風邪薬2




それから、どの位経ったのだろう。

「あの、なるほどくん」

再び小さな呼び声がして、成歩堂は目を覚ました。
視界がぼやける中、目を凝らして見ると、可愛らしい春美の顔が側にある。

「春美ちゃん…」

だるい体に鞭打って、成歩堂はゆっくりと起き上がって彼女に向き直った。

「ごめん。ぼく、どの位寝てたかな」
「ええと、二時間ほどではないかと思います」
「そっか…。ごめんね、退屈しちゃったよね」
「い、いえ!大丈夫です!わたくし、ちょっと出掛けておりましたので!」
「え?そうなの?」
「はい!あの、これを買いに行っておりました」

言いながら春美がこちらに差し出したのは、小さなガラスの小瓶だった。
中には半透明の液体がゆらゆらと揺れている。

「これは……?」
「とてもよく効くお薬だそうです。お店の人に相談して、買って参りました!」
「え…?春美ちゃんが買って来てくれたのかい?」

成歩堂が目を見開くと、春美はこくんと小さく頷いた。

「そうか…。わざわざ、どうもありがとう」
「い、いえ」

素直にお礼を述べると、春美は照れたように頬を覆った。
薬があれば、熱も早く引くだろう。
生憎、いつも飲んでいるカゼゴロシ・Zを切らしていたので、本当に助かる。
成歩堂はありがたく飲むことにして、瓶の蓋をきゅっと捻って開けた。
そして、瓶を傾けて、一口含んだ途端。

「……?!」

眉間に、不機嫌なときの御剣怜侍よりも深い皺を刻んだ。

(な、何だ、この強烈な味は?!)

良薬は口に苦しと言うけれど、これは何と言うか、とても珍妙な…。
眉を顰めながら何気なくラベルを見て、成歩堂は思わず中身を思い切り吹き出してしまった。

「まぁ、なるほどくん!何をするのですか!」

驚いた春美が声を荒げる。
でも、気にしている場合ではなかった。

「は、春美ちゃん!これ…一体どこで、何て言って買って来たの?!」
「え、それは…。大人用のお店で、元気の出るお薬を下さいと…」
「……」

邪気の無い春美の回答に、成歩堂は思わず絶句してしまった。
何故なら、今手にしている小瓶に書かれているのは、明らかに『精力増強剤』の怪しい文字。

「よ、よ、よくこんなの、売って貰えたね」

成歩堂が冷や汗を浮かべながら尋ねると、春美は少し困ったように指を噛んだ。

「じ、実は…最初お願いしたときは、子供には売れないからと、断られてしまったのです。だからわたくし、千尋さまをお呼びして…」
「ええ?!」

(ち、千尋さんを…!)

「メモに、なるほどくんがどうしても必要としているのだと書いて、お願いしたのです。あっ、そう言えば…その後、わたくしの装束のたもとに千尋さまからのメモが入っておりました」

何となく嫌な予感がして、ごくりと生唾を飲み込む。

「そ、そこには、何て書いてあったの?」
「ええと…“なるほどくん、ほどほどにね”と…。どう言う意味だったのでしょう…」
「……」

成歩堂はこれ以上ないほど頭痛が激しくなるのを感じた。
一体どうやって、千尋の誤解を解いたらいいものか。
いや、それより…春美に何と説明すれば良いのか。

「あのね、春美ちゃん。この薬は…」

―風邪薬ではないんだよ。
そう言い掛けた、直後。

「いけませんよ、なるほどくん!ちゃんとお飲みにならなければ!」

成歩堂が苦い薬を嫌がって飲まないのだと勘違いしたのか、春美はそう言って、突然成歩堂から小瓶を取り上げた。
そして、それを両手で口の中に思い切り突っ込んで来た。

「ん…!んむ、ん!」

びっくりして目を見開く中、急激に液体が流れ込んで来て、弾みでごくりと飲み込んでしまった。



その、数十分後。
薬は噂で効いていた以上に効果覿面だったらしく。
成歩堂は蹲ったまま、ソファから動けなくなってしまった。
何故なら、立ち上がるとまずいからだ、色々と。

「も、申し訳ありません、なるほどくん。やっぱり、あれは違うお薬だったのですね・・・」
「う、い、いや。いいんだよ、春美ちゃん」
「ですが…先ほどよりも、息が物凄く乱れておられます」
「…!そ、それは!き、気にしないで!関係ないから!」
「そ、そうですか・・・」

ぎくりとしつつ誤魔化すように声を張り上げると、春美はしゅんとして肩を落とした。

「でも、わたくし、本当に何の役にも立たないのですね…」
「春美ちゃん…?」
「なるほどくんのお風邪を治すどころか、かえって悪化させてしまい、その上お薬一つ満足に買えなくて…」

本当に落ち込んでしまったのか、それきり、春美は黙り込んでしまった。
成歩堂が何を話し掛けても、うわの空なのか、答えが返って来ない。
部屋には何となく重い空気が漂ってしまった。

(参ったな…)

どうしたら、いいものか。
何か考えようにも、頭がぐらぐらして、体中熱くて、どうしようもない。
結局、何も言えないままで、時間だけが過ぎてしまった。
そして、更に数十分ほどが過ぎた、その時。

「なるほどくん」

不意に、春美が何かを決心したようにパッと顔を上げた。
真っ直ぐでくりくりの大きな目が、正面から成歩堂を捕える。

「何?春美ちゃん」

真摯な視線に応えるように、成歩堂は優しい眼差しを向けた。

「あの…わたくし…」

ほんの少し口籠もった後で、彼女の小さな唇がゆっくりと開く。

「まだ、一つだけ…。なるほどくんにして差し上げれることがあります」
「え……?」

今度は、一体何を…。
気持ちは嬉しいけれど、ちょっと不安だ。

「も、もういいよ、はる…」

春美を傷付けないよう、優しく言い掛けた言葉を、成歩堂は最後まで口にすることが出来なかった。
口元に、柔らかくてむにっとした感触のものが押し当てられたから。

「……?」

(え……)

一瞬、何が起きたのか解からなくて、目を限界まで大きく見開く。
続いて、チュッと小さな軽い音がして、ハッと我に返った。

「……!!」

何度か瞬きした成歩堂の目に、ぎゅっと目を瞑った春美の顔がいっぱいに映っていて。

(は、春美ちゃん!?)

そう声を上げようとしても言葉にならなかったのは、決して風邪のせいではない。

(えええ……!?)

もう一度瞬きして、成歩堂は胸中で悲鳴に近い声を上げた。
暫くして。

「これできっと、わたくしに風邪がうつる筈です!」

ようやく唇を離した春美は、相変わらず小さな拳を握り締めて一生懸命に叫んだ。

「お風邪は、うつせば軽くなると聞きました。わたくし、これくらいしか…」
「は、春美ちゃん!」
「何でしたら!念の為、もう一回!いえ、何度でも!」
「い、いやいやいや!もう十分だから!大丈夫だよ!」

有り難いけれどとんでもない春美の申し出を慌てて断って、成歩堂は思わず頭を抱えた。
何てことをするんだろう、この子は…。
本当に、びっくりした。
そっと触れた感触が消えなくて、何と言うか微妙な感じだけど、彼女が見ている前で唇を拭う訳にも行かない。
更に悶々とするハメになった頭と、ぐらぐら煮えたぎる熱い体を抱えて。
その晩、成歩堂は一睡もすることが出来なかった。



けれど、翌朝。
春美の決死の行動のお陰なのか、どうなのか。
成歩堂の熱は奇跡のようにすっかり下がっていて、風邪も完璧に回復していた。
ただ…。

「あ、あの、なるほどくん」
「な、何?春美ちゃん」
「あの、口付けのことは、真宵さまには内緒にしていて頂きたいのです…!あれは、あくまで治療なのです!やましいことなど、あ、あ、ありませんから!!ええ、ある訳がありませんとも!」
「う、うん!も、勿論だよ、大丈夫!」

春美に会う度、そうやって釘を刺されて、その都度あのことを思い出してしまい。
暫くの間、成歩堂は心の平安を得ることが出来なかった。



END