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「おはようございます、馬堂刑事。今日は休みじゃなかったんですか?」
「ん……ああ、ちょっとな」
警察庁で声を掛けて来た新米の刑事に言葉少なく返答し、馬堂は自分のデスクの上からファイルを取り上げた。
昨日の内に提出しておく書類をうっかり忘れていたのだ。椅子を引いて腰を下ろし、馬堂は丁寧な手つきで書類にサインをした。
今日から三日、有給を取っている。その間、仕事のことで頭をいっぱいにしない為にも、気掛かりなことは全て片付けておかなくては。
馬堂は自分の仕事に穴がないかもう一度確認をして、席を立った。
これから、どうしようか。真っ直ぐ部屋に帰ろうか。何か美味い酒でも買って、昼間から飲むのも悪くない。いや、やはり楽しみは夜まで取っておくべきか。
知らず早くなる足を諌めながら、馬堂は最後の仕事をしようと、ポケットから携帯電話を取り出した。ボタンを押して番号を呼び出し、電話を掛ける。数コール呼び出し音が鳴った後、可愛らしい声が聞こえて来た。
『もしもし、馬堂のおじちゃん?』
「元気にやってるか、美雲」
『うん、大丈夫!今から学校に行くとこだよ』
「夜は大丈夫か」
『友達の家に泊まるから平気だよ!今から凄く楽しみなの』
そう言う美雲の声は本当に弾んでいて、久し振りに友人の家に行くのを本当に楽しみにしているように思える。鋭い眼光を少しだけ緩めながら、馬堂は言葉を続けた。
「寂しくないか」
『大丈夫。寂しくないよ。心配しないで!』
「一条に頼まれているからな。又電話する」
『うん!ありがとう!』
それだけ会話をして、馬堂は電話を切った。
一条が出張だなんだで家を留守にすることはよくある。寂しいなんて口にしない元気な少女だけど、実際は心細いに決まっている。
「すまないな、美雲」
視線を伏せ、心の底からそう呟くと、馬堂はポケットに携帯をしまい、足早に自宅へと急いだ。
家に着くと、鍵を回して扉を明け、羽織っていたコートを側にあったソファに放った。そんなに広くはないが割りとゆったりした感じの部屋だ。奥の部屋は寝室で、最近買ったベッドが置いてある。扉を開けると、分厚いカーテンを引いたままの部屋は朝だと言うのに酷く薄暗かった。
そんな中、目を凝らしてベッドの上に目をやると、馬堂は側へと足を進めた。
やがて暗闇に慣れて来ると、そこにいる人物の姿がはっきりと見えて来る。
疲れたような表情の男が身を投げ出すように横たわっていた。いつもきっちりと括っている髪の毛は少し乱れ、首筋に撒いてあるスカーフもない。白いシャツは二、三個ボタンが外れ、だらしなく緩んでいた。
自分が数十分前に出て行ったときと何ら変化のない状況に一息吐いて、馬堂はその人物に声を掛けた。
「今日から三日連休だ。嬉しいだろう、一条」
いつも通りの口調で紡がれた台詞に反応して、その人物、一条は気だるそうに逸らしていた顔をこちらに向けた。それに合わせて、チャリ、と金属の擦れる音が微かにする。
「そりゃ……嬉しいですよ、こんな状況じゃなきゃ」
その音が不快だとでも言うように眉根を寄せ、彼は溜息混じりに返答した。
「そうだな」
尤もだと言うように同調すると、一条が増々眉根を寄せる。皮肉っぽい笑みが消え、その顔には探るような色が浮んだ。
「美雲は……どうしてます」
「上手く言い包めておいた。悪く思うな」
「そう、ですか……」
「心配か」
「いえ……。俺のことを心配してなきゃ、いいです。あの子は、強い子だし」
「ああ、そうだな。お前は……」
言いながら、馬堂はゆっくりとベッドに体重を乗せた。途端、二人分の重みでぎしりと軋む音がする。その鈍い音に、一条が少しだけ身を固くするのを、馬堂は視界の隅で捕らえた。
「お前は、自分の心配をするべきだ」
そう言って、彼の両手首を鉄製のベッドの柄に括り付けている錠に確認するように指先で触れた。ちゃり、と小さく音を立てたそれは、横たわる彼の自由を完璧に奪っている。無造作に投げ出された肢体と乱れた髪の毛は、彼が捕獲された哀れな獲物である徴だ。けれど、シーツは少しも乱れておらず、暴れた形跡はない。一条の手首には、掠り傷の一つもない。馬堂の行動に少なからず怯えつつも、彼が完全に余裕を失っていないことの表れだ。
「俺を……どうしたいんです」
「最初に言った通りだ」
「……」
投げ掛けられた疑問に素っ気無く言い返すと、一条はぐっと息を飲み、口を噤んだ。
「お前が抱かせてくれるまで、これは外さん」
表情も変えずにそう言い放ったのは、昨晩のことだ。
手の掛かる仕事を終えて、馬堂の家で一杯やった後。無防備極まりない肢体を押し倒して拘束するのは拍子抜けするほど簡単だった。
突然冷たい錠に繋がれた挙句にそんなことを告げられた一条は、一瞬呆気に取られたような顔になり、それから少し引き攣った笑みを浮かべた。
「何言ってるんです、あんた」
何かの冗談か悪ふざけだと思っているのか、彼の声にはまだ緊張感がない。
けれど、逃れようともがく度、手元でカチャカチャと金属の擦れる音が立つと、やがて訝しげな顔になった。
「こんなもの持ち出して来るなんて、どうしたんです」
「気にするな、玩具だ」
「けど、外れませんね」
「ああ」
「……どう言うつもりです、馬堂さん」
ようやく、その声に探るような色が滲んだ。
今頃になって、手首に食い込むずっしりとした冷たい金属の感触に、不安になって来たようだ。
「だいたい、これがどう言うことか、解かってますよね」
「勿論だ」
「大事になる前に外してくれませんか」
「お前が同意した時点で何も問題なしだ。早く同意しろ」
「滅茶苦茶だ、あんた」
はぁ、と小さな溜息が漏れる。
「明日には外して下さいよ。お互い遅刻したくないはずだ」
「休みを取ってある。明日から三日間。俺も、お前もだ」
「……は」
今度こそ本当に驚いたように、一条の目が大きく見開かれた。信じられないと言ったように幾度か瞬きし、それから険しい表情になる。
「どう言うことです」
「勝手に申請しておいた。悪いな」
「そんなことが……」
そんなことが出来るものかと、言おうとしたのだろう。けれど、途中で思い直したのか、一条は言葉を止めた。馬堂なら、可能かも知れない。長い付き合いで、職務の内容は違えどお互いを理解し尽している。この頃、特に用もなさそうなのに何度も執務室まで足を運んでいたのもそのせいか。そう問い掛けるように、一条は険しい視線で馬堂を見詰めた。
けれど、こちらの決意が本気なのだと悟ると、一度顔を伏せ、それから感情の籠もらない声を発した。薄暗い、諦めに似た声。
「なら、さっさとやればいいでしょう。どうせ俺は逃げられない」
「無理矢理やる気はない」
「……面倒臭い人だな」
「……ああ」
「俺が同意する訳ないでしょう」
「そうだろうな」
全くその通りだと言うように静かに頷くと、彼は困ったように笑った。優しげな表情はいつもと少しも変わらない。こんな状況だと言うのに、彼は未だに恐怖も緊張も感じていないのだ。
いや、少しは動揺しているのか、無防備に投げ出された肢体は僅かに強張っている。けれど、それだけだ。
恐らく、一条は解かっているのだ。馬堂の望みは本物だが、強行する気はないと言う思いも本物だと。だから、期限は三日。三日だけ堪えれば、自分は解放される。つまりは、その間だけ耐えればいいのだと。
そんな経緯で繋いでから、半日経った今も、彼の余裕は変わらない。
落ち着いた色の双眸を見詰め、馬堂は挑むような視線を送った。
「根競べだな、一条」
「……ええ」
低く耳元に囁くと、一瞬びく、と肩を強張らせ、それから一条は挑戦を受けるように笑みを作った。