Lucid Dream
「なるほどくん、しっかりしなさい」
懐かしい声が聞こえて、それで目が覚めた。
同時に、とてつもなく寂しいような、やるせないような気持ちになった。
もう、何度目になるだろう。
辛いことが重なると、度々彼女の夢をみる。
でも、もうその人はここにいない。
目を開いて、周りに誰もいないことを確認すると、深い溜息が漏れた。
「しっかり、しないとな…」
虚ろな声でそう言いながら、成歩堂はくたびれた青いスーツに袖を通した。
御剣怜侍が意味深な言葉だけを残して、検事局から姿を消したとき。
それが、成歩堂にどれだけの衝撃を与えたか、一言では語り尽せない。
暫くの間、成歩堂は仕事に集中するどころか、ろくに食事を摂ることも出来なかった。
そして、そんな成歩堂を気遣ってくれる人も、今は誰もいなかった。
真宵は修行中で倉院の里へ。
音信不通の矢張は、恐らく女の子を追い掛けて、海外にでも行ってるのだろう。
誰よりも頼りにしていたあの人も、今はもういない。
ただ、こんな状況の自分を誰かが救えるとも思えず…。
とにかく、何故こんなに自分が堕ちているのかも理解出来ないまま、どうしようもなく辛い時間が続いていた。
そんな日が、幾日か過ぎた頃。
久し振りに、携帯電話の着信音が鳴った。
(み、つるぎ…?)
僅かな期待に顔を上げ、腕を伸ばして携帯電話を手に取る。
公衆着信の文字が目に入り、成歩堂は急いで通話ボタンを押した。
「も、もしもし!」
『あ、もしもし、なるほどくん?』
「……!」
耳元に流れ込んで来た声は、成歩堂が期待していた人物のものではなかったが。
聞くだけで胸が温まるような、ホッとするような少女のものだった。
「ま、真宵ちゃんか?」
『久し振り!元気にしてた?』
「ああ…元気だよ」
本当は、目の前が真っ暗になったような気持ちだった。
足元がぐらぐら揺れて、立っているのも辛い。
でも、それをこの子にぶつけるのはお門違いだ。
成歩堂は努めて明るい声を発した。
そうして、数分他愛もない話をして。
会話が一区切りしたところで、突然、真宵が意外なことを切り出した。
『ねぇ、今からちょっと遊びに行ってもいいかな、一日だけ』
「あ、ああ。構わないよ」
『本当?じゃあ、夜にそっちへ行くからね、なるほどくん!』
電話を切って、成歩堂は暫く放心したように携帯を見詰めていた。
どうして、御剣だなんて思ったんだろう。
彼は、もういなくなってしまったと、解かっているはずなのに。
成歩堂は深い溜息を漏らすと、更に暗くなってしまった気持ちを晴らそうと、事務所を出て散歩に出掛けることにした。
けれど、つい足が向かってしまうのは、検事局の前だとか、ひょうたん湖公園だとか。
そんな場所ばかりで、どうしても彼のことばかり考えてしまう。
結局、何も気分転換など出来ないまま、無駄に時間が過ぎてしまった。
(あ、もうこんな時間か…)
時計を見て、成歩堂は慌てて帰路に付いた。
もうきっと、事務所ではあの子が待っている。
彼女を心配させてはいけない。
事務所の窓を見上げると、薄い明かりが漏れていた。
(真宵ちゃん!もう来ているのか…)
気を取り直して、慌しく扉を開けると…。
「お帰りなさい、なるほどくん」
「……?!」
出迎えた声は、あのあどけない女の子の声ではなかった。
(あ……)
でも、聞き覚えがある声。
当然だ。懐かしくて、温かくて。聞くだけで切なくなる声。
「千尋…さん!どうして!」
「真宵がね…どうもさっきの電話で、あなたの様子が変だったからって。もしかして、とてつもなく落ち込んでるんじゃないかって」
「え……?」
「でも、自分には話してくれないと思ったみたいね。それで私が呼ばれたって訳」
「そう、だったんですか…真宵ちゃんが…」
(何も気付いてないと思ったのに…)
鋭いものだ。
それに、こうして千尋がいると言うことは、真宵の修行も順調なのだろう。
(そうか、あの子は…頑張っているんだな)
なのに、自分は…。
「それで?一体、どうしたの?なるほどくん」
自嘲気味に顔を伏せたところで、千尋の声が掛かって、慌てて顔を上げた。
彼女の目が、じっと自分の顔を覗き込んでいる。
「あ、いえ…。な、何も…ない、です」
強い意志を秘めた双眸に、何だか全て見透かされてしまいそうで、成歩堂は再び顔を伏せた。
こうなってまで、心配掛けたくない。
けれど、それは無理と言うもの、だったらしい。
「なるほどくん、私を誰だと思ってるの?」
「え……?」
「お見通しってことよ。何か、辛いことがあったってことくらい、顔を見れば解かるわ」
「ち、千尋さん…」
あっさりと言い当てられてしまい、言葉に詰まってしまった。
彼女にだけは、もう一人前になったって、思って欲しかったのに。
「泣きたいなら、泣いてもいいのよ」
「……!」
優しく掛けられる千尋の言葉に、ようやく立っている足元がぐらりとよろめいた。
そうだ…。彼女はいつも、こうだった。
厳しいところも甘えを許さないところもあるけど、本当はとても優しくて、いつも成歩堂を支えてくれた。
でも……。
「でも、ぼくはもう…あなたに甘えてばかりいる訳にはいかないんです…」
「いいのよ、誰だって素直に甘えて良い時ってあると思うわ。それにね…」
そこで千尋は一端言葉を切った。
顔を上げた成歩堂と視線を合わせて、にっこりと笑い掛ける。
「あなたの泣き顔なんか、もう見慣れてるのよ?忘れたの、なるほどくん」
「千尋…さん」
呟いた途端。
急に堪えきれなくなったように、両方の目の奥が熱くなってしまった。
我慢の糸が切れただけじゃない。
優しくされることが純粋に嬉しかった。
こんなつもりじゃなかったのに。
こんなところ、見せたい訳じゃなかったのに。
「大丈夫よ…。相変わらず、泣き虫なのね。なるほどくん」
そう言って、千尋は成歩堂を引き寄せると、ぎゅっと抱き締めてくれた。
その一言で、嘘のように気持ちが軽くなってしまった。
優しい手が成歩堂の頭を撫でる。
頬に幾つも幾つも涙の線が出来て、千尋が着ている真宵の服も、成歩堂のシャツもびしょ濡れになった。
御剣が、帰って来た訳じゃないし、何か状況が変わった訳でもない。
でも、胸の中に凝り固まっていた苦くて冷たくて重たいものが、嘘のように溶け出してなくなって行くのを感じた。
翌朝。
「なるほどくん…しっかりしなさい」
「……!」
前の晩に見た夢と、同じ声…同じ言葉を掛けられて、成歩堂は目が覚めた。
あまりのタイミングに、全部夢なのではないかと思って飛び起きたけれど。
それはいらない心配だったようで…。成歩堂の大切な懐かしい人は、まだ自分の目の前にきちんといて、とても優しい顔で笑っていた。
「千尋さん…おはようございます」
「おはよう、なるほどくん」
「あの、すみません…昨日は、ぼく…」
豪快に泣いてしまったことが今更ながら恥ずかしくて、肩を窄めると、千尋はそれを振り払うように、ポンと成歩堂の肩を叩いた。
「いいのよ、気にしないで。それより、私が戻った後、真宵が心配するわ。シャワーでも浴びて来て、シャキっとしなさい!ね?」
「はい、千尋さん」
素直に頷いて、言われるままバスルームに向かった。
熱い湯に打たれて、気持ちを切り替えて。
成歩堂が戻って来ると、千尋はもうそこにいなかった。
代わりに現れたのは、一回りも二回りも小柄な女の子の姿。
「ま、真宵ちゃん?」
「あ!なるほどくん!お姉ちゃんに、会えた?」
彼女は成歩堂の姿を見つけると、両の拳を握り締めて、開口一番にそう聞いて来た。
本当に心配してくれていたんだろう。
その気持ちが嬉しくて、成歩堂は笑顔を作って、力強く頷いた。
「うん、喝を入れて貰ったよ。ありがとう、真宵ちゃん」
「良かった!何と言っても、昨日のなるほどくんは、ちょっと目も当てられない状況だったに違いないからねぇ」
「はは…。そう、かな…」
(見た訳でもないのに…凄いな)
「大丈夫だよ、なるほどくん。何があったか知らないけど、あたしが付いてるからね!」
「ありがとう、真宵ちゃん」
「お、素直だね、結構結構」
恐らくは、涙の痕が残る自分の衣服に気付いているだろうに。
そのことについては何も触れずに、にこりと笑い掛けて来る。
そんな彼女に、心底感謝の気持ちを述べたくなった。
「なるほどくん、じゃああたしは帰るね。又来るから」
「駅まで送るよ、真宵ちゃん」
「その前に美味しいみそラーメンが食べたいなぁ」
「じゃあ一緒に行こうか」
「そうこなくちゃね!」
そんな会話を交わして、二人で一緒に外に出た。
空を見上げると、雑踏の合間に雲ひとつない綺麗な空が見えた。
御剣がいないままだけど、それでも、いつもと変わらない一日が始まろうとしていた。
この気持ちを何て言うのかは解からない。
でも、きちんと考えて、とにかく整理を付けよう。
でないと、自分まで身動きが取れないから。
そう思いながら、ふと…足取り軽く歩き出した真宵の後姿に、千尋の姿が重なったように見えた。
「…ありがとう」
「ん?何?なるほどくん」
「何でもないよ、急ごうか」
「うん」
そうして、にっこり笑った真宵と一緒に、いつもの道を歩き出した。
もう…多分、大丈夫だ。
でも、今度は辛い時ばかりじゃない。
これからどんな時であっても。
きっと又、ぼくはあの人の夢をみる。
END