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 夕方頃、執務室で受けた電話の相手は、同じ検事局の者からだった。
「一条検事。突然ですみませんが、お話があります。お時間を頂けませんか」
「……今、から?」
「ええ、こちらに来て頂けませんか」
「え、ああ……」
 受話器越しに曖昧な返答をしながら、一条の脳裏には馬堂刑事の顔が浮んだ。
 今、時刻は八時だ。彼も、用があってここに来ると言っていた。けれど、相手の声があまりに思い詰めたように切羽詰っていたので、即座に断るのは躊躇われた。それに、相手は一条が日頃からよく目を掛けてやっている男だ。そう言えば、近頃何か思い詰めたような表情をしていたり、何か話し掛けても上の空だったことが多かった。何か、悩んでいるのか、仕事のことか解からないが。わざわざ呼び立てるなど、余程のことだ。
「解かった、今、行く」
 受話器を置くと、一条は急いで上着を羽織り、そして部屋を飛び出した。


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「一条……」
 呼び掛けた声に返答がないことは、扉を開けた瞬間にすぐ解かった。
 彼のあの、温かいような気配が一切感じられない。お高くとまっている訳ではないのに、たまに驚くほどに生真面目で、どことなく高潔で、でも同時に呆れるほどお人好しで優しい彼の雰囲気が、微塵も部屋に感じられない。
 だから、今ここは冷たい空気が流れ込むだけの何ともつまらない空間だ。
 鍵も掛けずに、彼はどこへ行ったのだろう。もう帰宅してしまったのだろうか。いや、あの真面目な男が、鍵もそのままになどあり得ない。
 部屋を見回すと、どことなく、慌てて出て行ったような気配が残っている気がした。恐らく、誰かに呼び出され、そうして出掛けたのだ。デスクの上にも書類が散らばったままだ。
 馬堂が来る時間は、前もって伝えていたから、解かっているだろうに。
「逃げたな、一条」
 ぼそりと呟いた声は、誰もいない部屋に反響して、やたらと大きく聞こえた。


「一条さんだって、男でしょ。会いに行く女の人の一人くらいいるわよ」
「……」
 いつだったか、もう一人のヤタガラスであるあの彼女が、そんな風に言ったことがあった。
「美雲も、置いてか?」
 単に、下らない会話の断片だったと思う。けれど、ついそんな風に返すと、葛は笑っていた。
「じゃあ……男だったりしてね」
「……」
「冗談よ。でも、何だか一条さんて……馬鹿正直で大真面目なくせに、妙な色気があるのよね」
「……」
「だから、冗談よ。馬堂刑事。怖い顔ね……」
 冷やかすような葛の声に、どこまで本気なのか知らないが、どちらにしろ食えない女だと、そう胸中で呟いたのを思い出した。



 仕方なく、扉を開けて外へ出ようとしたそのとき、小さく近付く足音が聞こえた。
「馬堂さん……!間に合って良かった」
 そんなことを言いながら、僅かに息を切らせて入って来た一条と、鉢合わせるような形になる。
「明かりがついていたから、もう来てるんじゃないかと思いましたよ」
「……お前、どこへ行っていた」
「たいしたことじゃないですよ、ちょっとね……」
「鍵も掛けずにか」
「いや、それは……あんたが来ると思ったから……」
 言いながら、彼は額に掛かる乱れた前髪を指先で掻き上げた。
 その手を捕まえるように腕を伸ばすと、一条の双眸がゆっくりとこちらに向けられた。


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 時折、馬堂の目、その細められた鋭い眼光の奥で酷く疲れたような表情が浮ぶのを、一条は目にすることがあった。
 いつもは穏やかで深みのある色をした目が、酷く陰鬱な影を落として、目の前の情景を見詰める。幾度かそんな様子を目にする内に、一条はやがてそのことに気付いた。あれは、疲労などではない。うんざりとしたような、冷たい、冷めた視線。状況を冷静に分析しながらも、恐らく彼の内面がそう感じてるに違いない。ただ、それが浮ぶのはほんの一瞬だ。
 けれど、いつも一条はそれにどきりとさせられる。背中に冷や水を掛けられたように、ハッとする。今浮かんでいるような色も、それだ。
 そして、目を瞬かせている間に彼、馬堂は一条の腕を捕らえ、自分の方に引き寄せてから、そっと口を開いた。
「逃げたのかと思ったがな」
「……そんなはず、ないじゃないですか」
 渇いた笑いを漏らした後、一条はそっと口を噤んだ。
 ベテラン刑事のこの男から逃れられるはずないと言うことなのか、自分と彼と、あの女弁護士の三人、もう引き返せない道へと足を踏み入れてしまったことを思い出したのか、どうか。
 けれど、すぐに顔を上げると、馬堂の腕を振り払い、上着を脱いでソファにどさりと身を投げ出した。このまま接触していたら、内心の動揺まで見抜かれてしまうような気がしたからだ。
「ちょっとね……呼び出しを食らってたんですよ」
「……呼び出し、か」
「ええ……まぁ」
 一条が言葉を濁すと、馬堂が一歩こちらに向けて足を進めて来た。
 ふと、視線を上げ、一条は知らずぎくりと身を強張らせた。
「女、か?一条……」
「……え……?」
 何を、と言おうとして、息を飲む羽目になった。
 ソファに身を投げ出した肢体の上に、馬堂が圧し掛かるように体重を落としている。両手首を掴まれ、鋭い眼光で見詰められ、一条は目を見開いた。
「馬堂さん……?」
「どうなんだ、一条。最近……浮いた噂の一つくらいあるだろう」
「そんなもの、ないですよ。俺は今……それどころじゃ……」
「それなら、色々御無沙汰だな、気の毒に」
「……っ、そんなことで同情しないで下さい!」
 と言うか、何をいきなり……。
「……馬堂さん、いい加減……」
 いい加減、退いてくれと、そう言おうとして、一条は一瞬息を詰めた。
 彼の視線は、先ほどからじっとこちらを見詰めている。いつもと同じ、鋭い目。そして、どこかうんざりとしたような、冷えた視線。そのはずなのに。真っ向から見詰めてて、一条はその目の奥に別の光を見出した。
 何だ、その目は。そんな目で見ないで欲しい。そんな、欲情でもしているような目で。
 そう言いたいのに、まさか、と言う思いが邪魔をした。
「馬堂……さん?」
 捕まえられた手首にぐ、と力を込められて、一条は身を揺らした。振り解こうとしたのに、上手く行かない。本気の力だ。見開いた目に、彼の細められた目の奥の光が反射したように感じた、一瞬。
「――んっ」
 唇が塞がれるまで、瞬きする間もなかった。馬堂の、良き相棒である男の生温かい唇が、自分のものにきつく押し付けられていた。

「ん……、ぅ……っ!」
 ややして、我に返ると同時に、パン!と音がして、馬堂の頬を手の平が直撃した。渇いた音が空を切るのを、一条はどこか遠くのことのように聞いた。
「痛い、な……一条」
 少しの間の後、衝撃で逸らされた顔をゆっくりとこちらに向け、馬堂の双眸が自分を見下ろす。その目はきっと、酷くうんざりとしたような、酷薄な色を浮かべているに違いない。
 そう思いながら、恐る恐る顔を上げて、ぎくりとした。彼の目は、燃えるような色を放っていた。煽られた熱を持て余して、凶暴とも取れるような、熱い色合い。
「抵抗、するな」
「……!馬堂さん……!」
 どうしてと、そう問い掛けたかったのに、それ以上声にならなかった。


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 元々、抜けているのか鋭いのか解からない男ではあるけれど、一つ言えるのは、彼が隙だらけだと言うことだ。
 首筋の赤い痕に、乱れた髪の毛に。それから、無意識に放つ妙な色香に気付いていないのか。僅かに乱れたシャツの隙間からも、鬱血したような痕が見える。そして、どくどくと早鐘のように鳴る彼の鼓動。それは、今こうして馬堂の手が彼の肢体を弄っているからだろうか。それだけではない、何となく、慣れのような……。上手く言えないけれど、馬堂は反応を返す一条の肢体にそんな感覚を覚えた。
「っ、や、止めて下さい!」
「……」
 焦ったように声を上げて身を捩る彼の肢体を、馬堂はますます強く押え付けた。
「白状しろ、一条」
「お、れは……何も」
「……」
「……っ!」
 ゆるゆると首を振るのを見て、伸ばした手で内股を撫でると、ひゅっと息を飲む音がした。
「う……、ぁ……」
 構わずに手をずらし、緩やかに中心を撫でると、引き結んだ唇から掠れたような声が漏れる。
「馬堂さん、何を……」
「解かっているのに、聞くな」
「……!」
 息を飲んだ唇をもう一度貪り、深く舌を捩じ込むと、一条の胸板は苦しげに上下した。胸板を撫で、腰を引き寄せるように抱く。二の足を割って体を割り入れると、彼の喉は酸素を取り込むように震えた。


「う……ッ……っつ!」
 喉に痞えたような声が何度も上がり、馬堂は掴んでいた腰に叩き付ける律動をふと緩めた。
「馬堂さん……っ、もう……っ」
 少しだけ動きを緩めた隙を縫って、すぐさま抗議の声が上がる。
「もう……?何だ」
 解かっていながら白々しくそう聞き返して、折り重なった体にぐっと上から圧力を掛けた。
「……っ!……っ、ん」
 途端、びくりと一条の四肢が強張る。それ以上口を開くと、ただみっともない呻きが漏れるだけと悟ったのか。ぐっと唇を噛み締めて、手の平の中にシーツを握り締める彼の様子が、馬堂の両目に映った。


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「こんなのは、正気の沙汰じゃない……」
「……」
 弱々しく吐き出した声に反応して、馬堂がゆっくりと首を縦に振る。
「ああ……そうだな」
「……」
 頷いた男に視線を向け、一条は大袈裟に溜息を吐いた。
 何だって、こんなことになっているんだ。今日は厄日だ。体がだるい。さっきも、突然呼び出されたと思ったら、徐に組み敷かれて、何がなんだか解からないまま逃げ出した。そうして、自分の執務室まで辿り着くと、馬堂の姿を見て、ホッとした。なのに、この状況はなんだ。
 誰か、この自分の体にがっちりと腕を回したまま動かない男をどうにかしてくれ。
「いい加減、離して下さい」
「……」
「抱き心地なんて良くないはずだ」
「……そうでもない」
 ゆるゆると首を振る男に、一条は溜息を吐き出した。
「だいたい、何でこんなことになってるんです」
「……さぁな。それよりお前、思ったより細いな。ちゃんと食ってるのか」
「……食ってますよ。と言うか、あまり腰を撫でないで下さい。セクハラだ」
「むぅ……そうか」
「まぁ……今更ですけどね」
 本当に今更、そんなことで少し怯んだ男に、一条は場も忘れて笑い出したくなった。