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「あなたがもっと、悪い男だったら良かったのに」
「……」
本当に突然。面と向かってそんなことを言われて、どくりと鼓動が跳ね上がったのを覚えている。
「……どう言う意味だ、葛」
「そのままの意味よ。でも、深い意味はないわ。忘れて、一条さん」
尋ねた一条に、彼女は冷ややかな視線でそんなことを言い切った。
けれど、いつも彼女の台詞にはどこか含みがあるような気がする。だから、今のもきっと、何かしらの意味合いを持っていたに違いない。そうだとしたら、彼女の台詞は的を射ている。
そう思うと同時に、一条は視線を落とし、表情に影を落とした。
「……俺は十分、悪い男だよ」
「まぁね、ある意味はそうかも……」
「……?」
「でも、もっと、何て言うかね。娘との約束のノートなんて律儀に作ったりする男じゃなくて、もっと嫌なヤツだったら良かったのにって」
「……!何でそれを、きみが……」
娘とだけの約束。それを何故、彼女が知っているのか。
娘が馬堂に話し、彼から葛に伝わったのか。
そんなことを思いながら、探るように視線を上げると、ふと、彼女の顔がすぐ側まで近付いていることに気付いた。
葛の大きな目が、鼻先が触れそうなほど近くで、一条の顔をじっと見上げていた。
「あなたがもっと、嫌な男だったら」
「……!」
つい、と胸元に彼女の人差し指が触れ、一条はびくりと身を固くした。
息を飲むこちらにお構いなく、彼女は緊張するように上下した胸元を、そっと指先でなぞった。
そうして、こちらの反応を愉しむように、ゆっくりと、力の籠められた指先が移動する。
触れている指先と、身に纏っていると衣服の下、脈打つように蠢く肌の手触り。
それをじっくりと確かめ、反応を引き出すように葛の指先がその場所をなぞる。
「……っ」
ただ触れているだけではない。ある種の意志を込めてあからさまに触れられ、一条は緊張に耐え切れず、ふっと短い息を吐き出した。
とにかく何か言おうと、微かに喉を震わせた、直後。葛は弾かれたように笑い出した。
「あはは!冗談よ、一条さん」
「……葛!」
「だから言ったでしょう。あなたがそんな男だったら、こう言うことにも乗ってくれたのかしら、ってね。真面目で馬鹿正直な一条さん」
「葛!」
一回りも年下の異性にからかわれたと知り、一条の頬は知らず朱に染まる気がした。
それを見て、彼女は笑いを堪えるように口元を手で抑えた。
「だから、冗談よ。じゃあ、あの子によろしく」
「……っ」
そう言って、彼女はそのまま側を離れて行った。
「全く……」
髪の毛を掻き上げて溜息混じりに呟き、一条は強張った肢体からすっと力を抜いた。
けれど、胸元には未だに彼女の温もりが残っている。
意図して触れられた、愛撫のように蠢いた指先。
こんなことを施される感覚には、覚えがあった。それも、ごく最近だ。
いや、そんなものじゃない。もっと、明確な意思を持って肌の上を蠢く指先。胸の突起に絡み付く、濡れた熱い舌先。
リアルに蘇ったその感覚に、一条はぶるりと身を震わせた。
「俺は、十分……嫌な男だ」
仄かに掠れた吐息に混じって吐き出した声は、一条の耳元に重たく響いた。
そのとき肢体を駆け巡っていたのは、何となく押し寄せる罪悪なのか、次々と押し寄せる痺れだったのか。
「……うっ」
ふと、堪え切れずに押し殺した声を上げると、上に圧し掛かって肢体を組み敷いていた男は、ぐっと身を屈めて来た。
「……っ」
繋がりが深まり、思わず仰け反った喉に、彼はそっと顔を寄せた。
「香水の匂いがきついな、一条」
「――あ――」
何を言われたのか、一瞬意味が解からなかった。
彼のごつい指先が喉元へ伸ばされ、上下する喉仏をゆっくりと弄るようになぞる。幾度かそんな仕草を繰り返されたところで、一条はハッとした。
昼間。こんな風に、もっと細い指先に触れられたことを思い出したからだ。
同時に、彼が何を言いたいのかも、理解した。
恐らく、ほんの少しだけ。髪の毛辺りに残っていたのだ、彼女の香りが。
「葛と、何か話したのか?」
「……美雲のことを、少し」
「それでこんなに匂いが移るか?」
「……別に、そんな――んっ」
そこで、彼のもので唇を塞がれ、一条の声は途切れた。
ぐっと押し付けられた唇に、呼吸まで奪われるような気がする。
「ん、……ぅ」
掠れた声を上げながら、一条は眉根を寄せて、きつく目を閉じた。
脳裏に、昼間の彼女とのやり取りが浮かび上がってくる。
そんなに、香りが移っていたはずはない。本当に、少しだけ触れ合っただけだ。それに、彼女はただからかっていただけだ。
どこまで本気なのか解からないが、一回りも年下の女性なのだ。
「何を、話した?」
ややして、そっと離れて行った唇が、息つく間もなく問い掛けて来る。
胸板を上下させて呼吸を整えると、一条は笑いを含んだ声を上げた。
「そう言えば……もっと嫌な男だったらいいって、言われましたよ」
「お前が、か?」
「ええ……、そうみたいです」
「そうか、解かる気がするな」
「なんです、それ……」
単純に意味が解からず聞き返すと、馬堂はただでさえ鋭い眼差しをより険しくし、一条を見下ろした。
「そうだな、例えば……」
「……っ、ぁ!」
そこで、ぐっと奥まで突き上げられ、ひゅっと喉が鳴った。
思わずもがくように持ち上げた手首が取られ、押さえつけられる。
「馬堂、さん!」
突然の暴挙に、怯えたような色が双眸に走った。
それを見て、険しかった瞳の色が穏やかなものに変わる。
「そう言う反応をされると、悪いことでもしている気分になる」
「――?」
「そう言うことだ、きっとな」
「何を、言って……」
言い掛けた言葉は、再び刻まれる動きに合わせて、途切れてしまった。
手首を抑える指先と、見下ろす視線に、明らかに欲が入り混じる。こう言った類の欲だけでなく、もっと何か別の。例えば、独占だとか、嗜虐心だとか。もっと他の、深層で蠢くある種の欲のような。
そう言えば、昼間の葛の目も、どこかそんな色をしていたと――。
一条は痺れて行く意識の中で、そんなことを思った。
終