境界線
ふと、ごろりと寝返りを打った弾みに、自分以外の温かい温度を感じて、王泥喜は目を覚ました。
「うーん……?」
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。顔を上げると、すぐ側で見知った人物が背中を丸めて眠っているのが見えた。
この、後姿からでも伝わるだらしなさとやる気のなさ。彼しかいない。
(成歩堂さん……)
側にいる人物の名前を胸中で呼んで、王泥喜は短い溜息を吐いた。
手を伸ばせば、そのつんつんの髪にも、猫みたいに丸くなった背中にも、すぐに触れられる距離にある。息を殺すと、気持ち良さそうな息遣いが規則正しく聞こえて来る。少しでも体勢を入れ替えてしまえば、あっと言う間に組み敷くことだって出来るような、僅かな隙間。
でも、そんなこと、出来るはずない。
王泥喜はもう一度静かに吐息を吐き出して、そっとベッドから降りた。春先とは言え、まだ夜の空気は肌寒くて、体を包んでいた毛布がなくなると、急に体温が下がって、王泥喜は小さく身震いした。
彼を起こさないようにそっと扉を開け、事務所を後にすると、先ほどまで触れていた温かさが何だか妙に恋しくなった。
「ねぇ、オドロキくん」
「はい、なんですか」
「きみさ、夜のバイトする気ない?」
成歩堂龍一が突然そんなことを言い出したのは、もうかなり前のことだ。あれは丁度、冷たい風が吹き始めた秋の始め辺り。
「夜のバイト?なんですか?何か如何わしいことでも?」
この人が持ち掛けて来る話にろくなものはない。物凄く胡散臭そうな顔で矢継ぎ早に質問すると、成歩堂は気だるい顔に思わせぶりな笑みを浮かべた。
「そんなに警戒しないで欲しいな。大丈夫だよ、変なことじゃないから」
そう言って、彼はそのアルバイトやらの内容を話し始めた。
「簡単なことだよ、ぼくが寝付くまで、ちょっと一緒にいて欲しいんだけど」
「え?」
「最近、寒くなって来たから、すぐに寝付けなくてね。みぬきもショーが忙しくてあまりいないし」
「………」
つまり、彼が何を言っているのかと言うと。
「俺は、暖房器具の代わりってことですね」
いや、寧ろ湯たんぽか。
今日も、寝付く前にじりじりと体を寄せて来た成歩堂龍一に、王泥喜は頭を抱えながら呟きを漏らした。その声を聞いた彼が、気だるい視線を送って来る。
「何か、不満なのかい」
「……」
不満。不満なら、沢山ある。
いい年した大人が、添い寝しないと寝付けないのか、とか。暖房費くらいケチるな、とか。そもそもこのバイト、時給はいくらなんですか、とか。
でも、何を言っても今一番不満に思っている問題は解決しそうになかったので、王泥喜は黙って首を横に振った。
けれど。今晩も、すぐ側で規則正しい寝息が聞こえ出すと、何だか妙に虚しくなってしまった。
そっと半身を起こしてみると、無防備な成歩堂の寝顔が見える。
寝ているときだけは人畜無害な青年に見えるけど、実際は違う。
思わせぶりな台詞で、曖昧な言動で、不可解な笑みで、いつもこちらの内心を掻き回す、厄介な大人だ。なんだって、こんな厄介な人に捕まってしまったんだろう。憧れていた頃の成歩堂龍一は、何だか自分なんて到底手の届かない、別の場所に立っているような気がしていたのに。いや、それは今も変わらないだろうか。だって、こんなに近くにいるのに、今だってあと一歩が踏み出せない。
でも、限界と言うものは突然訪れるらしい。
ふと、込み上げて来る衝動に煽られるまま、王泥喜は手を伸ばして、そっと成歩堂の頬に触れた。ほんの少しだけ、撫でるように手の平を滑らせ、すぐに離れる。彼が眠っているのなら、絶対に起きることはないはずだったのに。
不意に、目の前にあった双眸がぱちりと開いて、王泥喜はびくっと肩を揺らしてしまった。
「な、成歩堂さん?!お、起きてたんですか」
動揺したまま、何とかそれだけ言うと、彼はいつものように気だるい眼差しでこちらを見詰め、そして笑みを浮かべた。
「……うん、何かいつもより寒くてね」
「……」
いつもより寒い?そんなこと、ない。少しだけ肌寒いけど、気温は以前より高いはずだ。現に、こうして密着していると、少し暑いくらい。薄っすらと汗だって浮き出て、呼吸だって、少し乱れるほど。
いや、それは、本当に気温のせいだろうか。もっと、他の要因のせいじゃないのか。こうして、彼と二人で同じベッドに寝転んだりして、行き場のない不満を抱えて悶々としてたからじゃないか。
それに、下から自分を見詰める成歩堂の目。いつもと、何かが違うような気がする。
ひょっとしたら、いつもこうやって狸寝入りしていたのだろうか。王泥喜がこうするのを、待っていたんじゃないのか。
そう思うと同時に、勝手に喉の奥から声が出ていた。
「成歩堂さん」
「うん?」
「寒いって言うなら、お、俺が……」
「……」
「俺が、もっとあっためてあげますよ」
言ってから、失敗したかなと思った。
でも、成歩堂龍一は別に動揺するでもなく、拒否するでもなく、ただ満足そうに微笑んで見せた。
「宜しく頼むよ、オドロキくん」
「……!」
やっぱり……。
きっと、彼は待っていたんだ。王泥喜が一歩踏み出すのを。
なんて狡い大人だろう。
今更ながら思い知ったけれど、でも、もう遅い。
「解かりました!任せて下さい!」
真っ向からそんな風に宣言すると、王泥喜はがばりと彼の上に圧し掛かった。
終