Love Like Ash
窓の外をぼうっと見詰めていた成歩堂は、ふと視界に飛び込んで来た金色の髪の毛に、思わず目を見開いた。
あの、髪の毛の色は……。ここからではちょっとよく見えないけど、間違いない。この頃、成歩堂に殊更厚意を示してくれている、あの男だ。彼が、また成歩堂を訪ねて来てくれたに違いない。
「牙琉先生!」
呼び声を上げながら、急いで扉を開けると、目の前に立っていた人物は驚いたように動きを止めた。
(あ、れ……)
すぐに違和感に気付いて、成歩堂もぎし、と固まってしまった。
そっくりだけど、違う。これは、この男は、あの先生じゃない。
広がった気まずい沈黙を破って、先に口を開いたのは彼の方だった。
「随分熱烈な歓迎だね、成歩堂さん」
「き、きみは……、牙琉検事」
うろたえたままで名前を呼ぶと、彼は満足そうに笑みを浮かべた。
「何の用だい?検事局きってのスター検事さんは、ぼくと違って暇じゃないだろうに」
そのまま帰って貰う訳にも行かなかったので、渋々中に迎え入れて、成歩堂は溜息混じりに皮肉を吐き出した。あんなことの後だ。そんな言葉の一つも吐きたくなって、当然だと思う。
けれど、彼は差して気にした素振りもないようだった。
「今はそっちよりバンドがメインだからね。あの時から……」
「……」
あの時。あの、裁判。
確かに、後味が悪いものだった。若い検事さんにだって、きっと何らかのショックはあったはずだ。
だからって、彼がこうしてわざわざここへ足を運ぶ理由にはならないけれど。
「質問に答えてくれないかな。何か、用があるんだろ」
「用って言うかさ、何となく気になったんだよね。あんたが今どうしてるのか」
「ご覧の通りだよ、あんまり景気はよくないね」
「ふーん」
「牙琉検事、そんなことなら……」
そんなことなら、もう帰ってくれ。
そう、彼を追い返す言葉を告げようと、顔を上げた瞬間。すぐ目の前に彼の整った顔があって、成歩堂はぎくりとした。でも、それは一瞬だった。雰囲気は大分違うけれど、あの弁護士先生にそっくりな顔。
ああ、顔だけは綺麗だな、何て失礼かつ暢気な感想を抱いている内に、その顔がぼやけるほど近くに寄った。反応が遅れてしまったのは、きっと、このところのいざこざで疲れていたからだ。彼の顔に思わず見惚れていたせいなんかじゃない。絶対に。
そんなことを考えている間に、ゆっくりと、遠慮がちに押し付けられた柔らかい感触に、成歩堂は目を見開いた。
(……ん?)
何だ、今、何が起きたんだろう。確認する間もなく、その感触はすぐに離れていった。
けれど、あまりのことに呆然と目を見開いたまま、咄嗟に何の反応も返せない。
惚けたように立っている成歩堂に、響也は呆れたように肩を竦めた。
「あんたね、目くらい閉じたらどうだい」
「……え、……あ」
「まぁ、いいや。又ね、成歩堂元弁護士さん」
「あ、うん。気を付けて……」
ふざけたような口調で平然とそんな台詞を言い放ち、響也はそのまま軽く手を上げながら出て行った。
何だ、今のは。何だったんだ。
と言うか自分も、気を付けて――なんて、暢気に返事してる場合じゃないだろう。
唇に触れた感触は、明らかに彼のそれだった。でも、何で?
考えたところで解かるはずもなく、響也が消えた後の扉を、成歩堂はただただ放心したように見詰めていた。
後で思えば、これが始まりだった。
それから、響也は何かと隙を見ては事務所に顔を出して、成歩堂にそんなことを繰り返すようになった。何が楽しいのか知らないけど、今日もこうやってわざわざ足を運んで来ている。兄の霧人に何か言われているのだろうか。そう思ったけれど、どうやら違うらしい。
「きみ、また来たのかい?」
呆れたように成歩堂が突き放しても、堪えた様子はない。
始めの頃は気を使ってお茶なんか出していたけれど、今ではもう放っておいている。物が散らかって来た事務所のソファに狭そうに腰を下ろして、何だかんだ他愛もない話をしているだけだ。あの裁判のことには、敢えて触れようとしない。だから、成歩堂も何も言えない。
そうして、その内戯れのように軽く触れて来る感触。
もう、何だか慣れてしまった。だって、ただ軽く触れているだけだ。抵抗するのも騒ぎ立てるのも馬鹿馬鹿しい。きっと、彼にとっては他愛もない挨拶みたいなものだ。そう言えば、アメリカにいたんだっけ?
そんなことを考えながら、成歩堂は触れる瞬間までは目を閉じずに、間近で瞬く双眸をじっと見ていた。
それに、彼はいつも何事もなかったような顔で帰って行く。今まで交わしていた戯弄なんて、何の意味も持たないことのように。だからきっと、その内飽きるだろう。あんな派手な世界で、自分とは全然違う生き方をして来ただろうから。タイプの違う平凡な元弁護士がちょっと物珍しいんだろう。
でも、そうだとしても、本当なら、キスをされるままになっているなんて、自分らしくない。
でも、何故か抵抗出来ないのだ。どうしてなのかは、自分でも解からない。
ただ、そっと頬に触れる指先とか、ぽつぽつと戯れのように掛けられる言葉が、優しいだなんて感じてしまうからだろうか。
からかわれているだけに決まっているのに、何をやってるんだ。どうして追い出してしまわないんだろう。考えても、解かるはずない。
だったら、これ以上彼のことが頭を占める前に、何も考えず忘れてしまおう。
それから、数ヶ月が過ぎたけれど、響也は相変わらずふらりとやって来てはまたふらりと帰る行為を繰り返していた。いつもいつも、みぬきがいないときを見計らったように扉を潜って、中に足を踏み入れて来る。
一ヶ月もすれば飽きると思っていたのに、よく続くものだ。
そして、今もそうだ。
「……んっ」
ぼんやりとことの始まりを思い返していたら、ゆっくりと吸い付くように触れられて、思わず微かな声が上がってしまった。
少し前までは、ただ軽く触れるだけだったのに。何度も何度も交わしているうちに、こうしてキスは濃厚で深いものになっていた。
本当に、いつの間にか。
よく考えるとかなり不自然だけど、そうするまでの行程はあくまで緩やかだった。
「ん……、っ」
けど、唇は触れては離れ、舌先は絡み付いてはすぐ解かれて、そんな焦れったい仕草がもどかしいなんて思う自分に、流石に焦りが浮かんで来る。
こうやって彼の戯れを甘んじて受ける自分は、どこか可笑しいのかも知れない。
成歩堂は気力を振り絞って、ぐい、と響也の体を押し退けた。
「もう、いい加減にしてくれよ」
「……どうしてだい?」
「どうしてって……こう言うことは、女の子とすればいいじゃないか。きみだったら、その……見るからに不自由してなそうだろ?」
「解かってないね、成歩堂龍一。女の子は全員ぼくが大好きなんだよ。なのに、一人だけ特別扱いなんて出来る訳ないだろ」
「……」
「それとも、ぼくに女の子全員にキスをしろって言うのかい?」
「そう言う問題じゃないよ……。だいたい、何で、ぼくに……」
「硬いこと、言わないで欲しいなぁ」
「牙琉検事……きみは、……っ」
言い終わる前に、再び唇が塞がれてしまった。
何がどうなっているのか解からないけれど、結局はこの男の思い通りに進んでいるようで、何か気に食わない。
そんな内心にはお構いなく、又一通りキスして気が済んだのか、響也は行ってしまった。
「何なんだよ、全く……」
何となく、先程まで触れていた甘い感触に戸惑い、成歩堂はそっと唇を指先でなぞった。
それからも、彼はその奇妙な行為を繰り返した。
流石ギターを弾いてるだけあって、器用そうで綺麗な長い指が、成歩堂の顔をそっとなぞり、それから唇が重なる。
時々、悪戯っぽく瞬くその目の奥に、何とも言えないような光が見え隠れする様な気がしたけれど、それには気付かないままでいたかった。
それから、また響也がいつものようにふらりとやって来たとき、携帯電話が聴き慣れた音を鳴らした。トノサマンのテーマのままの、着信音。電話の液晶を見て、成歩堂の目は心なしか輝いた。
元々話しをしていた訳でもなかったので、響也の存在には気にせず、すぐに通話ボタンを押した。
「御剣?久し振りじゃないか」
声が弾んでしまうのは仕方ない。昔からの知り合いで気心も知れている。彼は、あの事件のことを気に掛けて、何度か気遣う電話をしてくれていた。勿論、不器用な彼は表立ってはそんなことは言わない。ただ、アメリカの様子はどうだとか、交わされるのは他愛もない話ばかりだ。けれど、今はそんなさり気無い気遣いが嬉しかった。
今日も、そんなどうと言うこともない世間話をして、通話を終えた。
ボタンを押して携帯をデスクの上に置いた途端に、間近で上がった声にびくりとした。
「御剣って、あの御剣怜侍?」
「……!あ、ああ、知ってるのか」
今の今まで、彼の存在を忘れ去っていた。
ハッとしたように顔を上げると、響也が珍しく興味深そうに身を乗り出していた。
彼も、御剣の名前くらいは知っているのか。有名人だから、当然か。まぁ、今の自分もある意味有名人だ。あまり有り難くない方向で。
「そいつとは、よく、裁判で争ったんだよね」
「……え」
「少し調べれば、すぐ解かるよ」
「うん、まぁ……、そうだね」
確かに、彼の言う通り、御剣とは何度も裁判で対面した。自分たちのことを、調べたのか。まぁ、戦う相手のことくらい、知識として知っておくのは当たり前か。
「でも、争っただけじゃない。二人で協力して、真犯人を追い詰めたりしたそうじゃないか」
「ああ、そんなこともあったね」
「検事と弁護士が協力ね。余程信頼関係がないと、無理な話だね」
「まぁ、あいつとは色々あったし」
「……ふーん」
そこで、彼は一端言葉を切って視線を伏せてしまった。
何だろう、自分から聞いてきたくせに。さして興味もなさそうなこの反応は。
「牙琉検事?」
黙り込んだままの彼の顔を覗き込んで呼び掛けると、響也は俯いたままで、ぽつりと独り言のよう言った。
「あのとき……」
「……?」
「あんたの相手が、その男だったら……」
「牙琉検事?」
「……何でも、ないよ」
そこで、彼は顔を逸らして口を噤んでしまった。
何となく、あのとき、と言うのが、あの自分にとって最後になった裁判を指しているのは、解かる。
でも、何が言いたかったのか、それは解からなかった。
長くて気まずい沈黙が続く。いつも、無言でいても気まずさなんて感じないのに。今日はやたらと空気が重い。どうしてだろう。
響也が、彼が、いつもと違うから――。
重い空気に耐え切れず、成歩堂はごくと喉を上下させた。
その、数秒後。突然顔を上げた彼は、じっとこちらを覗き込んで何気なく声を上げた。
「あのさ、キスしていいかな。成歩堂龍一」
「……!な、何言って……」
改まって聞かれて、何故か頭に血が昇ってしまった。
ひょっとしたらあれは、キスなんかじゃない。そんなんじゃなく、ただ悪戯の一種みたいな、そんなものだと、無理にでも思おうとしていたからかも知れない。
けれど、そうじゃないんだと、あれは確かにキスなんだと、彼の口からはっきり言われて、急にうろたえてしまった。
「駄目かい?いつもしてるって言うのに」
「そ、それは……きみが勝手にしてるんだろ!」
「……ふーん、そう言う風に言う訳だ」
「他に、何があるんだよ」
「別に……、なんでもないよ」
「……牙琉検事?」
そう言うと、その日に限っては何もせず、響也は出て行ってしまった。
残された成歩堂は、何故か妙にすっきりしない気分だった。
とにかく、彼が何を考えているのか、全く解からない。あれが、スターってヤツの独特のノリなんだろうか。
けれど、それにしたって、何故自分なんだろう。女の子にもてもての人気ロックバンドのヴォーカルで、その上、スター検事。何が楽しくて、彼は自分に構うんだろう。あの事件のこと、関係あるのだろうか。裁判の時は、敵意に近いものを感じたのに。
でも、本当は……。本当はいつもの戯れみたいなキスの後、こちらを見詰めて来る目が、常に何か言いたそうなことや、あの濃い色のレンズの奥に、何かの思惑が潜んでいるように、常に感じていたとしても。それ以上追求する必要は、ないように思えた。
そうしてはいけない。何だか知らないけれど、漠然とそんなことを感じていた。
そう言えば……彼をはっきりと拒んだのは、初めてだったっけ。
響也が出て行った扉を見詰めながら、成歩堂はぼんやりとそんなことを思った。
その、数日後だった。いつものようにやって来た彼の様子が、何だか少し可笑しいことに気付いて、違和感を覚えた。何となく、身に纏っている空気が穏やかじゃない。気のせいかも知れないけど、少し尖っていると言うか、余裕がないと言うか。余裕が、ない?こんなに何もかも恵まれて、天に二物も三物も与えられているような男が、どうして?
そう思ったときには、いつの間にか腕を捕えられて、壁際に追い詰められていた。
「牙琉検事っ、何を……」
思っていたよりも、ずっと上擦った声が上がって、成歩堂は自分が予想外に動揺していることに驚いた。別に慌てることじゃない。いつもと同じ、ただの戯れだ。そう思いたいのに、寄せられる彼の気配に、思わず身が竦んだ。
成歩堂の問いに無言の答えを返すと、響也は腕を伸ばして成歩堂の顎を掴んで、そのままゆっくりと顔を寄せた。
「……っ!」
慌てて引き剥がそうとした腕は強く掴まれて、壁際に体ごと押しつけられた。
「牙琉、検事?!」
いつにも増して強引な彼の仕草に、成歩堂は上手く呼吸が出来ずに、焦ってもがいた。でも、拘束は少しも緩まない。
彼の唇が自分のものに柔らかく噛み付いて来る。息苦しくなって慌てて開いた唇を割って、柔らかい舌先が捩じ込まれた。少しずつ深さを増して行く行為に怯えて、成歩堂は本気で身を捩った。そうすれば、彼はいつもすぐに手を離してくれた。だから、きっと今回も。
そう思ったのに、成歩堂の思惑とは裏腹に、彼は僅かに唇を離しただけで、こちらを見据えながら笑みを浮かべた。
「甘いね、成歩堂龍一」
「……?」
頭に疑問符が浮いた瞬間、突然周りの景色が反転した。ぐるりと視界が揺らめいて、体が浮き上がる。
何が起きたのか気付いたのは、仰向けに転がった自分の体の上に響也が覆い被さった後だった。
「牙琉検事……?」
ずっしりと肢体の上に彼の重みを感じ、僅かな不安が胸に沸き上がった。
「ど、退いてくれよ!」
「嫌だね」
「な、何のつもりで……」
「何のつもり、ね。本当に解からないのかい、あんた」
(え……?)
「まぁ、ぼくも、あんたが本当にここまで鈍いなんて思ってなかったからね……」
「な、何言ってるんだよ!ふざけてないで退いてくれ!」
声を荒げた瞬間、響也の手の平がぐっと口に押しつけられた。
「ん……っ、ぅ……!?」
「静かにしないと、外に聞こえるよ」
「……!?」
訳の解らない不安と僅かな恐怖が顔に出ていたのか、響也はこちらを見下ろしながら、余裕の笑みを浮かべた。
「流石に、ちょっとは解かったみたいだね、今の状況がさ」
「……っ?」
「しっかりして欲しいな。状況判断はあんたの得意技じゃないか」
口元に押し当てられた手の平がゆっくりと離れても、すぐには声が出なかった。ようやく我に返って、何か言おうと息を吸い込んだ途端、するりと音がして襟元から解かれたネクタイが引き抜かれた。続いて、シャツのボタンが荒っぽく外される。響也の指が首筋に伸び、知らず体がびくっと反応してしまう。
そのまま指が胸元に降り、肌の上をゆっくりと撫で始めた。
彼の指から逃れようと、無意識に身を捩るけれど、びくともしない。
「牙琉検事っ!」
必死に目を剥いて彼を睨んだけれど、効果はみられない。
そのまま首を捩ろうとすると、きつく顎を掴まれ、唇に柔らかい感触がした。
「ん……っ」
もうよく知っている感覚に思考を奪われ、少しだけ抵抗が止んだ。
一体、どう言う、つもりなんだろう。いつもと違う、牙琉響也の様子。どうして、こんなに必死なんだろう。そう思う気持ちが、抵抗を鈍らせた。
それに、触れて来る柔らかさは驚くほど心地良い。ゆっくりと侵入してくる舌先は温かくて、絡み付く感触も、抵抗を忘れてしまうほど。今まで、散々こんなことを繰り返して来たから、無理もない。彼の体温までもがすっかり馴染んでしまって、どう抗っても心地良さを感じてしまう。
自覚すると、本当に全身の力が抜けてしまった。
抗う代わりに、そっと持ち上げた両腕を、ぎこちなく彼の背中に回す。手の平が背に触れると、彼は驚いたように身を固くしたけれど、すぐにそんなことは忘れたように、目の前の行為に夢中になった。
そして、数分後。
「成歩堂龍一」
ようやく離れて言った唇が呼ぶ名前に釣られて顔を上げると、何だか困ったように笑っている彼の顔が見えた。
「バカだよね、あんたは。本当に」
「……?」
「どうなっても知らないってことだよ」
「……」
そう言うと同時に、ゆっくりと彼の手が肢体の上を這い出した。
直後、ぞくりと駆け上がる痺れに思わず目を瞑る。戸惑うことなく足を割り開いて、愛撫に似た動きを見せる手の平に、勝手に心臓の音が大きくなって、息が上がった。
「何で……」
答えが与えられないことは解かっていたけれど、口にせずにはいられなくて、乱れた呼吸の合間にそう口にすると、響也はふっと口元を緩めた。
「嫌なら……誰かのことでも考えててよ、あの……、検事さんとか」
「……!!」
答えになっていないはずのその台詞に、一瞬ずきりと胸が痛んだ。
「ごめんね」
「い、……っつ!!」
小さな謝罪の声の直後。襲い掛かった衝撃に、一瞬目の前が真っ赤になった。
信じられない場所に触れている指先が、ゆっくりと少しずつ内部へ侵入して来る。引き攣る痛みが走って足が震え、恐怖に体を強張らせながらも、不思議と嫌悪は感じない。けれど、圧迫感も痛みも相当なもので、成歩堂は必死に唇を噛んで耐えた。
響也の仕草はあくまで丁寧で、成歩堂を傷付けないことに必死になっているのが解かる。引かれて、またすぐ押し込まれる感触に、少しずつ中は綻びを見せ、甘ったるい疼きが徐々に痛みに混じって下肢を走り抜けた。
「んっ、……ぁ」
喉が震えて、掠れた声が唇を突いて出る頃、ようやく体が慣れて来て、ふと目を上げると、自分よりも苦しそうな顔をした響也の顔が見えた。そう見えたのは、気のせいかも知れない。だって、痛みを与えられているのは、自分の方なのだ。引き抜かれた指先の代わりに打ち込まれた熱に、悲鳴を押し殺すだけで精一杯だ。こんなことは信じられない。
それに……。
彼はさっき、成歩堂のことをバカだと言ったけれど。バカなのは彼の方だ。
他の誰かのことでも考えていろ、なんて。
こんな状況で、こんな理不尽な痛みを味わっている中で、この目の前の男のこと以外、考えられるはずないじゃないか。
そう言葉にする代わりに、成歩堂は再びゆっくりと腕を持ち上げて響也の背に腕を回した。そうするのが精一杯だった。
縋り付くように力を込めると、響也は先ほどと同じようにびくりと肩を揺らしたけれど、動きを止めようとはしなかった。
その後。痛む体を引き摺って身を起こして恨みがましい目を向けると、響也は何でもなかったように笑顔を見せた。
「だから、悪かったよ、そんな怒らないでくれないかな」
「そう言う問題じゃないだろ」
「だからさ、もっと優しくして欲しかった、ってことだよね?」
「………もう、いいよ」
まともに取り合う気のない響也に、成歩堂は問い詰めるのが億劫になって、がっくりと肩を落とした。
「でも、こう言うのはこれっきりにして欲しいな」
溜息混じりに吐き出すと、響也は突然その顔から笑みを消して、すっと真顔になった。
「そのつもりだよ」
「うん?」
「出直してくるよ。いつか、ちゃんとあんたと向き合えるようになったらね」
「……牙琉検事」
それが、どう言う意味なのかは、よく解からなかった。
そして、その言葉通り、彼はあれからぱったりと来なくなってしまった。
成歩堂が彼の姿を見るのは、ブラウン管の中でだけだった。
でも、彼が最後に言っていた言葉は、きっと、本当のことだと思う。そう思うのはただの勘だし、もしかしたら自分がそう思いたいだけかも知れない。
でも、彼はいつか自分の前にまた姿を現してくれる。そうしたら、あのとき言い損ねた恨み言をもうちょっと嫌味ったらしく言ってあげよう。その日が、とても楽しみ、かも知れない。
(牙琉検事、きみにまた会うのが)
テレビの向こうから流れて来る派手な曲を聴きながら、成歩堂はそんなことを思ってちょっと笑ってしまった。
終