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「どうすればいいんだ、一体」
裁判所の一室で一条が声を荒げると、話をしていた相手、葛弁護士は押し殺した声を上げた。
「興奮しないで、一条さん」
「ああ、すまない、葛」
冷静な葛の声に視線を伏せ、一条は苦い吐息を吐き出した。
一条は追い詰められていた。ある事件を追っている途中で、突然担当検事から降ろされることになったからだ。理由は解かっている。一条が容疑者を取り調べたとき、幾つかの不審な点に気付いた。馬堂と共に、自分なりに調査して報告しようとした途端、命令が下った。
「でもね、確証はないんでしょう?それに、これは私の管轄外よ、一条さん。相談されてもどうしようもないわ」
「解かってる」
それでも、藁にも縋る思いだった。勿論、馬堂にも相談した。このまま引き下がるしかないのは忍びないと言う思いは同じだったけれど、良い解決策はなかった。当然、一条の望みは鴉の最後の羽である彼女へと向けられた。けれど、やはり色よい返事は貰えなかった。落胆を隠せずに俯くと、葛が淡々とした声を上げた。
「私なんかより、ちゃんと上に掛け合ってみたら?」
「当たってみたが、皆手応えなしだった。大したコネもないしな」
「……そうでしょうね」
葛の声に、一条は溜息を吐き出した。
何故、真実は捕まえようとしてもこの手から零れ落ちてしまうのだろう。以前の事件もそうだった。裁判で証言するはずだった女性が殺された。殺した男は、解かっている。それなのに、まんまと逃げられてしまった。本当に、堪らない。悔しげに唇を噛むと、何事か考え込んでいた葛が低い声を上げた。
「方法は……ないこともないわ。可能性は薄いけど」
「何だ、それは!教えてくれ」
「……」
縋り付く思いで顔を上げ、目を輝かせると、対照的に葛は眉根を寄せて視線を伏せた。
「……葛?」
「方法はあるにはあるの。ちょっとした繋がりでね。でも、あまりお勧め出来ないわ」
「何か、理由でもあるのか」
「ええ、まぁね。あなたに教えたことがばれたら、馬堂刑事に怒られてしまうわ」
もったいぶった言い方をする弁護士に、一条は一歩間を詰めた。
「何でもいい。望みがあるなら、それに賭けたい。教えてくれ、葛」
一条の目が葛のそれを捉えた。少し前まで、ひたすら真っ直ぐに強い意思を帯びていた目には、度重なる葛藤への疲弊か、苦悶の色が読み取れた。寄せられた眉根の下で悩ましげな光を放つ双眸が、かえって妙な色気を醸し出していた。勿論、本人にそんな自覚はない。けれど、女弁護士は彼の目の奥に、未だに強く潜んでいるものを見た。悲壮な眸だと、葛は心の中で思った。
「後悔しないわね」
「勿論だ」
低く呟かれた言葉に、一条は躊躇いなく頷いた。
「紹介するだけよ。会う手はずは整えてあげるけど、あとは自分で何とかして頂戴。上手く行くかは、あなた次第ね。それ以上は私にはどうにも出来ないから」
「ありがとう、葛」
「止めて、お礼なんていらないわ。私だって、本当ならそう言うことはして欲しくないの、あなたにはね」
「……どう言う、ことだ」
曖昧な言い方に眉根を寄せると、葛はゆっくりと腕を腰に当てながら口を開いた。
彼女から情報を聞き出して別れた後、一条の胸中は複雑な思いで溢れていた。言うだけあって、彼女が言う人物は、相当に力のある男だった。一条も名前くらいは知ってる。どうして葛にそんなコネがあるのか知らないが、とにかくその男に話を通して、何とか便宜を図って貰えれば!
そう思うと、期待で胸が弾む。
けれど。その後告げられた内容を頭の中で反芻した途端、思わず自身の体を抱き締めるように腕を回した。一瞬だけ、くらりと眩暈が襲った。
――あの男には、ちょっと変わった性癖があるのよ。好きなの、男が。それも、若い男じゃなく、あなたみたいなね。
「……」
そんなこと、本気で言っているのだろうか。告げられた内容は到底理解しがたいことだった。
――誘ってみろって言ってるのよ。一条さん、あなたに出来る?
葛の声が挑戦的なものになって頭に響く。
(出来るか出来ないかじゃない。やってみせる)
先ほど、自分で口にした通りだ。可能性があるなら、それに賭けたい。今更、何を迷うことがあるのだろう。検事と言う、法の番人である自分が、自ら犯罪紛いのことに手を染めた。後悔は、していない。それなら、体を差し出すことで少しでもその可能性が上がるなら。
一条は家に帰ると、上着を脱いでソファに放った。娘の姿はない。まだ、学校へ行っている時間だ。
洗面台に立って顔を上げると、柔らかい光の中に、鏡に映った自分の顔が浮かび上がる。若いときとは違う。思い悩む内面が外身にまで滲んでいる。少し疲弊している、年を重ねた男の顔。長めの髪を指先で巣食うと、頬に影が出来た。
たまに、裁判所で若い女性に声を掛けられることはある。娘の美雲も、お父さん、かっこいい!と言ってくれる。でも、それだけだ。こんな男を抱きたいと思う男が、本当にいるだろうか。それに、自分がやろうとしていることは、到検事としての職務を越えている。いや、寧ろそれに反している。体を売り物にし、男に媚びろと言うのか。
でも。
「そうだ、やるしかない」
低く呟く声には、既に固い覚悟の意が込められていた。
翌日。一条はいつも着ているスーツとは別の衣服を纏い、やや念入りに身なりを整えて検事局とは逆の方向へ足を進めた。表情はきつく引き締められ、目の奥には強い光が静かに浮んでいた。電車を乗り継ぎ、一度、柱に掛かった鏡でちらりと自身の姿を流し見た。少し乱れた髪の毛を指先で掬って整えると、もう足を止めることはなかった。
「お願いです。どうか、私が事件の担当を続けられるように、先生からもお願いして欲しいのです」
「……そう言われてもね、一条くん。きみの熱意は買うが……」
何とか面会することは出来たが、男の態度は冷たかった。眼光は鋭く、黙っているだけで彼の背後にある圧力に圧倒されそうになる。やや皺の刻まれた顔は、一見すると穏やかで優しげだったが、時折蛇のように鋭く細められる目が印象的だった。その顔には、厄介なことを持ち込まないでくれ、そんな態度がありありと滲み出ている。
けれど、引く訳に行かない。妙な威厳に圧倒されながらも、一条は尚も必死で声を上げた。
「それは、断ると言うことですか」
「そう言うことだ。残念だがお引き取り願おう」
素っ気なく言われ、身も蓋もない。けれど、自分を見詰める彼の眼に、ほんの一瞬だけ、値踏みするような、下卑たような色が浮き上がったのを、一条は見逃さなかった。ハッとして、思わず息を詰める。見開いた目に映る、自身を見詰める男の顔。ごく、と小さく喉が鳴った。
覚悟など、とうに決まっている。もう、迷うな。
震える心を叱咤して、一条は声色を変えた。仕事熱心な好青年のそれから、どこか甘えるような、柔らかいトーンのものに。
「俺……、私は、手ぶらでは帰る訳に行かないのです」
「私は忙しい身なのだよ、一条くん」
手を自身の顎へと持ち上げ、男はもったいぶるように指先で撫でた。
「お願いします。了承して頂く為になら、何でもします」
言い終えると、一条はゆっくりと上着のボタンを外した。
「…………」
男の目が、興味を引かれたように見開かれた。
好奇の目。これから自分がしようとしていることを見届けてやろうと言う―。お前のような、権力も金も持たない一介の検事に、何が出来るのか。見せてくれと言わんばかりの目。その視線に、一筋の欲が煌いた。その微かな炎が消えない内に、一条はボタンの外れた上着をゆっくりと脱いだ。袖口が右腕からそっと抜け落ちると、そのまま床へと投げ捨てた。震える足を叱咤して立ち上がると、男も釣られるように立ち上がり、こちらへ向けて手を伸ばす。
「何でもとは?例えばどんなことだ」
さらりと、長めの髪の毛を擽るように蠢いた手の平を、一条は震える手で捕まえた。そうして、喉の奥から声を振り絞る。
「あなたが望むことを、何でも――」
好奇に塗れた視線に、一層強く欲が入り混じった。男の片方の眉根が上がり、上から下までを舐めるように見回す。
「一条くん、と言ったね。本気かな」
「ええ。勿論です」
表情も変えずに言い切ると、急に高らかな笑いが上がった。
男が紳士の仮面を脱ぎ捨て、内面に溢れていた欲を剥き出しに一条を見詰める。肉欲に駆られた視線に晒されて、一瞬、一条の目は怯えるように揺れた。
「正気とは思えないね。それとも、この件がきみの出世に余程大きく関係しているのかな」
「そんなことは、断じてありません」
「ほう」
そっと、頬に熱い指先が触れた。途端、びりっとした感覚が走った。その指先が、殊更ゆっくりと、一条の頬を撫でる。
「面白い男だ。高い理想を持っていそうなのに、その為に泥水に塗れることに戸惑いがない」
「――っ」
項を伝って首筋を辿る手に、びく、と肩が揺れた。いつの間にか、肌が触れ合いそうなほど、男が身を寄せている。
成功したのだ。彼は、自分に興味を持った。取引は、成立しようとしている。何の保障もありはしないが……。
喜べ。道が開けたのだ。そう思おうとしたのに、足が震えた。
「きみみたいな人間は好きだよ。理想を遂行する為に、多少の犠牲は厭わない」
「……」
「その犠牲が自分自身の体だとしてもね」
言いながら、男のごつい指先がそっと一条の顎を捉えた。指先がなぞるようにゆっくりと蠢くのを、僅かに眉根を寄せてやり過す。
男が紡ぐ言葉など、何も聞かなければいい。屈辱など、耐えられる。あの、法で裁けない犯罪を指を咥えて見ているもどかしさに比べれば。
ぎゅっと唇を噛んで視線を上げると、彼は眩しいものでも見るように目を細めた。同時に、一条の肢体は男の腕に引き寄せられていた。
奥にある部屋へと連れて行かれ、装飾の施されたベッドが軋んだ。乱暴に投げ出され、シーツの波に飲まれるようにもがくと、腰を抱えられて中央まで引き摺られた。まるで、祭壇の上の哀れな生贄だ。この男に衣服を剥かれ肢体を暴かれても、ただ黙って受け入れることしか出来ない。
男が身を寄せ、指先で頬を撫で、耳朶に舌を這わせた。生温い息遣いに、肌の表面が粟立つ。恐怖の為か、ひく、と引き攣った喉元にも、男は遠慮なく噛み付いた。
固く閉ざされた体を解すように指が這い回る。腿を伝う手の平から逃れるように、一条は咄嗟に身を起こして尻でずり上がった。微かな抵抗に、男が舌打ちをする。襟元に巻いたスカーフが抜き取られ、一つに纏められた腕がベッドの柄に括りつけられた。両手の自由を奪われ、今更ながら怯えが走る。
真っ直ぐ伸ばされたしなやかな上体に、手の平がゆっくりと這わされた。シャツの上から幾度も突起を弄られ、びくんと肢体が揺れた。血液が集中し、固くしこり始めたそこを、布越しにじわじわと弄る。
「……っ」
「そんな顔をする必要はない」
屈辱と怒りに塗れた視線で睨み付けると、男は唇の端を歪めて笑った。
「プライドなど、すぐに忘れてしまう」
その言葉通りだった。
たった数時間ベッドの上で過ごしただけで、一条は自分が内面から作り変えられて行くのをありありと感じることになった。
「くっ、……ぅ」
噛み締めた唇の奥から、苦しげな声が漏れた。苦痛と快楽は幾筋も波のように襲って来た。びく、びく、と引き攣る胸板の突起に、男の舌が執拗に這う。耳元に響く濡れた音。ざらざらとした舌の嫌な感触。逃れても逃れても、蛇のようにしつこく追い掛けて来る。やがて、じわりと痺れが走り抜けて、それが余計に恥辱を煽った。その上、左右に割られた足の間に伸ばされた手は、何の戸惑いもなくこちらの中心を弄んでいた。
「ぁう、……ぅ、っ」
途切れ途切れに漏れる声が抑えられない。痛みなら、いくらでも覚悟していたのに。形だけでももがこうと試みる腕が、縛られた布切れに擦れて不快な音を立てている。
やがて、顎が乱暴に捉えられ、ゆっくりと唇が塞がれた。ぬめりを帯びた舌が潜り込んで、一条の舌を無理に絡め取る。
「んっ、ふっ」
恋人同士が交わすような、濃厚な口付け。ねっとりと絡む舌に、溢れる唾液が卑猥な音を立てる。無意識に首を振って逃れようとすると、顎を掴む指先に痛いほど力が加えられた。
衣服が剥かれる。その度に、プライドも一つずつ剥かれて行く。全てが晒される頃には、絶望だけが脳裏に浮んでいた。
やがて、中心を弄んでいた無骨な指先は、その奥へと伸ばされた。
「……っ」
きつく閉じていた目を見開いて、びく、と身を揺らすと、男は喉の奥で笑った。信じられない場所に侵入した指先は、そのまま無遠慮な仕草で中を掻き回し始めた。
「いっ、つ……、あっ」
無理矢理広げられた内壁がひくひくと蠢くのを愉しむように指が動き回る。オイルのようなものを塗り込められた秘部は、意志と反して異物を少しずつ飲み込んで行く。指先は強引に奥まで入り込んでは乱暴に抜かれ、ぐるりと円を描くように回され、内股は刺激に耐え切れないように小刻みに震えていた。
勝手に溢れ出た涙が頬を伝って濡れている。その屈辱に愉悦を見出したかのように、圧し掛かる男は涙を一筋一筋丁寧に舐め取った。
「……う、も、もう……」
哀願の言葉が口を突きそうになり、慌てて唇を噛み締める。それを嘲笑うように太い指先が奥へ潜り込み、呻きは微かな悲鳴に変わった。
「う……、ぐ、っ」
首筋に食いつき、痕が残るほど吸い付きながら、やがて男は耳元で猫撫で声を発した。
「足を開くんだ、もっと」
「……っ」
形だけの優しい口調とは裏腹に、逆らうことの出来ない言葉。残酷な宣告に、涙に濡れた双眸をハッとしたように見開く。今までの屈辱さえ、ただの序章なのだと思い知らされる。
それでも、これを望んだのは自分だ。内股をなぞる手の平に促されるまま、ゆるゆると足を開く。何もかも男の目下に晒されて、あまりの羞恥に眩暈がした。そっと押し当てられた肉の塊が、後ろを擽るように蠢く。
「あ……っ」
怯えるように身を揺らすと、男は喉を鳴らして笑った。
「力を抜け」
「……ぅあっ」
ぐ、と入り口を掻き分けるように進んだ楔に、苦痛の声が漏れた。男の手の平が双丘を押し広げ、先走りで濡れたものがゆっくりと体内に埋め込まれて行くのを、一条は成す術もなく受け入れるしかなかった。
えげつない。そんな一言が、脳裏に浮かんだ。
少しの隙間もないほどぎちりと埋め込まれた楔が無理矢理引き抜かれては押し込まれる。
「うっ、ぁ……、あ、あ……っ」
短く上がる悲鳴は、途切れることはなかった。叩き付けられる律動は少しずつ早まり、嗚咽の混じった悲鳴が迸る。
ああ、確かに。プライドなんてどこかへ行ってしまった。
けれど、これでいい。後悔はしていない。
「く、……っっ」
ぎゅっと胸の突起を摘み上げられて、肢体が跳ねた。男を咥え込んだ内壁が締まり、耳元にふっと恍惚とした息が掛かった。かと思えば、いやらしい仕草で優しく弄くられて、知らず腰が揺れる。
その度に高揚したように耳元で吐き出される吐息に、ぎゅっと目を瞑る。
それに、ひたすら翻弄されながらも、体が得ているのは苦痛だけではない。それが何よりの屈辱だ。男はこちらの痴態に興奮したように、自身の快楽のみを追うように荒っぽく腰を揺らし始めた。
「うぁ、……あ、……あ、止めっ」
短い声が喉を鳴らす。このままでは、壊れてしまう。
そう思った直後、どく、と中で脈打つ感触がして、中へ熱いものが叩き付けられた。男の吐き出した汚辱の証が、楔が抜かれると同時にどっと溢れ出た。内股を伝う白い体液に、思わず込み上げる吐き気を堪える。
けれど、それを拭う気力もなく、一条はシーツの上に崩れ落ちた。
「何をしていた、一条」
「……馬堂さん?」
衣服を整え、痛む体を引き摺って家へ帰る途中。
待ち伏せをしていたのだろうか。現れた男は眉根を寄せた。
大方、予想はついているのだろう。彼の表情は険しく、鋭い目は細められて尚尖って見えた。
「野暮用です。大したことじゃありません」
「待て」
横をすり抜けようとした腕が強い力で掴まれる。先ほどの男と同じような力なのに、屈服させられるのではなく、縋り付きたくなる強さのあるもの。
「離して下さい」
思わず胸の内が激しく揺れて、一条は顔を伏せた。
「家へ帰るなら、もっとましな顔になってからにしろ。美雲を悲しませたくないだろ」
「……ええ」
娘の名前を出されると、何も反論など出来ない。素直に頷いた一条に、だが馬堂の表情は変わらなかった。
「せめて、男の匂いを落とせ。家の風呂を貸してやる」
「……すみません」
「それから、もうこんなことはするな」
「葛がやるよりましですよ」
「そんなことを言ってるんじゃない」
ぎゅっと掴んだ腕に力を込められ、一条は眉を顰めた。骨が軋むほどの圧力。馬堂は怒っているのだ。それはよく解かっていた。
「別に、体くらいなら、いくらでも……」
「俺が良くない」
「それは、困りましたね」
皮肉な表情を浮かべて、一条は笑った。途端、掴まれたままの腕が勢い良く引かれた。
「……い、っ」
「お前が一体誰のものか、これから思い知らせてやる」
「馬堂さん……!」
力強い腕に引かれ、一条は逆らうことも出来ず、彼に引き摺られるようにおぼつかない足を進めた。
「葛、きみのお陰だ。礼を言うよ」
「止めてって言ったでしょう」
後日。二人だけになったのを見計らって低い声で告げると、葛は首を振った。
「でも、意外ね。どんなに打ちひしがれた顔してるかと思ったけど、あなた、けろっとしてるのね」
「そうか?」
「ええ、拍子抜けしたわ。これでも、結構責任感じてたのに」
「俺が望んだことだよ」
「それで、どう?感想は?」
「バカなこと聞くな」
「馬堂刑事には何て言い訳したの?」
「……」
「まぁ、それも聞かないであげるわ」
「頼むよ、葛」
一回り以上も年が離れていると言うのに、葛はいつも明け透けに言葉を紡ぐ。長い髪を掻き上げて笑う彼女に、一条も笑みを浮かべた。
確かに。あのときは、恥も外聞もなく、もう止めてくれと、何度懇願しそうになったか解からない。暴くところまで暴かれ踏み躙られたと言う、目を背けたくなるような事実。
けれど、そんな中でも、希望が開けたことに喜びを感じた。そう言えば、あの男が言っていた。高い理想を抱いているのに、泥に塗れるのを厭わない。確かに、そうかも知れない。自分が今持っているもう一つの名前。それこそが、その表れだ。この手が汚れようと、構わない。後悔はしていない。
一条が去った後、真っ直ぐに正された背中を見送って、葛は目を伏せた。
「本当は見たかったのかも知れないわ。私も――。あなたが、墜ちていくのを」
一条さん。そうでないと、あなたは脅威になってしまう。ご立派な理想なんて、さっさと捨ててしまえばいいのに。
「私に、あなたを消させないで」
低く呟かれた彼女の声は、誰にも届くことなく静かに消えてしまった。
終