょっと教育上宜しくないんじゃないのか。
そんなことを心配してしまう自分に、何だか変な気分になるけど。
(こ、これは、いいのか?!!)
待ったを掛けた方がいいんじゃないのか!
ハラハラしつつそんなことを思っていたら、急に携帯電話の音が響き渡った。
「あ…あたし、です…。ちょっと待って下さい」
どうやら、鳴ったのは茜の携帯だったようだ。
慌しく通話ボタンを押して、喋っている声が聞こえる。
そして、「え…、い、今からですか?」とか「そ、そんな…」とか「は、はい…すぐ、行きます」とか。
仕事の話らしいのは、考えなくても解かる。
「よ、呼び出されちゃいました、上司に…。今すぐ来いって」
通話を終えた彼女は、見るからにがっくりと肩を落として俯いていた。
あんなに嬉しそうだったのだ、無理もない。
「そうなんだ…。それは残念だなぁ」
「ご、ごめんなさい、成歩堂さん」
「いや、いいよ。じゃあ、ぼくも仕事に行こうかな。今日は休んでも良かったんだけど…」
「あ、え…。は…はい」
「…また今度ね、茜ちゃん」
「は、はい…。また今度、会って下さいね」
「うん、又ね」
成歩堂はそう言って、茜より先に事務所から出て行ってしまった。
一人残された茜はと言えば…。
「はぁ……」
(茜さん…溜息なんか吐いてるぞ…)
あれが、モモイロの吐息ってヤツか…。
いや、ふられた訳だからどっちかって言うとブルーの…。
感心したようにそんなことを思い巡らしていると、急に茜の怒鳴り声が耳に飛び込んで来た。
「ちょっと、あんた!さっきから何覗いてるの?」
「え…?!お、俺ですか?」
「子供は引っ込んでなさいよ!!」
「こっ、子供…?!」
引っくり返った声で返答すると、彼女は手元にあったかりんとうを、ありったけこちらに投げ付けて来た。
「いた!痛いですよ、茜さん!」
抗議の声も聞かれることはなく、全てを撒き散らすと、彼女はそのまま猛烈な勢いで帰って行ってしまった。
「……」
一体、何だったのだろう。
先ほどとは打って変わって静かになってしまった事務所で、呆然と立ち尽くし。
(て言うか、この掃除、やっぱり俺がやるのか…)
大量のかりんとうに囲まれたまま、王泥喜は深い溜息を吐き出した。
END