ランチタイム
「大丈夫ですか、成歩堂さん」
「うーん、だるいなぁ」
ソファの上に力なく横になっている成歩堂に、心配そうに問い掛けると、力のない声が返って来た。
彼はどうも風邪を引いてしまったらしく、今朝からずっとこんな調子だった。
朝も昼も何も食べないし、流石に、ちょっと心配になって来る。
「風邪薬飲んで下さい、成歩堂さん」
「うん、そうだね…」
「俺、今から買って来ますから!確か、カゼゴロシ・Zでいいんですよね」
「ああ…。すまないね、オドロキくん」
「いえ、大丈夫です!」
風邪とは言え、こじらせたら大変だ。
王泥喜は急いで財布をポケットに突っ込んで、事務所を飛び出した。
薬屋でカゼゴロシ・Zを買って、ついでに何か食べ易そうなものでも買おうとスーパーに向かう。
暫く歩いていると、向かい側からどこかで見たような人物がこちらに向かって来るのが見えた。
あれは…。
「茜さんじゃないですか?どうしたんですか」
「あら、あんた…」
声を掛けると、彼女はすぐ側まで近付いて来た。
「丁度良かった。ねぇ、今成歩堂さん事務所にいる?」
「え、はい。いますけど…」
頷いて答えながらも、何だか嫌な予感が王泥喜の背筋を走る。
「成歩堂さんに用事ですか?」
探るようにして尋ねると、茜は何だか勝ち誇ったように笑ってみせた。
「ふふん。あたし、今日こそは成歩堂さんを振り向かせてみせるんだから」
「え……」
(ふ、振り向かせるって…)
何だろう、この自信は。
そこまで自信満々だからには、きっと、何かあるのだろう。
でも、やっぱり嫌な予感がする。
「あの、何かあるんですか、秘策でも」
「よく聞いてくれたわ!これよ!」
高々と叫びながら、茜は持っていた大きな袋を王泥喜の目の前に差し出した。
「何ですか、これ」
「勿論、お弁当に決まってるでしょ?」
「え?!お弁当?」
てっきり、怪しそうな惚れ薬とか、そう言うものだと思ったのに。
茜にしては意外とまともな・・・。
「そうよ。あたしがこうして毎日成歩堂さんにお弁当持って来たりすれば…きっと考えてくれると思うのよね、色々」
「それって…もしかして茜さんが作ったんですか?」
「そう言う訳じゃないけど…ここのお弁当はちょっと特別だから」
「そ、そうなんですか…」
よく解からないけれど、凄いお弁当なんだろう。
スーパーで何か買おうと思っていたけれど、その必要はないかも知れない。
「あんたの分もちゃんとあるからね」
それに、意外なことに茜がそう言ってくれたので、王泥喜は買い物を中止して、彼女と一緒に事務所に帰ることにした。
何となく、二人きりにするのはまずいような気もしたからなのだが…。
「成歩堂さん!風邪は大丈夫ですか?」
事務所に着くと、茜は物凄い勢いで中へ入って、心配そうに成歩堂の側へと駆け寄った。
「茜ちゃん。よく来てくれたね。茜ちゃんこそ、元気だった?」
少しだるそうだったけど、成歩堂はソファから身を起こして茜に笑い掛けている。
いつも思うけれど、成歩堂といるときの茜の様子は、本当にいつもと違う。
今も、彼の笑顔にあてられてしまったのか、何だか惚けたような返事を返した。
「は、はい、あたしは、その…元気は元気なんですけど…成歩堂さんといると、世界がピンク色に見えるって言うか…」
「茜さん、それ…その色メガネのせいじゃ…」
「あんたは黙ってなさい!!」
「…い、痛っ!!!」
当然の突込みを入れた途端、物凄い勢いで飛んで来たかりんとうが顔面を直撃してしまった。
かなり痛かったのだけど、文句を言うヒマもない。
これでは先が思いやられる。
今日もきっと、ただではすまないのだろう、色々と…。
そう思うと、深い溜息が出てしまった。
けれど、茜が持って来たお弁当は本当に美味しそうなものだった。
まず、名前からして凄い。
「あの、これ。良かったら、成歩堂さんにと思って…ベントーランドのキャビア弁当なんですけど…」
(キャ、キャビア・・・!)
それは、凄い。
思わずごくりと喉が鳴ってしまった。
「ありがとう、茜ちゃん、凄く嬉しいよ」
「そんな……」
そりゃ、凄く嬉しいだろう。キャビアだし。
そう言えば、茜は王泥喜の分も買ってくれたと言っていた。
成歩堂と同じものだとは思っていないけれど、一体何だろう。
期待に目を輝かせる王泥喜の目の前に、茜はすっと一つのお弁当を差し出した。
「あんたには、これ」
「あ、茜さん、ありが…」
お礼を言い掛けた王泥喜だけど、続く彼女の声に言葉を失ってしまった。
「はい、輪ゴム弁当よ」
「……はい?」
今、何と?
輪ゴム?
訳が解からないながらも受け取って蓋を開けて、そして王泥喜は目を疑った。
お弁当箱の中の白いご飯の上には、本当に輪ゴムだけがぎっしりと乗っている。
「な、な、な、何ですか!これ!輪ゴムじゃないですか!」
「だから言ったじゃない、輪ゴム弁当だって」
「そ、それはそうですけど!食べれませんよ!こんな…」
「オドロキくん…輪ゴムを笑うものは輪ゴムに泣くよ」
「い、意味が解かりません!!」
思い切り抗議したけれど、聞き入れて貰えるはずもなく。
二人が夢中でキャビア弁当を頬張る中、王泥喜の手の中には虚しくも輪ゴムの乗った白飯だけが残った。
「どうですか?成歩堂さん」
「凄く美味しいよ、茜ちゃん」
しかも、二人は暢気にそんな会話を交わしている。
(な、何で俺だけ…!)
こんなことなら、薬なんて買って来るんじゃなかった!
いや、そうじゃない。そんなことじゃなくて。
とにかく、一口でもいいから食べたい!
無意識に、物欲しそうな目になっていたのだろうか。
心の中で叫んでいると、不意に、成歩堂がくるりとこちらを向いて、意味有り気な笑みを浮かべた。
「そんなに食べたいかい?オドロキくん」
「……え!」
ま、まさか。
わざわざこんなことを聞いてくると言うことは、一口くれる…とか?
成歩堂の言葉に一筋の希望が見えて、王泥喜は何だか胸が高鳴るような気がした。
「は、はい!かなり食べたいです…!」
目を輝かせて返事をすると、彼はそこで王泥喜の気持ちに応えるように優しい笑顔を向けた。
(成歩堂さん…)
いつも訳の解からない彼の笑みが、今日は慈愛に満ちた天使のように見える。
けれど、そう思ったのはほんの一瞬のことだった。
「でも、凄く残念だけど…折角茜ちゃんがぼくの為に買って来てくれたものを、きみにあげる訳には行かないんだよね」
「……っ!!」
口を開いた彼は、こちらの期待を見事に打ち砕くような、残酷な言葉を吐いた。
(な…、何だって!?!)
だったら、最初から聞かないでくれよ!
胸中で尤もな突込みを入れて、王泥喜はぎゅっと拳を握り締めた。
この人に期待した自分がバカだった。
でも、あんまりだ。
(こ、こうなったら…!)
仕方ない。奥の手を使うしかない。
これは、ある意味ルール違反かも知れない。
でも、背に腹は変えられない。
食べ物の恨みと言うのは恐ろしいのだから。
それをたっぷりと思い知ればいい。
王泥喜は一度深呼吸をして、それから自信に満ちた笑みを浮かべて、成歩堂の名前を呼んだ。
「成歩堂さん」
「何だい、オドロキくん」
そんな余裕たっぷりな顔をしていられるのも、今のうちだ。
勿体ぶったようにぐっと腕を組むと、王泥喜はとっておきの一言を口にした。
「あなたがそう言うつもりなら、今日のこと…春美ちゃんに言っても、いいんですね?」
「……!!」
直後。
成歩堂の顔が強張り、箸を持つ手がぴたりと止まった。
よし、やったか?!
息を飲む王泥喜の前で、彼はゆっくりとこちらに向き直ると、真剣そのものと言った顔で口を開いた。
「オドロキくん、ぼくがそんな人間だと思うのかい?」
「さ、さぁ。どう言う意味ですか?」
あと、もう一押し。
そんな思いを込めて問いかけると、彼は箸で摘んだキャビアとご飯を王泥喜の方へと差し出した。
見たこともないような、全開の笑顔と共に。
「ほら、一口あげるよ。口開けて」
「…!な、成歩堂さん!」
良かった!上手く行った!
目を輝かせて、王泥喜は成歩堂が箸で摘んだご飯をぱくりと頬張った。
途端、口の中に何とも言えない美味しさが広がる。
これが、キャビア弁当。
取り敢えず、美味い!
こんな美味しいものを成歩堂から分けて貰えるなんて!
そんな感激にしみじみと浸っていると、不意に付近からじわじわと負のオーラが漂い出した。
「あんた…」
同時に、地を這うような暗くて低い声が。
「……?」
(……え?)
恐る恐るそちらの方を見ると、茜が何やら物凄く不穏な様子でぶるぶると拳を震わせていた。
「…あ、茜さん!」
しまった!
キャビアに気を取られ過ぎて、彼女の存在を忘れていた。
これは、まずい。かなり、まずい。
何がまずいのか具体的には解からないけれど、明らかに彼女の怒りに触れることをしてしまったのだ。
静かながらも伝わる気迫から、それだけは解かる。
「あたしだって、成歩堂さんに食べさせて貰ったことなんか、ないのに…」
「え、あ……」
言いながら、茜は持っていた割り箸を片手でバリっとへし折った。
ぞく、と激しい悪寒が王泥喜を襲う。
「始めからこう言うつもりだったのね…。輪ゴム弁当をあたしから受け取って、自分は可哀想だって成歩堂さんにアピールして、その上で成歩堂さんから直接一口食べさせて貰うって言う計画だったのね!」
「い、いやいや!そんな面倒臭い計画は知りませんよ!だいたい、お弁当を買って来たのは茜さんじゃ…」
とんでもない言いがかりに慌てて弁解したけれど、茜は既に聞く耳持たずの状況で…。
彼女は素早い手つきでバッグから怪しげなスプレーの缶を取り出すと、それを王泥喜の目の前にかざした。
「あ、茜さん、落ち着いて下さい!」
次に来る行動が容易に予測出来て、ぎょっとしつつも必死で静止を試みる。
「ご、誤解なんです!お、俺はっ!」
「問答無用よ!!よくも、あたしの成歩堂さんを!!」
「うわっ?!」
けれど、必死の努力も虚しく、怒鳴り声と同時にシュッと言う音がして、正体不明の液体が顔めがけて噴射されてしまった。
そうして。
この世には食べ物の恨みなんかより、もっと恐ろしいものがあるのだと…薄れていく意識の中で、王泥喜はぼんやりと思った。
END