懐柔




先ほどから、視界の隅にちらちらと映る、水色のニット帽。
しかも、何が楽しいのか、彼がいる場所は響也が腰掛ける椅子よりもずっと低い位置。

「あのさ、成歩堂龍一」

遂に我慢出来なくなって、響也は溜息混じりに声を上げた。

「何だい?」

椅子より低い位置…ようするに、床に直接寝転んでいた成歩堂は、響也の呼び掛けに視線だけ動かしてこちらを見た。

「あんたがいくら薄汚れた場所の方が好きでも…寛ぐなら、ソファとか、ベッドとか使ったらどうだい?」
「何か落ち着くんだよね、ここ。それに全然薄汚れてなんかいないよ、綺麗なもんだ」
「そりゃ…あんたの事務所に比べれば、そうかも知れないけどね」

その無神経さ、理解出来ないなぁ。
そう告げても、成歩堂は気にした様子もなく、暢気に声を上げて笑った。

あれ以来。
この部屋の居心地の良さに慣れてしまったのか、それとも響也自身に慣れてしまったのか。
成歩堂龍一は度々ここを訪れるようになっていた。
ふらりとやって来ては、又ふらりといなくなる。
まるで、そう…薄汚れた野良猫と言ったところだ。
ただ、野良猫と違うのは、響也が彼を追い出せない、と言うことだが…。
でも。
ソファに腰掛けた響也の側に、何も言わずに寝転んで、妙にリラックスしている彼の姿を見るのは、嫌いではなかった。
言い方を変えると、ただ単にだらだらしているだけ、とも言うが。



「どうしたんだい?難しい顔をして」

今日も、すぐ側にごろりと体を投げ出して、成歩堂は響也の顔を下から覗き込んで来た。

「ああ…この前の曲のタイトル、どうしようかと思ってね」
「本当に作ったのかい、あの…例の話で」
「多少熱く盛り上げてはいるけどね」
「熱く…ねぇ」

成歩堂の二つの目が、何処となく楽しそうな色を浮かべている。

「……」

思わずじっと見てしまうような、独特の色気がある、気だるい目。

(だから、その目で見るなと…言っているんだけどね)

解かってないようだ、この、元弁護士さんは。

こんな感じで、彼に付き合っていると、仕事にならない。
響也は敢えて彼を無視して、歌詞の書いてある紙に視線を戻した。
すると、突然、むくっと起き上がった成歩堂が、響也の横からそれを覗き込んで来た。
しかも、何を思ったのか、腕の間に無理矢理ズボっと頭を潜らせて来る。

「…へぇ〜流石だね、あの事件が、こんな詩になるとは…」
「……!」

まるで、本当に動物か何かだ。
成歩堂の体温が近くなったことで、響也はますます仕事がし辛くなってしまったのだが。
そんなこと、彼にはお構いなしのようだ。

「曲のタイトルかぁ…“危険な刺激・カゼゴロシ・Z”とか、どうだい?」
「……」
「“カゼゴロシ・Zは苦い恋の味”とか」

覗き見しながら、何だか楽しそうにそんなことを言っている。

「あんたね…何でもカゼゴロシ・Zを入れればいいってものじゃないんだけど?」
「そう言うものかい?“遅効性の恋はアトロキニーネ”とそんなに変わらないと思うけどなぁ」
「やれやれ…シロートくんには困るなぁ」

だいたい、それは商品名じゃないか。
溜息混じりに言いながら、響也はそこで、作業を続けることを断念した。
集中出来ないまま仕事しても、仕方ない。
後で睡眠時間を削るとするか…。

響也は歌詞の書いてある紙をテーブルの上に伏せて置き、その代わりに、側にあった成歩堂の顔を両手で抱え込んだ。
突然の行動に、驚いて見開かれた目にはお構いなく。
ぐい、と少し乱暴に引っ張って、無理矢理彼の唇を塞いだ。

「……!」

不自然な体勢でのキスに、成歩堂はバランスを崩して、響也の腕にしがみ付いて来た。

「ん……んっ」

ややして、体制がきつくなったのか、成歩堂は小さくもがいて響也から唇を離した。
若干乱れた呼吸を整えながら、彼は一度立ち上がり、こちらに向かって身を屈めた。
そうして、腰掛けたままの響也に凭れ掛かるように跨る。
視線が合う前に、後頭部に手を回してぐい、と引き付けた。
成歩堂の腕がゆっくりと持ち上がって、響也の首筋に回される。

「…は、…っ」

柔らかい唇を吸い上げると、成歩堂が吐息のような声を漏らした。
その反応に幾分煽られて、更に深く貪りながら、響也は彼の腰を両手で抱き抱えた。



「あ、そうだ…。牙琉検事」

長い時間が過ぎた後。
名前を呼ぶ声に振り向くと、帰り支度を始めた成歩堂が、テーブルの上に伏せてあった歌詞の紙を手に取っていた。

「……?なんだい?」

何事かと首を傾げると、彼はその紙を目の前でひらひらと振ってみせた。

「もし、この曲が売れたら…ぼくら親子を養ってね。原案はぼくなんだからさ」
「…やれやれ、あんたには呆れるね、本当に」

本当に、呆れてしまう。
でも。
そんなの冗談じゃない、と反応出来ない自分も彼と同じだと思って、響也は小さく肩を竦めた。
けれど…。
結局、ある事件をきっかけにガリューウエーブは解散してしまったので、あの曲は発売されることもなく。
冗談なのか本気なのか解からない成歩堂龍一の望みは、残念ながら、叶うことはなかったのだが・・・。



END