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「馬堂さん、大丈夫ですか?しっかりして下さいよ。いい年なんだから、飲み過ぎて足腰立たなくなるなんて」
 全く、と溜息を吐きながら、一条は馬堂の腕を肩に回して支えながら歩いていた。夕刻から一緒に酒を飲んで、何だかんだと話をしている内に、彼が酷く酔って潰れてしまったのだ。仕方なく、こうして家まで送る羽目になっている。
 家では美雲が自分の帰りを待っていると言うのに。早めに戻らなくてはいけない。そんな思いから、一条はおぼつかない足取りで二人分の体重を支え、何とか馬堂の住む部屋の前へと辿り着いた。
「着きましたよ、馬堂さん」
 そう言っても、返事はない。仕方なく、勝手にコートのポケットを探って、鍵を取り出した。扉を開けて、肢体を引き摺るように中へと入った、その途端。
「うわっ」
 突然、馬堂の体がバランスを失ってよろめき、一条は彼と共に玄関先に思い切り倒れ込んでしまった。
「う……っ」
 強く背中を打ち付けて、走った痛みに眉根を寄せる。しかも、上には馬堂が糸の切れた人形のように圧し掛かっている。退かそうとしても、びくともしない。
「全く」
 とんだ状況だ。深く溜息を吐きながら、一条は手を持ち上げて、ぽんぽんとあやすように馬堂の背を軽く叩いた。けれど、やはり反応はない。ずしりと圧し掛かる肢体は熱くて、身動き取れないこの状況が、何だか落ち着かない。
「馬堂さん、重いですよ」
「……」
 訴え掛けても、返答がない。そんなに酷く酔ってしまったのだろうか。今まで、幾度も酒を共に飲んだことはあるけれど、一度もこんな風になったことはないのに。
 ともかく、こんな玄関先の、しかも床の上に倒れ込んだままなのは不本意だ。
 一条は再び腕を上げ、優しい仕草で背中を撫で付けながら声を上げた。
「立てますか、馬堂さん。取り合えず退いて下さ……」
「少し、黙ってろ」
「……!」
 不機嫌な、けれどしっかりとした声が発せられて、一条の語尾に重なった。紛れもない、馬堂の声。いつから、意識がはっきりしていたのか。
「馬堂さ……」
「黙っていろと、言ったはずだ」
「……ん、むっ!?」
 直後。先ほどより苛立ちを含んだ声と共に、ぐい、と口内に押し込まれた固い物体に一条は驚いて目を見開いた。口内を犯す異物の感触に、慌てて舌先で押し返そうとすると、甘い味が広がって、すぐにそれが彼がいつも咥えている飴だと気付いた。
「ちょっ……と、いらないですよ、今は甘いものなんて……」
「いいから、黙っていろ、一条」
 低い声でそう囁いて、馬堂は無理矢理口内に突っ込んだ丸い物体をぐるりと回した。舌の上を転がる感触に、必然的に言葉を止める。子供じゃあるまいし、こんな風にお菓子なんかであやされる覚えなんてない。
 けれど、馬堂の指先はいつの間にか一条の顎を捕らえ、拒否出来ない様に押さえ込んでしまった。
「ん……っ」
 意思とは関係なく口内を蠢く異物に、思わずえずきそうになってぐっと堪える。
 少し涙に潤んだ目を上げて彼の表情を伺うと、至って冷静な視線が自分を見下ろしていた。少しも酔った素振りなどない、いつもと変わらない、鋭い視線。彼はあくまで落ち着き払っていて、まるで観察でもするように淡々と一条を見下ろしている。
(酔ってないな、この人は)
 さっきまでのは、芝居か。すぐにそうと気付いたけれど、彼の意図が解からない。何でこんなことしているのか。何を確かめているのか。
 それが知りたかったので、一条は抵抗を止めて馬堂の好きなようにさせることにした。口内を動き回るように回転させられていた飴は、呼吸を落ち着けてしまえば、異物感など気にならなくなる。馬堂の動きに合わせて自分で飴を転がすように舌先を動かすと、先ほどよりもずっと楽になった。
 数分間、無言のままそんなことを続け、ようやく一条の口内から飴を引き抜くと、馬堂はぽつりと呟きを落とした。
「いけそうだな」
「……なんの話ですか」
「こっちの話だ」
「だから、何です」
「咥えるのがいけそうだと言う話だ」
「だから、何の……」
 咄嗟に反論し掛けて、一条は口を噤んだ。彼が何を言っているのか、解かってしまったからだ。驚くより何より先に、何だか呆れたような溜息が唇から漏れた。
「馬堂さん……欲求不満ですか」
「ああ……多分な」
「正気ですか、俺相手に。突っ込みどころ満載過ぎです」
「突っ込みたいのは俺だ」
「……」
 露骨な台詞に思わず息を詰め、一条は目を見開いた。すぅっと酸素を取り込んだ唇の上を、馬堂の指先がそっとなぞった。柔らかさを確かめるように、彼のごつい指が滑り抜けて、一条は拒絶の言葉を飲み込んだ。
 何のつもりだろう。鋭い彼の目に曇りも迷いも見当たらない。じゃあ、まさか本気なのか。
「馬堂さ……」
 開き掛けた唇の奥へと次に押し込まれたのは、今の今まで唇の上を這っていた馬堂の指先だった。
「ん、……ぅっ!」
「甘いのが嫌ならこっちを舐めてろ」
「……っ」
 飴の質量とは違う。喉の奥にまで侵入する勢いで、それが口内を無遠慮に掻き回す。舌先を弄り、唾液で潤ったそれを、ぐるりと回転させ、それからゆっくりと引き抜いては又押し込む。
「んん、ぐ……っ」
 苦しさと共に不安が込み上げ、鼓動が少しずつ跳ね上がって来た。何とか追い返そうとするけれど、歯を立ててやる余裕すらない。いつの間にか足が左右に割られ、馬堂の肢体がその間に押し込まれていた。胸板が重なって、その奥でどくどくと早鐘のように鳴る互いの鼓動が重なる。
「ふ……っ」
 一気に指が引き抜かれ、大量に酸素を吸い込んだのも束の間、代わりに貪るように吸い付く感触に唇を奪われる。
「んぅ、ん……」
 何か言おうとしても、言葉にならない。キスされているのだと気付くと、一瞬頭の奥が真っ白になった。

「抱いてもいいか、一条」
 ようやく唇が解放されると、遠慮がちな声が降って来た。ぜぃぜぃと肩で息をしながら濡れた唇を手の甲で拭う一条は、返事をする余裕もない。言われた内容に、ガン!と頭を殴られたようなショックを受け、冷静になるだけで精一杯だ。それでも、このまま黙っていては本当に強行されそうだと言う思いから、何とか途切れ途切れの声を上げた。
「それは、俺を……女のようにしたいってこと、ですか」
「……」
 こちらの問い掛けに、少し迷って、馬堂は首を縦に振った。
「ああ、そうだ」
「何でです……」
「言っただろう。欲求不満だ。お前が足りなくて」
「……」
 真っ直ぐ降りて来る視線に、一筋の欲が入り混じった。明らかに、自分をそう言う対象と見ている、馬堂の目。冗談めかして誤魔化してしまおうと思ったのに、それに気付いた途端、そんな気は失せてしまった。
 やがて、纏わり付く視線からおずおずと目を逸らし、一条はか細い声を発した。
「……どっちにしろ、ここでやるのは嫌ですよ」
「……一条」
 馬堂の呼び声が驚きを含んでいる。同時に、僅かに興奮で掠れているような。次の瞬間、石のように圧し掛かっていた肢体が上から退いた。そして、信じられない力で腕を引かれ、あっと言う間にベッドの上に投げ出された。
「一条」
「……っ」
 そんな声と共に、ぎし、とベッドが軋んで、馬堂が再び圧し掛かって来る。
 ちょっと、待ってくれ。まさか、このままことに及ぶつもりなのか。第一、靴だって履いたままだ。しかも、どうやってやるんだ。漠然と解かってはいるけれど、ただそれだけだ。
 このあり得ない状況に、一体どこから突っ込めばいいのかと胸中で叫んで、先ほどの馬堂の台詞を思い出した。突っ込みたいのは俺だ、と言っていた。もう一度その台詞を頭で反芻した途端、ざぁっと音を立てて血の気が引いた気がした。
「み、美雲が家で待ってるんです、今日は……っ!」
 そのまますぐにでも開始されそうな行為に焦って、一条は苦し紛れに引き攣った声を上げた。馬堂の求めに応じても良いとは思ったけれど、心の準備と言うものがまだだ。当然だ。そんな、おいそれと覚悟など出来ることではない。
 美雲の名前を出すと、馬堂は現実に引き戻されたかのようにハッと我に返った。熱に浮かされていたような双眸に、理性の色が戻って来る。
「美雲か。それは、まずいな」
「ええ、そうでしょう」
 思わず、ホッと胸を撫で下ろす。どうやら、思い止まってくれたようだ。こう言うところは、互いに若さの勢いに任せる年齢でもない分、助かる。
「それじゃあ、又、今度」
 ベッドからそそくさと降り、一条は乱れた髪の毛を指先で掬った。不満そうな馬堂の視線が絡み付くけれど、こればかりはどうしようもない。少しの罪悪感が胸を過ぎるのを無視して、一条は緩い仕草でベッドから降りた馬堂の横を擦り抜けた。
 けれど、玄関に立ってドアノブに手を掛けた途端。首筋に巻き付けたスカーフが思い切り掴まれ、乱暴に引っ張られた。
「ん……っ!」
 無理矢理振り向かされるのと同時に、ぐっと強く、馬堂のそれで唇が塞がれる。先ほどしたよりも濃厚で、息を吐く間もない。口内に舌が侵入し、遠慮なく蠢いて絡み付いて来る。スカーフを掴んでいた手がずれてゆっくりと上体を撫で、そのまま下肢へと降りて来た。
「……っ、んっ!」
 驚いて抵抗しようとした腕は、体ごと押さえ付けられてしまった。遠慮のない愛撫を直接もたらされ、一条は必死でもがいた。
 一体、どう言うつもりなのか。今日はもう、引き下がってくれたのではないか。
 そんな疑問すらどうでも良くなるほど、巧みな動きで下肢を弄られ、腹の奥で蠢く快感が止まらなくなる。
「んっ、……つ、んっ」
 思わず、鼻に抜けるような掠れた声が上がった。
 その直後。突然、心地良い刺激は途絶え、一条はいつの間にか縋り付くように立っていた馬堂から強引に引き剥がされた。
「馬堂、さん?」
 何が起きたのか解からず、惚けたような声を上げると、お互いの唾液で濡れた唇を拭いながら、どこか愉悦を見出したような表情を浮かべる顔が見えた。
「又今度な、一条」
「……」
(……う)
 すっかり反応してしまった肢体を持て余して、一条は途方に暮れたような顔になった。馬堂もきっと、そうなのだ。つまり、お互いさまと言うことだ。
「ええ、また……、今度」
 頬を引き攣らせながらも何とかそれだけ言って、一条は今度こそドアノブを回して馬堂の部屋を出た。