Lilith




あの裁判から数週間が過ぎて、真宵は正式に家元になり、以前よりも倉院の里に戻ることが増えた。
寧ろ、本当はもうずっとあの場所にいて、色々やらなくてはいけないのだろうけど。
事務所が気になるのか、彼女は出来る限り一緒にいてくれた。
その日も…真宵は里帰りをしていて、事務所には成歩堂しかいなかったのだが。

「こんにちは、なるほどくん」
「あれ?どうしたの?春美ちゃん」

夕方頃になって顔を出した小さな客人に、成歩堂は首を傾げた。

「あの、わたくし…お手伝いに参りました」
「え……?」
「真宵さまが倉院の里にお帰りになることが増えて…なるほどくんが困っているのではと、真宵さまがおっしゃったものですから…。今日と明日、わたくしが助手を務めさせて頂きます!」
「そ、そんな、悪いよ。大丈夫だから、真宵ちゃんの側にいてあげて」

本心からそう言ったのだが、途端、春美はみるみる怒ったような顔になってしまった。

「なるほどくん!」
「は、はい」
「なるほどくんは、愛しい真宵さまのご好意を、無下にされるとおっしゃるのですか!」
「い、いえ!あり難くお受けします!」

このままではビンタの一つや二つ食らいそうだったので、成歩堂は大人しく頷いた。
確かに、真宵がいなくなって、普段から散らかっていたデスクの上はますます酷いことになっている。
棚の上は埃を被っているし。
甘えてしまうのも、いいかも知れない。

「じゃあ、宜しくお願いするよ、春美ちゃん」
「はい、お任せください!」

春美はにこりと笑って、本当にあちこちをぴかぴかにしてくれた。



その夜は、春美一人で事務所に泊める訳にもいかないので、成歩堂は自宅に春美を連れて行った。

「お邪魔致します」
「その辺に座ってて。今お風呂沸かすから」
「な、なるほどくん!それでしたら、わたくしが…」
「いや、大丈夫だよ。春美ちゃん、もう疲れてるよね?待ってる間、アルバムとか勝手に見ててくれていいから」
「は、はい。それでは宜しくお願いします」

頷いた春美を部屋に残して、成歩堂は浴槽にお湯を溜めに行った。
ややして戻って来る頃には、春美はすっかりアルバムに夢中になっていた。

「あの、なるほどくん、他にはないのですか?」
「え、うん。ちょっと待ってて」

全部見終わってしまった春美に急かされるまま、成歩堂は押入れの中を漁って、古いアルバムを引っ張り出した。

「はい、春美ちゃん」

渡すときに、一枚写真が落ちて、春美がそれを拾い上げる。

「……!なるほどくん、この写真は…」

それを見詰める春美の目が大きく見開かれて、成歩堂は不審に思って横から覗き込んだ。

「あ……っ」

そして、思わず息を飲む。

(これは…)

写真に写っていたのは、あの、彼女だった。
あの、五年前のままの、美柳ちなみ。
いや、あやめの方だろうか。
全部捨てたつもりだったのに、どうして。

「この方は、美柳、ちなみさま…」
「は、春美ちゃん…」

驚愕に見開かれたままの春美の目が、一気に潤む。
あの時のショックを、思い出してしまったのだろうか。
成歩堂は慌てて彼女から写真を取り上げた。

「ご、ごめん。もうアルバムはよそう。そろそろ、お湯も溜まったと思うから、ね…?」
「は、はい……」

春美は俯いて、そして小さく頷いた。



その後、春美を先にバスルームに送って、入れ替わりに入浴を済ませてくると、彼女はもうすやすやと寝息を立てて眠っていた。
きっと、本当に疲れていたんだろう。
いつもは頭のてっぺんで結わいている髪の毛が、今日は肩の辺りまで垂れている。
その髪を優しく撫でて、成歩堂も隣に横になった。

深夜頃になって。
ふと、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして、成歩堂はまどろみの中から引き上げられた。

「リュウちゃん…」

確かに、そう呼ぶ声が聞こえる。
優しい、耳に心地良い、女の子の声。

「起きて、リュウちゃん…」
「……ん」

また、自分は夢を見ているのだろう。始めはそう思った。
だから、夢現の中で聞える心地良い呼び声に、何の違和感も持たなかった。
まだこうして、あの彼女の夢を見るなんて…。

「リュウちゃん、起きなさいな」
「……?」

けれど、今度ははっきりと頭の奥に声が響いて、成歩堂は目を開いた。
それに、腰の辺りに、人の重さを感じる。
これは、夢じゃ、ない…?
まさか……!
ガバっと起き上がろうとした成歩堂は、目の前の光景に、息を飲んで動きを止めた。

「動いちゃ危ないじゃないの、リュウちゃん」
「……っ!」

首筋に、ピタリと鋭利なナイフが突き付けられていたのだ。
しかも、それを手にしている女の顔。
さぁっと音を立てて血の気が引いた。
誰もが思わず魅入られてしまうような、美しい少女。
そこに、うっとりするほど完璧な笑みを浮かべて、自分を見下ろしているのは…。

「き、きみは…まさか」
「また会えるなんて、思ってなかったわ。あの時以来ね、リュウちゃん」

紛れもなく、美柳ちなみ。
あやめかも知れないだなんて、何故か微塵も思わなかった。
彼女の微笑はあまりに怪しくて艶やかで、あの奥ゆかしい彼女とは似ても似つかなかったから。

「ど、どうして、きみが!」

成歩堂が焦った声を上げると、ちなみはうっすらと嘲るように唇を歪めた。

「さぁ…。死んだはずのアタシが、アンタの側にいる。アンタが死んだか、例の忌々しい力か…どっちかしかないじゃないの」

例の忌々しい力…。

「れ、霊媒…?!」

でも、どうして!

進んで彼女を霊媒する人物など、綾里家にはもういないはず。
けれど、確かに…眠りに就く前まで自分の隣にいた、春美の姿がない。
ぞっと、背筋を冷たいものが走り抜けた。
恐る恐る、馬乗りになっている彼女に視線を移す。
ちなみの着ている衣服には、見覚えがあった。

「まさか、どうして…」

写真…?まさか、あの写真を見たせいだろうか。
春美が自分の意思で呼ぶはずはない。
間違って、呼んでしまった?そんなことが、あるんだろうか。

「まぁ、どうしてアタシがここにいるかなんて、どうでもいいのよ、リュウちゃん」

青褪める成歩堂に、ちなみはあくまで静かな声を上げた。

「一つ、聞かせて欲しいの」
「なっ、何を…」

声を上げると同時に、ぐっと喉元に刃物が近付いて、成歩堂は喉を引き攣らせた。
彼女がどんなに恐ろしい女か、もう十分に解かっているから…。
真宵の居場所を、再び聞き出そうと言うのだろうか。
もしそうだとしたら、自分の身に何が起きても、阻止しなくてはいけない…。
けれど、ちなみの口から出て来たのは、想像していた台詞とは違っていた。

「この体は、誰のものなの?」
「……?」
「正直に答えて、リュウちゃん」
「……っ」

冷たい金属の感触が、喉に触れる。
そんなことを尋ねてどうすると言うのか。
自分を見下ろす両の目は、ただただ冷たくて、何の真意も読み取れない。
少しの間の後、成歩堂はゆっくり口を開いた。

「は、春美ちゃんだよ。きみの…妹の」
「……」

成歩堂が言い終えると、ちなみは首筋に当てていたナイフをゆっくりと引いた。

「そう、あの…お子様の」

何処か吹っ切れたような、諦めを含んだような声。

「…ちなみ、さん?」

怪訝な顔で見上げると、彼女はにっこりと花のような笑みを浮かべた。

「安心なさいよ、リュウちゃん」
「……?」
「これがもし、綾里真宵だったら、このまま胸を突いてやったかも知れないけど…。春美…あの子じゃ、そんなことしたって、どうしようもない…」
「……!」
「それに、心配いらないわ。アタシの思念、もうそれほど強くないみたい」
「え…?」
「それに、この子の…春美の霊力は強いわ。あまり自由にはさせて貰えないみたいね」

そう言えば、経験の少ない未熟な霊媒師が、思念の強い霊を呼ぶと、体を乗っ取られてしまうと、聞いたことがある。
霊力の優れた春美と、思念の薄れたちなみ。
そのどちらもない、と言うことか…。
でも、現に彼女はこうしてここにいる。
まだ、安心は出来なかった。

「でも、心残りがあるとしたら…。そうね…アンタだけかしら。リュウちゃん」
「……っ?!」

思わぬ台詞に息を飲む。
気付くと、彼女は成歩堂に覆い被さるように体をぐっと寄せていた

「会いたかったわ、とてもね…」
「……!」

つつ、と頬を指先でなぞられて、成歩堂は反射的に顔を逸らした。
そうでもしないと、今すぐにでも目の前の悪魔に魅入られてしまいそうだったから。
ちなみの妖艶さは、成歩堂が彼女と子供のような恋愛をしていた頃とは、比べようもないほどに増していた。

「きみは、ぼくが嫌いなはずだ。そんな台詞には騙されないよ」

それでも、何とかして意思を振り絞ってそう言う。
こうなれば、何としても彼女を追い返してしまうしかない。
でも。
気のせいか、指先が震えて、力が入らない。
喉が、渇いて、ひりつく様な痛みを感じる。

「それはどうかしら…。その顔じゃ、あやめに聞いたんじゃない?アタシたちは二回しか会ったことがなかったって。だったら、アタシがアンタを本当に嫌いなのかなんて、解からないじゃないの」
「……!」
「リュウちゃん…」

成歩堂の名を呼んで、うっすらと微笑むと、彼女はするりと腰元の帯を引き抜いた。

「っ……?!」

左右を合わせていた着物が乱れて、真っ白な肌が成歩堂の目前に顕になる。
着物の間から少しだけ覗いた白い胸元を、まるで見せ付けるように前に屈む。
彼女が何をしようとしているのか悟って、成歩堂は慌てて声を上げた。

「や、止めろ!春美ちゃんの体で、何を…っ!」

今ここで、すぐにでも突き飛ばしてしまえば良かったのに。
それが出来なかったことを、後で悔やむことになるのも、解かっていたけれど。
成歩堂は、まるで金縛りにでもあったように動けなかった。
ちなみはそんな自分を愉しそうに見下ろして、ふっと柔らかい吐息を吐いた。
耳元を擽るその感触にさえ、どくんと鼓動が跳ねる。

「確かに…これはあの子の体かも知れないわね。でも…今は、中身はアタシなのよ」
「な、に…?」

成歩堂が目を見開くと、ちなみはあの、初めて会った頃のように愛くるしい天使のような微笑を浮かべた。

「紛れもなく、美柳ちなみ。アンタの大好きだった、アタシの体よ…。リュウちゃん、アタシを抱きたくないの…?」
「…っ、冗談は止めてくれよ!」

言葉を遮るように、白い手が成歩堂の頬に触れ、繊細で柔らかな手のひらがそこを撫でる。

「何を怖がってるの?」
「…!ぼくが…怖がってる…?」
「そうよ。でも、アンタはアタシが怖いんじゃないわ。頭では解かっているくせに、拒絶出来ない。本当はアタシを抱きたくて堪らない、弱くて脆い、自分の心が怖いのよ」

くす、と喉を軽く鳴らして、ちなみは微笑む。

「違うかしら?リュウちゃん…」

天使のようなその顔に不似合いの、薄い唇から覗いた・・・誘い掛けるような赤い舌。
あまりに甘美な笑みに、頭の中が、混乱でいっぱいになってしまう。

「や、止めろ…」

成歩堂は彼女の言葉を制止させようと、ゆるく頭を打ち振った。
けれど、彼女の形の良い艶やかな唇は、尚も言葉を紡ぐのを止めない。

「でも、アンタのそんな馬鹿なところ…。嫌いじゃないわ、リュウちゃん…」
「だ、黙れっ!」

気迫を込めて叫んだものの、足の間に伸びて来た細い指先に内股を撫でられて、短く息を飲む。
ぞくと走り抜けた痺れに、成歩堂は思わずぎゅっと目を瞑った。

「可愛いわね、リュウちゃん」
「ぅ……」

敏感なこちらの反応を見透かすように、ちなみがせせら笑う。

「綾里千尋に何を教わったか知らないけど…。その様子じゃ、一番肝心なことは何も教えて貰ってないのね」

品行方正で、ご立派なおばさまだこと。
彼女はそう言うと、真っ白な指先で既に乱れかけている着物の裾を小さく摘んだ。
剥き出しの細い太ももが、夜の月明かりに映えて、息を飲むほど生々しく目に焼きつく。

「…よ、よせっ」

目を見開いた成歩堂は、目の前の光景に引き攣った声を上げた。

「何も心配しないで、リュウちゃん」
「……っ」

内股に触れていた白い指先が、ゆっくり上へと上がって行く。
耳元に唇を寄せて、彼女は成歩堂に最後の言葉を囁いた。

「アタシが…天国に連れて行ってあげるから…」



END