Last Card
ぎゅるるる…。
突然、そんな音でお腹が鳴って、成歩堂は腕時計をちらりと見やった。
もう針は正午過ぎを指している。
「お腹空いたな〜…」
今日は、可愛くて有能な助手もいないことだし。
一人で何処かに食事にでも出掛けようか。
そんな、一介の弁護士ののどかなひと時は…突然、ヒュン!と聞こえて来た鞭が空を切る鋭い音によって、中断されるハメになってしまった。
「いてっ!!?」
聞き覚えのある音と、背中に走ったこの痛み。
振り向いた成歩堂は、思わず思い切り息を飲んだ。
「き、きみは……!」
いつの間に入って来たのか、目の前に立っている美少女。
そして、高らかに構えられた鞭。間違える筈もない。
「か、狩魔冥!?アメリカに行ったんじゃなかったのか?!」
取り乱しながら当然の疑問を口にすると、彼女は涼しい顔で返答して来た。
「確かに…。私はアメリカへ帰ったけど…わざわざ戻って来たのよ。大事な用事があってね」
「…大事な、用事?」
確か…彼女が発って、まだ1週間とか、そこらな筈…。
そんなにとんぼ返りするほど重要な用事って、一体?
首を傾げる成歩堂にお構いなく、狩魔冥は突拍子もないことを言い出した。
「そう言う訳で、この私に付き合って貰うわよ!成歩堂龍一!!」
「…え?ぼく?」
(そ、そう言う訳って…どう言う訳だよ!)
「ぼやぼやしていないで、さっさと仕度しなさい!これから私と一緒に昼食を摂って貰うわ!」
「うわっ!!」
勢いよく振り上げられた鞭がしなって、成歩堂の顔面を思い切り直撃する。
「な、何するんだよ!」
もう慣れていることとは言え、流石に抗議の声を上げると、更にもう一発ぶたれた。
「か、狩魔…検事!ちょっ、ちょっと待ってくれよ!今日は午後から用事があるんだ」
本当は用事などないのだが、ひりひりする頬を押さえながら、取り敢えず抵抗を試みてみる。
このまま彼女と行動を共にしてしまったら、今日中に自分の顔は約2倍に腫れ上がってしまうだろう。
「だから、きみに付き合うのは無理だよ」
恐る恐る断りの文句を述べると、元々きつめな冥の両目が、ますます攣り上がる。
「どうしても…断ると言うの?」
「い、いくら引っ叩かれても、ムリだよ」
ここで腰が引けてはいけない。
又いつ飛んで来るか解からない鞭の恐怖に怯えつつも、成歩堂は毅然とした態度を保とうと努めた。
けれど…。
「甘いわね、成歩堂龍一!」
「……??」
「このムチが・・・引っ叩くためだけにあると思ったら大間違いよ」
「えっ…?!うわっ!!!」
寧ろ狩魔冥こそが、お手本のように毅然とした態度でそう言い放った、直後。
ヒュンと空をうねるように飛んで来た鞭が、あっと言う間に成歩堂の体に巻き付いた。
どうやら、ここ数日で技がパワーアップしたらしい…が。
「い、いたたたた!!」
そのままぎゅぅっと容赦なく引っ張られて、妙に情けない悲鳴を上げてしまった。
「わ、解かった!解かったから!引っ張らないでくれ!」
「それでいいのよ、成歩堂龍一」
(な、何でぼくがこんな目に…)
おまけとばかりにピシャリともう一発叩かれた後、成歩堂は渋々彼女に付いて事務所を後にした。
そんなこんなで。
小一時間ほど経つと、二人は小さなラーメン屋台にちんまりと腰掛けていた。
何処へ行きたいのかと尋ねると、意外なことに、いつも成歩堂が行っている場所が良いと言うので、こうしてここにいるのだけど。
成歩堂はここの常連で、何の違和感もないが。
狩魔検事は明らかに物凄く浮いていた。
ちらり、と横目で狩魔冥を見やると、彼女は無言でラーメンの丼からスープを飲んでいる。
それが又物凄く不似合いだ。
それに、これがいつも一緒に来ている真宵だったら、「美味しいねぇ、なるほどくん!」とか「なるほどくん、そのチャーシュー貰っていい?」とか。
引っ切り無しに話し掛けて来るので、何となく、この沈黙はぎこちない。
あまり味わうことなく麺を啜ってから、成歩堂はもう一度ちらりと整った彼女の横顔に目をやった。
「一つ聞いていいかい?狩魔検事」
「…何かしら」
「きみは楽しいのか?その…こう言う場所でも」
何と言うか・・・高級なランチとかほっぺたが落ちそうに美味しいディナーとか、成歩堂には想像もつかないようなものが、お似合いだと思うのだが。
遠慮がちに尋ねると、彼女は少し考え込む素振りを見せて、大真面目な様子で答えた。
「そうね、成歩堂龍一。あなたを一度引っ叩く度に、心がすっきりするのは確かだわ」
「それ…場所、関係ないじゃないか…」
やれやれ、だ。
狩魔冥にばれないようにそっと溜息を付いて、成歩堂は困ったように眉を顰めた。
「味噌ラーメン、きみの口に合った?」
「何と言うか…お腹がいっぱいにはなったわ」
屋台を離れてから、何と無く気になって訪ねると、狩魔冥からはそんな返事が返って来た。
「そう」
(それってやっぱりちょっと微妙だな)
この後もっとオシャレそうなお店でも連れていってあげた方がいいんだろうか。
これ以上鞭の傷を増やさない為にも…。
でも、生憎そんなお店はあまり知らない。
そんなことをぐるぐる考えて冷や汗を浮かべていると、狩魔冥ははきはきした調子で口を開いた。
「じゃあ、そろそろ帰るわ。空港まで行くわよ」
「ああ、はい…」
(ぼくも行くのかよ…って…あれ?)
強い口調につられて遂返事をしたものの、すぐ頭に疑問符が浮かぶ。
「ちょっと待った!狩魔検事」
「何かしら、成歩堂龍一」
「何、じゃなくて!もう帰るって何だ?大事な用があったんじゃないのか?」
「……」
当然の疑問を口にしただけのつもりだったのに。
直後、成歩堂は今日何度目になるか解からない鞭を食らうことになってしまった。
「い、痛っ!む、無言で叩くなよ!」
「余計なことを言うからよ、さぁ行くわよ」
「解かったよ、全く…」
涙目になって顔をさすりつつも、成歩堂は又渋々頷いた。
その上。
空港に向かうタクシーの中で待っていたのは、物凄く気まずい沈黙。
成歩堂はこう言うのは苦手なのだ。
何か会話をしようと、必死に糸口を探して、ふと、あることに思い当たった。
本当なら、真っ先に聞くべきことだったのだろうけど、すっかり失念していた。
「そう言えば、あの…銃の傷は大丈夫だったのか?まぁ、そこまで自由自在に鞭を使えるんだから、今は大丈夫そうだけど」
「あの時は…キサマの顔を見たら、痛みなんかすっかり治っていたわ、怒りで」
「そ、そうなんだ・・・?」
(やっぱり、聞くんじゃなかったかな…)
そう後悔し掛けた時、狩魔冥はぽつりと独り言のように呟いた。
「…だから」
「……?」
「だから…私があんなに早く立ち直れたのは、あなたのお陰よ、成歩堂龍一」
「え…!?」
意外過ぎる狩魔冥の言葉に、成歩堂は目を見開いて、まじまじと彼女を見詰めた。
真っ直ぐに視線を向けると、何と無く居心地が悪そうにしながらも、彼女は続けた。
「一度ちゃんと会って、そのお礼が言いたかった」
「狩魔…検事…」
「それから、あの幼稚な花束の分もね」
幼稚な…。
(チューリップのことかな)
今思えば、確かに彼女には少し似合わないような気もする。
そこまで思い巡らして、ふとあることに気付く。
あれ…? でも、じゃあ…。
ちょっ、ちょっと待てよ。
確か彼女が日本へ帰って来た理由って…。
「狩魔検事、まさか、大事な用事って…」
「…相変わらず鈍いみたいね。そうよ、私はあなたに会いに来たの」
「そ、そうだったのか」
わざわざ、この為に!? この子が?!
そんなこと、考えてもみなかった。
「そ、それから…」
「…?まだ何か?」
「……!な、何でもないわ」
「狩魔検事?」
「……」
それきり。
彼女はすっぱりと黙り込んでしまい、空港に着くまでの時間、二人の間には再び沈黙が広がった。
でも、今度は気まずい感じではない。
あんな風に面と向かってお礼を言う為、わざわざ来てくれたのだと思うと、照れ臭いような、くすぐったいような気分だった。
「じゃあ、又な、狩魔検事」
「ふん…。あなたも、せいぜい残り少ない弁護士人生を楽しむことね。私が戻って来た時!それがあなたの終わりなのだから」
「……ああ、気を付けるよ」
棘のある言葉を聞いても笑顔しか浮かんで来ない。
にこやかな顔で見送る成歩堂に、狩魔冥は最後の最後まで不機嫌そうだった。
成歩堂が、一人満足気に帰路へ付いたその時。
アメリカ行きの飛行機の中で、狩魔冥はふと、自嘲気味に口元を歪めていた。
成歩堂龍一。 相変わらずだった。
ちょっと間の抜けた緊張感のない顔…変わってない。
間の抜けた…? いや、それは自分だ…。
再会してからの、彼とのやり取りを思い出す。
お礼が言いたかった。 それは、嘘ではない。
でも。
花のことだけじゃなくて、あの時、彼に投げ付けた鞭を御剣に渡してくれたこと。
それからもう一つ。
最後の証拠品のカード、ギザギザでツンツン頭の男の絵、どう見ても…成歩堂の絵が描かれた、あのカード。
次に会ったら渡すつもりでいたのに、何故か…躊躇してしまった。
どうしてなのか、自分でも解からない。
ただ、あの絵を渡そうとした時、どうしようもなく胸がざわざわしたのは、間違いない。
誰かが親しみを込めて描いたであろう、彼の絵。
結局、自分は肝心なことは伝えられなかったのだ。
わざわざ長い距離を越えて会いに来たのに、何をやっているのだろう。
でも。
(まぁ、いいわ……)
今回はそれでよしとしよう。
だって……。
―又な、狩魔検事
彼はそう言ってくれたから。
今度会う時には、もう少しだけ、素直になっていたい。
御剣の前にいるのと同じように曝け出すことは出来なくても、あと…ほんの少し。
取り出した例のカードを見詰めながら、狩魔冥は最後にもう一度、成歩堂龍一の顔を思い浮かべた。
END