傷
「痛…っ」
「…?!成歩堂さん!?」
部屋の隅で小さく上がった声に、ディスクの上を片付けていた王泥喜は、焦ってそちらを見やった。
「どうしたんですか?成歩堂さん!?」
持ち前の大声と発生練習の成果で、必要以上に大きな音量で叫ぶと、相手…成歩堂龍一は困ったように肩を竦めてみせた。
「ちょっと、切ったみたいだけど、大丈夫だよ…」
「本当ですか?!ちょっと見せて下さい!いや、ええとその前に、消毒液は…!?」
「大袈裟だなぁ、少し落ち着きなよ、オドロキくん」
「小さいケガでも、放っておくのは良くないですよ!」
何と無く、成歩堂はそう言うことに無頓着そうだ。
例え大したことはなくても、彼が怪我をしたなんて、放っておける筈ない。
王泥喜は一生懸命に救急箱を探したけど、マジックの小道具で溢れている事務所内に、それらしきものは見当たらなかった。
「ない、ですね…救急箱」
「だから、大丈夫だって言ってるだろう?気にしなくていいよ」
「そ、そうはいきませんよ!」
「じゃあ…どうするのかな」
(ううっ…そんなこと、解からない)
王泥喜は言葉に詰まったけれど、尊敬する成歩堂の視線が、まるで自分に答えを求めるように、じっとこちらを見ている。
(気のせいかも知れないけど)
ここは何としても切り抜けてみせる。
そう思い立ったものの、医療の知識なんかないので、王泥喜は半ばヤケになって口を開いた。
「そうですね、えっと、取り合えずは…舐めて消毒でもします!!」
「え…ちょっ、と…オドロキく…」
目を見開いた成歩堂にお構いなく。
王泥喜はずいっと彼に身を寄せ、薄っすらと血を滲ませていた場所を、ぺろと舌先で舐めた。
「……」
「……」
あ、あれ…?
途端、空気が凍りついたのは…気のせいではない筈だ。
自分は今、夢中で何をやったのか…。
(ああああ……!!)
我に返った王泥喜は、胸中で声にならない叫びを上げた。
「オドロキくん…自分で舐めれるよ。…唇の傷くらい、ね」
気まずい間の後、更に気まずさを促す成歩堂の台詞。
ズバっと指摘されてしまい、王泥喜は耳まで真っ赤になってしまった。
「す、すみません…。俺…その、夢中で…っ」
「……」
ピンと立ち上がったトレードマークの前髪も、王泥喜の胸中と一緒でくたりと寝てしまっている。
どうやって、言い訳したらいいだろう。
慌てていたとは言え、どさくさに紛れて、この人の唇を…。
(ん……?)
く、唇を……?
(な、何だかキス…みたいだよな)
この、成歩堂龍一に、キスしたのと同じような…。
「オドロキくん」
「は、はいっ!」
「その緩んだ顔…何を考えているのか聞きたいな」
(うっ!しまった!顔が緩んでいたのか!)
「いえ、あの…俺…」
赤くなったり青くなったりする王泥喜の様子を、暫く黙って見詰めていた成歩堂だったけど。
「…ねぇ、オドロキくん」
ややして、何を思ったのか声色を変え、挑発するような口調で呼び掛けて来た。
「な、何ですか?」
いつもより少し低めの声にドキっとしながらも、ピンと背筋を伸ばして答えると、彼は何だか楽しそうに続けた。
「折角だから…完全に血が止まるまで、お願いしようかな、消毒」
「え……?!」
(ええええ?!!)
又、何を言い出すのだ、この人は?!
「で、でも?!」
法廷でもないのに掠れて裏返った声を上げると、成歩堂は顔色も変えずににこにこ笑ってみせた。
「消毒なんだろう?あくまで」
「……!」
(そ、そうか。成歩堂さんは俺を試しているんだ)
ここは、彼の期待に応えておきたい。
王泥喜は近くにあったディスクを両の拳でバン!と引っ叩いた。
「も、勿論です!下心なんて、俺、ありませんから!!」
今の時点で、下心があります!と叫んだようなものだけど、それはまぁこの際、目を瞑って。
「じゃ、じゃあ…行きますよ…」
思わず、ごくっと生唾を飲み込む。
王泥喜は成歩堂に真正面から向き直って、がしっとその両肩を捕まえた。
ドキドキと煩い心臓にはお構いなく。
「な…成歩堂さん…」
王泥喜は意を決したようにきゅっと目を瞑り、成歩堂に思い切り顔を寄せた。
その、直後。
ゴツ!!!
「……!!」
「……!!」
鈍い音がして、自慢の(?)おデコに物凄い衝撃が走った。
どうやら、勢い余って、額同士をぶつけてしまったようだ。
それも、思い切り。
危うく、成歩堂の額をかち割ってしまうところだった。
「な、成歩堂さん…すみません!」
自分も涙目になりながら、慌てて目を見開いて彼を見やると。
いつの間にか、彼は自分にあからさまに背を向けてしまっていた。
「あ、あの…成歩堂…さん?」
「……」
「成歩堂…さん…」
「……」
きっと、相当痛かったに違いない。
その後、幾ら呼び掛けても、成歩堂から返答が返って来る事はなかった。
それから、数時間経って。
「成歩堂さん、すみません!本当に!!」
「何のことかな…」
(うう……っ)
王泥喜は未だ機嫌が直らないらしい成歩堂に、必死に話し掛ける努力をしていた。
「あ、成歩堂さん、俺…何かご飯作りますか?良かったら好きなものを…」
「……。みぬき、早く帰って来ないかなぁ…」
「な、成歩堂さん…」
(怒ってるな、これ…)
しかも、相当。
初めての裁判の時も、思い切り殴ってしまったから…。
それと合わせて、これで二発…。
(ああ…俺。この人に…頭、上がらないかも知れない)
まだヒリヒリするおデコを擦りながら。
何だか胸の奥も一緒にヒリヒリしたような気がして、王泥喜はちょっと切ない溜息を吐き出した。
END