「成歩堂、どこを見ているのですか」
「………」
 不意に投げ掛けられた台詞に、成歩堂は目を上げて、声の主に視線を移した。
 何と言うことはなく……ただ黙って窓の外に目をやっていただけなのに、聞こえたのは少しばかり気分を害したような声だった。
 きっと、他の人物には解からない。長いこと一番彼の近くにいる自分だからこそ解かる、不機嫌な声。
「別に、どこってことはないよ」
 ただ、ぼんやりと過ぎて行く景色が勿体なくて見入っていただけだ。それをそのまま伝えるのが億劫で、曖昧な言葉で誤魔化すと、彼――牙琉霧人はそっと腕組みをした。
 そうして、仰々しく吐き出される溜息と共に、再び口を開く。
「ここに来ているときは、あまり気を散らして欲しくないですね」
 ここ、とは、彼の事務所のことだ。今は周りに誰もいなくて、霧人と二人きり。
 確かに、何か話していたような気がするけれど、対して重要じゃなかったはずだ。
 まるで、自分だけ見ていろとでも言わんばかりの台詞は、何なのか。何だか可笑しくなって、成歩堂は口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「まるで、口説かれてるみたいだよ、牙琉先生」
「……そのつもりですが」
「………」
 あっさりそんな台詞を返され、思わず言葉を無くしてしまった。
 でも、一瞬だけ飲み込んだ吐息は、すぐに溜息になって漏れる。
「そのつもりなら、もっとそれらしくして欲しいよ」
 呆れたように呟いて、そっとニット帽を直すと、霧人は一歩足を進めて、徐に成歩堂の顎を指先で捕まえた。
「それで?本当は何を考えていたんです」
「何、って?」
「さっきから、上の空ですよ」
「………」
 確かに、彼の言う通り。心ここにあらずだった。
 この頃、ずっとそうだ。
 牙琉。
 きみのことが解からないと気付いてから、ずっと。
 そうは口に出来ず、成歩堂は霧人の指先から逃れるように、黙って顔を伏せた。
「何か、悩みでもあるのですか」
 探っているのか、本当に心配しているのか。
 彼の言葉はいつも穏やかで優しくて、ますます解からなくなる。
 口を噤んだままでいると、彼は突然、成歩堂の後頭部に手の平を回し、そっと側に引き寄せた。
 そして、耳元に優しい囁きを落とす。
「あなたは、私の言うことだけ聞いていればいいんです」
「……」
 あんまりな台詞に、思わず絶句する。
 冗談なのか、本気なのか。
「それも、口説いてるのかい、先生」
 茶化すような声色を発すると、ふ、と彼が鼻先で笑ったのが解かった。
「口説く……?バカバカしいですね……」
 ぐい、と頭を抱く手が頬に回り、無理矢理顔を上げさせられる。
 同時に、間近にある双眸が、じっと成歩堂を見据えていた。
「命令ですよ」
 冷たく放たれた言葉に、ぴく、と肩が僅かに揺れた。
 理不尽な言い分だ。そんなもの、聞き入れる義理はない。解かっていて、彼はそんなことを言う。成歩堂の神経をわざと逆撫でしようとする。でも、そんな簡単に乗ってはやらない。
 ぼくはきみのものじゃない。
 そう言う代わりに、成歩堂は視線を伏せて口元を歪めて笑った。
「へぇ……、そう」
 至って興味のなさそうな声を発すると、霧人の気配が厳しくなった。
 そうして、視線を合わせるように屈み込んだ彼の姿が目の前にちらつくと同時に、ゆっくりと唇が塞がれた。柔らかい感触。もう、幾度か味わったことのある温度。
 そのまま、側にあったデスクに押し倒されて、衝撃に眉を顰めたのは一瞬だ。すぐに彼の髪の毛が顔に降り掛かり、首筋にぬるりと舌が這う。
 意図せず、ぞくりと肌が粟立つのを、息を詰めてやり過ごす。
(はぁ……)
 声を堪えたまま、成歩堂は嘆息した。
 霧人の手は、優しい。
 触れられていると、居心地の良い繭の中にいるような気さえする。
 本当は、何も考えず、こうして彼の前に身を曝け出して、心までも曝け出してしまえれば。そうすれば、ずっとこのままでいれるんだろうか。
 でも、一度頭を擡げてしまった不安は、成歩堂の胸の中で否応なしに大きくなる。けれど、それが膨れ上がって破裂してしまうまでは、このままでいたいんだ。
 そっと目を閉じると、指の先にまで心地良さを感じた。
 そんな中、瞼の裏には七年前の事件の断片が浮かんでは消え、また浮かんでは消えて行く。
 いなくなってしまった被告人の顔。目の前の男にそっくりな、若い検事の顔。あの、本当は脆い、いたいけな少女の顔。考えなくてはいけないことは、沢山ある。
 でも、やがてはそれも、引っ切りなしに与えられる心地良さの中へ、融けるように消えて行った。
 ――あなたは、私の言うことだけ聞いていればいいんです。
 そして、最後に聞こえたのは、先ほど告げられた霧人の優しい声だった。
 この声が完全に消えてなくなるまでは、もう少しだけ、このまま……。