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九月九日。午前某時。
どかりと椅子に腰を下ろしている男の真向かいで、一条は厳しい表情を作っていた。
男が身動きする度に、ぎしりとパイプ椅子が軋む。落ち着かない様子の男に、一条は淡々とした調子で声を上げた。
「では、あなたは自分があのヤタガラスだと言う主張を取り下げるつもりはないと言うことですね」
確認するように男の顔を伺いながらも、男の背後に立つ馬堂刑事に、一条はさり気無く視線を送った。少し離れたデスクでボードを叩きながら記録をする男にも気付かれないように。
当然、目の前にいる男もその視線の意味に気付くはずはない。一条の視線に気付いた馬堂は、応えるように目を僅かに細めた。
「ああ、そうだよ。取り下げるもなにも、ヤタガラスは俺だ。間違いない。俺が殺人犯だなんて言い掛かりだ」
ふてぶてしい態度で言い放つ男に、一条は冷たい視線を送った。男、真刈はずっとこの調子で、取調べは埒が明かない状況だった。彼が緊急逮捕されてたのはつい昨夜のことだ。明日には裁判を控えていると言うのに、男は自分の立場を理解しているのだろうか。
彼が嘘を吐いていることは、ここにいる馬堂刑事が、そして何より自分自身が一番よく解かっていた。
第二の事件と言われている今回の事件。あのときと同じ轍は絶対に踏めない。失敗する訳には行かない。
内心でぎらつく思いを押さえ込んで、一条はふっと一呼吸吐いた。仕事なのだと言い聞かせ、丁寧な言葉を紡ぐ。
「あなたがヤタガラスだと言う証拠はありませんが」
「俺がヤタガラスじゃないと言う証拠もない」
「それは、どうでしょう」
落ち着き払った態度で悠々と返すと、突然真刈は逆上したように怒鳴り、椅子を蹴って立ち上がった。
「何なんだ、あんた!何が言いたいんだよ!」
「被告人、興奮しないように」
「煩い!」
一条に掴みかからんばかりに身を乗り出す真刈を、馬堂が素早く押さえ込んだ。後ろ手に拘束されているので、そうそう掴み掛かることも危害を加えることも出来はしないが。
「真刈、座れ」
「黙れよ、ごちゃごちゃうるさいんだよ!」
「真刈!」
怒気を孕んだ声で馬堂が名を呼び、押さえ込む腕に力を込めた。自分より相当体格の良い馬堂に完全に羽交い絞めにされ、真刈は諦めたように大人しくなった。
「午前の取調べは以上にします。下がって良いですよ」
この様子では、何も新しい事実などでないだろう。何より、こっちには決定的な証拠がある。
防犯ビデオにはっきりと映っていた自分の姿を見て、この男がどんな反応をするのか見物だ。あの狩魔検事にも言われた。この男の裁判は、一分で終るな、と。
そんなことを思い巡らしていると、ふと、馬堂に連れられて扉を出ようとしていた真刈が振り向き、嘲るような声を上げた。
「一条検事さん、だったよな」
「……?」
「そんな顔してられるのも今のうちだよ」
勘に触る笑い声に、一条はぴくりと眉根を寄せ、顔を上げた。
「どう言う、意味だ」
「へっ、あんただって、いつどんなことでその椅子から転がり落ちるか解からないってことだよ」
「何だと?」
「今の内に、優越感に浸ってりゃいい」
「黙れ、真刈!」
馬堂が声を荒げる。挑発に乗ってはいけない。こんなのはただの負け惜しみだ。
椅子から立ち上がり、一条はいつもと変わらない表情を浮べて馬堂を宥めた。
「大丈夫です、馬堂さん」
「だが、一条」
「いいんです」
真刈が舌打ちする男が部屋に響いた。彼は扉が閉まる瞬間、ぎらついた妙な視線を一条に送った。
その目に、何故か妙な胸騒ぎがするのを、一条は頭を振って振り払った。
その後。
「気に入らんな」
取調べを終えて執務室に戻っていると、訪れた馬堂がぽつりと声を上げた。
「何がです」
「目だよ、あいつの……」
あいつと言うのは、恐らく真刈のことだ。それは解かる。でも、彼がこんな風に言うのは珍しい。
「目、ですか……」
「ああ、あいつの、お前を見る目が気に入らん」
馬堂の言葉に、一条は先ほどの真刈の視線を思い出した。
「見るからにチンピラって感じですからね。検事やら刑事やらが好かないんでしょう」
「だったらいいけどな。あれは、何か企んでる顔だ」
「まさか。あの男にそんな技量があるとは思えません」
「それも、そうだ。だが……」
「気負い過ぎです、馬堂さん。きっと、俺たちは神経質になっているんだ」
「ああ、そうだな」
馬堂が頷くのを確認して、一条はゆっくり足を進め、彼の側に擦り寄った。凭れ掛かるように、彼の肩口に頭を乗せる。すぐに馬堂の手が持ち上がって、一条の肩を抱くように腕を回した。
「とにかく、あいつがヤタガラスだなんて、とんでもないデタラメだ」
「ああ、だが焦るなよ、一条。ボロを出すな」
「解かってます」
低い声で答える一条の髪の毛を擽るように、馬堂の指先が蠢いた。