イキシア
不意に、花のような香りが鼻先を掠めて、成歩堂は辺りを見回した。
柔らかくて甘い、女の子の香り。
何故か辺りは霧が掛かったように霞んでいて、視界は酷く狭い。
そんな中、道標のように香っている匂いを追い掛けようと、成歩堂は足を進めて歩き出した。
匂いが近くなる度に、胸の奥がきゅっと締め付けられるように切なくなる。
そして、自分はこの香りを知っている。
確か、その相手とは、昨日も一緒にお弁当を食べたはずなのに。
何だか、やたらと懐かしい気がするのは何故だろう。
いや、お弁当を食べたのは、もっともっと昔のことじゃなかったか…。
どうしてそう思うんだろう。
彼女が何処か遠い人のようだ、なんて。
不安に駆られて足を早めると、ようやく、霞みがかった視界の中で彼女の華奢な背中が浮き上がって見えた。
「ちいちゃん…!」
必死で走り寄ってその体に腕を回すと、確かに手応えがあった。
人の肌の温かさに、ほっとする。
でも。
(あれ…?)
暫く抱き締めて、何だか違和感を覚えた。
何だか、彼女…少し、ふくよかになったんじゃないか。
それにこの、頬に当たる、むにっとした感触は…?
そこまで思い巡らしたところで…。
「いい加減に起きなさい!!なるほどくん!!」
「……!!」
耳を劈く落雷のように激しい怒鳴り声がした。
続いて、バキ!!と言う音と共に竹刀のようなものが横っ腹に食い込んだ。
成歩堂は変な呻き声を上げて、そのまま床に転がり落ちてしまった。
どうやら、デスクの上で転寝をしてしまっていたらしい。
「ち、ち、ち、千尋さん!」
一気に夢心地から現実に引き戻されて、成歩堂は自分を見下ろす人物を、青褪めた顔で見詰めた。
その人物、千尋は、先ほどの衝撃で折れたらしい竹刀を手で遊ばせながら、眉を吊り上げていた。
「千尋さん…じゃないでしょう?全く!何が、ふくよか、よ!」
「……!!す、すみません!!すみません!!」
まさか、寝言を言っていたなんて。
成歩堂の焦りには拍車が掛かり、青褪めた顔はモスグリーンになりつつあった。
でも、千尋は容赦しない。
「しかも、寝惚けて抱きついて来たりして!一体何処を触ったのか、ちゃんと覚えてるんでしょうね?」
「う、いえ、あの……」
(ど、何処って…)
そう言えば、頬にむにっと柔らかい感触がしたような…。
抱きついて、顔を埋める場所と言えば…。
(ま、まさか…)
ようやく自分の仕出かしたことに気付いて、成歩堂は目も当てられないほどに真っ赤になってしまった。
「す、すみません!ぼ、ぼく…そ、その…っ」
「……」
あまりに無垢なその様子に、千尋も怒りを削がれたのか。
ややしてはぁ、と長い溜息を吐き出した。
「全くもう、仕方ないわね。今日だけは見逃してあげるわ」
「す、すみません、所長!」
「さ、早く顔でも洗って来なさい」
「は、はい!」
言われるまま、成歩堂は素早く立ち上がり、顔を洗いに部屋を出て行った。
その、数分後。
「ねぇ、なるほどくん…」
ようやくデスクに戻った成歩堂に、背後から声が掛かった。
「は、はい。何ですか、所長」
振り向くと、千尋は何だか少しだけ難しそうな顔をしていた。
顎に手を当てて、考え込むような仕草。
(……?)
続く言葉を待って、黙ったまま見詰めていると、ややして彼女は言い辛そうに口を開いた。
「実はね、さっきのことだけど…。あなた、他にも寝言を言っていたのよ」
「……!そ、そうなんですか」
「もしかして、何か…夢でも見てたんじゃないの?」
「……!」
顔色を見れば、千尋が何を言いたいのか、成歩堂には何となく解かった。
きっと、自分は呼んでしまったのだ。
一刻も早く、忘れてしまわなくてはいけない人の名前を。
けれど、動揺が顔に現れる前に、成歩堂は何事もなかったように笑顔を作った。
「いいえ、そんなこと、ありません」
「……。そう、それなら…いいけど」
千尋のことを、誤魔化せるとは思えない。
けれど、どうしても、彼女に知られる訳にはいかなかった。
『なるほどくん、大人になりなさい。そして、早く忘れるの』
あの時言われた千尋の言葉を、あれから何度も頭の中で反芻した。
でも、心のどこかで、他のことを考えている自分がいる。
だから、あんな夢を見てしまったんだろう。
それは、甘さとか弱さとかの現われで、決して褒められるような気持ちではないのかも知れない。
彼女を忘れるくらいなら、きっと、大人になんて、ならなくていい…。
胸中に浮かんだ呟きを奥に押し込んで、成歩堂は唇を噛んだ。
END