偽りのことば
「おっしゃっていましたわ。一言だけ。鬱陶しいヤツ、と…」
あやめが発したその声は、成歩堂の頭の中に幾度か木霊し、それから少しずつ小さくなって消えてしまった。
やはり、あの彼女の中には、何の真実も見出せなかった、と言うことなのか。
どうしても信じられなくて、一縷の望みを掛けて妹であるあやめに尋ねたのだけど。
返って来た答えは、成歩堂の空しさをいたずらに煽るだけだった。
でも、そのあやめの顔を見詰めたとき。
何故か少し、背筋に違和感を覚えた。ぞく、と痺れるような何か。
修験道の中がとても寒くて、ただ、悪寒が走っただけだったのかも知れないけれど。
それに、今自分は高熱に魘されている。
目の前のあやめの顔すら、輪郭がぼやけてよく見えない。
橋から落ちる前に会ったあやめは、こんな顔をしていただろうか。
忘れられないあの彼女にそっくりな顔。
それは勿論なのだけど、何だろう…この違和感。
でも、気のせいに決まっている。きっと、熱が高いせいに違いない。
彼女を見詰める度にふつふつと浮き上がる違和感を払拭するように、成歩堂はゆっくりと唇を開いた。
「そう、ですか……」
あやめに魅入ったままで返事をするその唇は、酷い寒さの為か、ほんの少しだけ小さく震えた。
そして、全てが終った裁判の数日後。
「なるほどくん、もう大丈夫そうね。情けない顔、しなくなったわ」
再び成歩堂の前に現れた千尋は、そう言いながら肩をポンと叩いて来た。
「今回の依頼人も、随分と大ピンチみたいなのに」
「あれ、解かっちゃうんですか?やっぱり流石ですね、千尋さん…」
「勿論よ、なるほどくん。そのふてぶてしいまでの笑顔を見ると解かるわ」
「そ、そうですか」
照れたように頷いて、成歩堂はギザギザの頭を掻いた。
千尋に見抜かれてしまうのは仕方ないことなのかも知れない。
これは、彼女に教わったことだ。
ピンチのときほど、ふてぶてしく笑う。
いつも裁判で目にしていた千尋の様子を思い浮かべて、成歩堂は軽い溜息を吐いた。
「でも、まだまだですね…。早く千尋さんみたいに完璧になりたいですよ」
「完璧にねぇ…。ふふ…」
「……?」
成歩堂が怪訝な表情をすると、千尋は少し複雑そうな笑みを浮かべた。
「でもね、本当にピンチのとき、私よりも完璧に綺麗な笑顔を見せた人がいるのよ」
「…?それは、神乃木さん…ですか?」
「そうね、先輩・・・神乃木さんも勿論そうだけど…。私がもっとはっきり見たのは、あの子よ」
「あの子…?」
どく、と心臓が高鳴った。
何となく、無意識のうちに、嫌な予感がして。
「そうよ、あの子…。美柳、ちなみよ」
案の定。千尋の口から出て来た名前は、成歩堂の耳にざわざわと不穏な音となって響き渡った。
美柳ちなみ。
六年前。千尋の初めての裁判で、証人席に彼女が立ったことは、既にファイルを調べて知っている。
でも、こと細かな会話までは知らない。
千尋は、追い詰められて嘘を一つ吐く度、彼女の笑顔が輝きを増して行った事を話してくれた。
―いよいよ笑顔が綺麗ね、ちなみさん。
そう思った時、一瞬だけど、同性の自分ですら目を奪われるような艶やかな笑顔を浮かべていた。
可憐で繊細な、何としても守ってあげたいと思わせる笑顔。
でも、それは何よりも冷たくて、分厚い嘘に覆われている。
彼女の方がプロだと神乃木に言われて、とても悔しかったと。
千尋の話を聞き終えたその時。
少し前に感じた違和感の正体に、成歩堂は初めて気付いた。
あの日。
まだ悪夢から覚めることが出来ず、葉桜院の修験道に足を踏み入れたときのこと。
あやめと会って、会話をした。
あの時の痺れは、気のせいなんかじゃない。
唇が震えたのは、熱のせいなんかじゃない。
彼女のあの顔が、あまりに完璧に美しくて、目を奪われてしまったんだ。
あの時、彼女は何を言っていただろう。
思い出そうとして、頭が酷く痛んだ。
これは、何かの警報なのだろうか。
思い出してはいけない。思い出すな。
でも、重い頭に鞭打って、成歩堂は記憶を手繰り寄せた。
鈴の音のような、あやめの…。いや、今ではもう解かっている。
あれは、ちなみの声。
―おっしゃっていましたわ。一言だけ。
彼女の形の良いピンク色の唇が、ゆっくりと動いて、言葉を紡ぎだす。
嘘を吐く、艶やかな唇。
あんな綺麗な笑顔を、成歩堂は見たことがない。
―鬱陶しいヤツ、と。
耳元に囁くように聞えた声に、ずき、と頭が痛んだ。
あれは…。
彼女の完璧な嘘、だったのだろうか。
それとも、ただ自分がそんな風に思いたいだけなのか。
解かる筈もないし、今となっては知る術もない。
(美柳、ちなみ…か…)
ふと、脳裏に思い浮かべてみた彼女の顔は、あの時と同じように。
完璧なまでの美しさを湛えて、そっと成歩堂に微笑み掛けた。
END