Lazy Love



「もうすぐクリスマスですね、なるほどくん」
 ふと、窓から見えるバンドーランドのネオンを見詰めながら、春美はうっとりと呟いた。
 今言った通り、もうすぐクリスマスだ。その時期に合わせて、街のネオンも大分派手になっている。
「ああ……そう言えば、そうだね……」
 向かいのソファにだるそうに横になって相槌を打つ成歩堂の表情を伺いながら、春美は再び口を開いた。
「あの……、なるほどくんは、クリスマスはどのように過ごされるのですか」
「うーん……そうだね、みぬきと一緒かなぁ。今年はオドロキくんもいるから、ちょっと賑やかになりそうだね。ああ、茜ちゃんもいるし、そう言えば牙琉検事も……」
「……」
 知らない人物の名前を、さも楽しそうに呟く成歩堂の顔を、春美は何だか複雑な心持ちで見詰めていた。
 成歩堂と真宵、それから御剣検事や狩魔検事と一緒に騒がしいクリスマスを過ごしたのが、もう遥か昔のことに感じられる。実際、あれから七年も経っているのだから、昔のことには違いないけれど。
 春美も、もうあの頃のままの子供ではないし、成歩堂だって、随分変わった。でも、彼はいつでも春美や真宵のことを気に掛けてくれていると、知っている。だから、こうしてたまに事務所に遊びに来ているのだが……。
「春美ちゃんはどうなんだい?もしかして、誰かとデート?」
「……えっ?」
「春美ちゃんもみぬきも年頃だからね、心配だよ」
 物思いに耽っていたところで、ふと、そんなことを言われて、春美は幾度か瞬きをした。目の前の成歩堂は、何だか曖昧な笑みを浮かべてこちらを見ている。昔の彼だったら、こんな風に笑ったりしなかった。こんな風に、こちらが少し緊張してしまうような笑みを浮かべて、春美を見たりしなかった。第一、こんなことを言ったりしなかった。
 あの頃の成歩堂はもっと優しくて、無条件で頼れる存在で、そしてとても大きな感じがした。真宵にぴったりの、素敵な人だった。だから、いつも彼と真宵が一緒にいるところを思うと、胸がドキドキした。うっとりと、二人の様子を眺めていた頃のことは、今でもちゃんと覚えている。今の成歩堂は、何だかその頃とは違う。彼がもう立派じゃないとか、そう言うことじゃない。上手く言えないけれど、何だか……。
 再びそんなことを思い巡らしていると、彼は相変わらず意味有り気な笑みを浮かべながら口を開いた。
「それに、もしそんなことになったら、何だか妬けるなぁ」
「……!」
 先ほどの会話の続きなのだと悟ると、ぽっと頬が赤く染まる気がして、慌てて首を横に振る。
「わ、わたくし……そんな殿方はおりませんっ!」
「でもいつかはきっとね……そうなったら寂しいよ」
 ふっと口元を緩めて、成歩堂は呟いた。でも、彼の気だるい目は、もう春美の方を向いていなかった。独り言なのか、何なのか。勝手に納得されたみたいで、春美は少し頬を膨らませた。
「な、なるほどくんのおっしゃる通り、そんな殿方がいらっしゃれば、わたくしだって、いつかは……」
 いつかはそんな人が現れて、デートだってなんだってする間柄になるに違いない。
 それは、本心には違いなかった。でも、何だかまだ現実的じゃなくて、ちっとも心が籠もっていなかった。ただ、少し八つ当たり気味だったかも知れない。何もかも見透かすような顔でこんなことを言う彼に、何故か少し不満を抱いたのだ。昔だったらきっと、ありがとうございます、なるほどくん――なんて、そんな風に頬を染めながら返していたに違いないのに。
(変わったのは、わたくしの方かも知れない)
 そう思うと、何だか突然気持ちが落ち着かないような気がした。
「そうだよね、いつかは、ね……」
「……」
 ふと、寂しそうな声が聞こえて目を上げると、彼の双眸がじっと春美に向けられていた。けれど、それは本当に一瞬のことで、すぐにその目にはからかうような色が浮かび上がった。
「じゃあ、そのときの為に、ぼくで良かったら練習相手に相手になってあげようか。デートの、さ」
「……!なっ、何をおっしゃるのですか!なるほどくんには、ま、真宵さまがいらっしゃるのに……!」
 カッと頬が真っ赤に染まるような気がして、春美は声を荒げた。
 彼がこんなことを言うなんて、信じられない。昔だったら、手を振り上げて思い切り彼の頬をぶっていた。でも、春美の体はそれ以上動くことが出来なかった。
「そんなにはっきり断られるとショックだなぁ」
「からかわないで下さい!わたくし……もう子供じゃありません!」
 むきになって言い返すと、急に彼はその顔から笑みを消して、優しいような冷たいような、何だか解からない表情でこちらを見詰めて来た。
「そうだね。もうきみは子供のままじゃない。だったらさ……本当は解ってるんだよね、春美ちゃん」
「……え?」
「ぼくと真宵ちゃんのこと。ぼくたちが本当はきみが思うような関係じゃないこと」
「……」
 どうしていきなりこんなことを言われているのか考えて、すぐに思い当たることがあった。たった今、叫んだことだ。なるほどくんには、真宵さまがいらっしゃるのに、と。昔から、口癖のように言っていたから、今もつい、出てしまった言葉だ。
「きみが思うように、うっとりするようなことばかりじゃないことも。男と女なんてさ……」
「わ、わたくし……解りません」
「そう?こんなときだけ子供のふりかい」
「……っ!そんなことをおっしゃるなるほどくんなんて、わたくし……嫌いです!」
 何だかいても立ってもいられなくなって、春美はソファから慌しく立ち上がると、荷物を引っ掴んで事務所を飛び出した。

(意地悪です、なるほどくんは……!)
 どうして、そんなことを言うんだろう。まるで、わざとこちらの感情を掻き乱すように。
 思い切り良く走っていると、すぐに駅が見えて来た。
 ずっと昔も、息せき切ってこの道を逆方向へと走った。成歩堂事務所が見えて来ると、何だかドキドキした。それは、単にデパートの玩具売り場を歩いているときと同じような感覚だったけれど、とにかくあの場所はとても大切だった。
 でも、今はもうあの頃とは違う。今は……。
 ――本当は解かってるんだよね?
「……」
 成歩堂の声が、頭の中に木霊した。何度も響くその声に答えるように、ぽつりと小さく呟く。
「わたくしだって……解っています」
 昔夢みたみたいに、思い巡らせるだけで頬が赤く染まるような、うっとりとしてしまうような。恋が、そんなことばかりじゃないこと。今ズキズキと小さく疼く胸の痛みがそう言っている。
 子供扱いされているのが昔はとても心地良かったはずなのに、今はそれがひたすらもどかしく感じる。それなのに、背伸びの仕方すら解らない。けれどあの優しい手も、いつまでも失いたくない。
 それに……成歩堂だって解かってない。本当は……。
「春美ちゃん!」
「……!」
 そこで、背後からもう随分と聞き慣れた声が掛かって、春美はぴたりと足を止めた。
 振り向くと、ずり落ちそうになったニット帽を直している成歩堂の姿があった。きっと、全速力で追い掛けて来てくれたんだろう。彼の呼吸は大分乱れていて、春美が振り向いて足を止めるのを確認すると、ホッとしたように見えた。
「ごめんね、言い過ぎたよ」
「……なるほどくん……」
「怒ってるかい?」
「……いいえ。わたくし、もう、子供じゃありませんから」
 ふふ、と笑って、春美がそう返すと、成歩堂はちょっとだけ昔みたいに優しく笑ってくれた。


 彼だって、本当は解かっていない。
 確かに、恋なんて、想像するだけでうっとりしたり、いつも火の中水の中―なんて、夢みたいなことばかりだけじゃないかも知れない。何気ない言葉だけで傷付いたり振り回されたり、苦しいことだってある。けど、相手のちょっとした台詞だけで、こうして追い掛けて来てくれたと言うだけで、凄くホッとして、もうなんだっていいと思うくらい楽しくなったりもするのだ。
(なるほどくん、わたくし……)
 心の中呟いた言葉の続きは、もっとずっと、大切にしまっておくことにして、春美は隣に歩み寄って来た彼と並んで歩き出した。