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 仕事を終えて帰路に着く途中、突然、ふと、妙な違和感を覚えて馬堂は足を止めた。
 長年刑事をしていて、そんな風に思うことが馬堂には稀にあった。
 けれど、今までの経験から言って、それは良い勘ではない。こう言う風に思うときには、だいたい良くないことが起こったような気がする。
 馬堂は一度空を見上げて、そっと目を閉じた。瞼の裏に浮ぶのは、相棒の検事のことだ。彼を思い浮かべると同時に、妙な不安は少しずつ強くなる。
 彼の身に何かあったのかも知れないなんて、本気で思った訳ではない。
 けれど、馬堂は携帯電話を取り出して、彼の番号を呼び出した。
 一条を呼び出すコール音が鳴り響く。数秒鳴らし続けても、彼の声は聞こえて来ない。仕方なく、馬堂は携帯を乱暴にしまい、検事局へ向けて歩き出した。


「馬堂刑事、どうしたんです」
 検事局に入ると、若い検事が馬堂の姿を見付けて声を掛けて来た。一条と親しい男だ。馬堂のこともよく知っている。彼を見て、馬堂は目を細めた。
「一条は、まだいるか」
「一条検事なら、確か、あいつと一緒にいましたよ」
「……あいつ?」
「あいつですよ、馬堂さんも知っているかな。ええと……」
 若い男の言葉に、馬堂は思わず走り出していた。
 彼が口にした名前には、聞き覚えがあった。
 幾日か前、一条を呼び出した男だ。あのとき、彼の首筋に残っていた鬱血したような痕は、暫くの間消えなかった。別の男が付けた染みのようなものだ。
 じゃあ、さっきの胸騒ぎはこれだと言うのか。恋敵の出現か。馬鹿げた発想だ。なのに、馬堂の足は尚も止まらない。
 一条の部屋の前に着くと、勢い良く扉を開け放った。
 中は真っ暗で何も見えない。一瞬、誰もいないのかと思って慌てて踵を返そうとした途端、すぐ側で人の気配がするのを感じた。同時に、黒い影がこちらに向かって真っ直ぐ向って来るのが解かった。
 何事かと、胸ポケットの鉄の塊に手を伸ばそうとした途端、鋭い声が上がった。
「駄目ですよ、馬堂さん!」
「……!」
 その声が、よく聞き覚えのある男のものだと解かると同時に、ドン!と言う衝撃がして、馬堂の体に何者かが体当たりするようにぶつかって来た。思わずよろめいたその隙に、人影は馬堂の横を擦り抜けて、扉の隙間から脱兎の如く逃げて行ってしまった。
 相手を追うのと、一条を見舞うのと、どちらが先が。考えなくても馬堂の足は勝手に動いた。
「一条、どうした」
 呼び掛けて、部屋の明かりのスイッチを手探りで探そうとすると、低い声が部屋に響いた。
「明かりは、点けないでくれませんか」
「……。何があったのか、言え」
「……見たままです」
「……」
 一条の返答に、馬堂は眉根を寄せた。暗くて、まだよく彼の姿は見えない。目を凝らす代わりに、状況を知ろうと再び口を開いた。
「今のは、あいつか」
「ええ」
「何故二人で会った?」
「謝りたかったんだそうです、俺に……」
 ふ、と笑う声が耳元を掠め、馬堂は彼の気配を探りながら足を進めた。声の位置から、彼は恐らく床に蹲っているのだろう。
 一条のすぐ側まで来ると、馬堂は膝を折って身を屈めた。
 すぐ側に、一条の息遣いを感じる。少し乱れた、荒い息遣い。
 段々と目が慣れて来て、暗闇の中で彼の輪郭がくっきりと浮かび上がって来た。
 一条の乱れた茶色の髪がしっとりと汗で濡れていた。手を伸ばして、額に張り付いたそれを指先で掬うと、微かな吐息が漏れた。露になっている首筋と、ボタンの弾け飛んだ白いシャツ。一瞬だけ、軽く殴られたようなショックを受けた。
「これが、あいつの謝罪の仕方か」
「きっと、逆上したんでしょうね」
「……?何にだ」
「俺と、あんたのこと、知って」
「……何?」
「あんたと俺が、寝たことですよ」
「……!」
 何でもないことのように紡がれる言葉に、馬堂はそっと息を詰めた。一条の声は吐息のように小さくて、今でも消え入りそうだった。声は淡々としているが、色々とショックを受けているに違いない。
「俺がいけないんですよ。上手く、言えなかった」
「だから、気を付けろと言ったろう」
 言いながら左右に割られたシャツの前を閉ざしてやると、彼はホッとしたように息を吐き、そして突然気持ちを切り替えたように、明るい声を上げた。
「いいんですか?現場保存は……鉄則ですよ」
 それは、馬堂の口癖だ。現場を弄るなと、まだ組み始めた頃、熱心に調べようとする彼にそう告げたことがある。けれど、それとこれとは全く別物だ。彼を、このままにしておけと言うのは、無理な相談だ。
「……俺は殺人課だぞ。関係ないさ」
「なら……誰にも言わないでくれますね」
「……それは、どうかな」
「余所の仕事には口を出さないことです」
「許す、のか」
「未遂ですからね」
 ――未遂。
 その言葉に、今度は馬堂がホッと胸を撫で下ろした。
 けれど、体は無事、だろうが、この分では無理矢理キスの一つくらいされたに違いない。
 馬堂が眉根を寄せると、一条はふっと口元を歪めた。
「馬堂さん」
「……何だ」
「何でここに?」
「……さぁな。邪魔だったか?」
「……まさか」
 未だ乱れた衣服を整えもせず、一条は喉を鳴らして笑った。何となく、自棄になったような感じが彼の雰囲気から読み取れた。珍しいことだ。
 そんなことを考えていると、彼から再び呼び声が上がった。
「馬堂さん」
「……?」
「……抱いてくれませんかね」
「……」
 一体、何を言い出すのかと、思わず咥えていた飴を取り落としそうになった。
 あの晩以来、馬堂は一度も彼に触れなかった。年甲斐もなく強引に手を出してしまったことを、少なからず反省していたからかも知れない。けれど、一晩の戯れで終らせるつもりもなかった。ただ、もう一度触れるにはまだ早過ぎると思っていたから。
「……こんな状況で手を出すほど、俺は図太くない」
 ややして、そう応えると、彼は視線を床へと落とした。頬に影が差し、暗い表情を作る。何を考えているのか、馬堂には読み切れない。疲れたような目には、確かに縋るような色が浮んでいる気がするのに。
「……意気地がないんですね」
「……」
 暫くの間の後、溜息混じりに吐き出された台詞に、馬堂は肩を竦めた。
「この俺にそんなことを言うのは、お前くらいなもんだ」
 半ば本気でそう言うと、馬堂は一条の髪の毛を掴み、それをゆっくりと自身の方へ引いた。何のつもりか知らないが、引く気はないらしい。生真面目な彼は、こんな場所で行為に及ぶなど考えたくもないはずなのに。けれど、そう言うことなら、この男の解かり易い挑発に敢えて乗ってやるのも、必要なのかも知れない。
「いいのか、お前の弱みに、つけこむぞ」
「……ええ。前も言いましたけど、今更……ですよ」
「……俺は機嫌が悪い。加減出来ないぞ」
「……いいですよ……」
 そっと口元から咥えていたものを引っ張り出すと、馬堂は代わりに目の前の柔らかい唇に噛み付いた。
 僅かに震える唇も、荒く吐き出される息も、全て奪うように深く口付けると、やがて一条の舌もぎこちなく応えだした。

「……っ、は……」
 噛み付くように味わっていた唇から、苦しげな吐息が漏れた。離れた唇からは、乱れた呼吸が繰り返されている。酸素を取り込むように、浅く息を吐き、そして吸い込む。そんな間も与えずに、馬堂は一条の後頭部に回した手でがしりと茶色の髪の毛を掴んだ。
「んっ、……ぅっ」
 そのまま、ぐい、と力を込めて引き付けると、強引に合わせられた唇から苦しげな声が漏れた。舌先を弄び、口内を蹂躙しながら、馬堂は乱れた衣服を掻き分けて一条の肌の上を手の平でなぞった。無意識に逃げを打つ腰を抱き、下肢を弄ぶ。
「馬堂、さ……」
「……止めんぞ、今更」
「わ、かってます……」
「なら、黙っていろ。それで、少しは協力しろ」
「……んっ」
「誰であろうと、お前に手を出すやつは許さん」
「そんな、こと……、く……っ」
 徐に二の足の奥へと指先を伸ばすと、ひく、と小さく喉が鳴った。
「解かってますよ、俺だって」
 ――俺だって、あんただからだ。だから、こんなこと……。
 耳元を掠めた微かな声を、馬堂は恐らくずっと忘れないと、そう思った。