無慈悲に




「大丈夫ですか、成歩堂さん」
「……え」
「顔色が悪いですよ。何て言うのかな、壮絶に緑色です」
「え、ああ……」
「大丈夫ですか?宜しくお願いしますよ、ぼくの、イメージが懸かってるんです」
 そう言って、つい、と頬の辺りに触れた指先の感触を、不意に思い出した。
 口元に柔らかい笑みを貼り付けて、上目遣いに見上げる片方の目には、縋り付くような……どこか媚びるような色を浮かべていた。
「どうかしました?」
「い、いえ……」
 時間が止まったように動きを忘れていた成歩堂は、ハッと我に返って笑顔を作った。依頼人を不安にさせてはいけない。しっかりしないと。
 でも。
(いきなり触るから……、びっくりした)
 こう言う、悪意のない人懐こさが、ある種の人間にそそるんだろう。解からなくもない。
 そんなことを思い巡らして、溜息を吐きたくなった。今は、そんなことを考えてる場合じゃない。
 ここは裁判所で、これから自分は裁判を目前にしている。真宵の無事が心配だけど、同時にこの依頼人をも守ってあげなくてはいけない。今の内に、しっかりと考えを纏めなくては。
「成歩堂さん、さっきより、顔色が悪いですよ」
「すみません、大丈夫です」
「あまり無理しないで下さいよ。あなたしか、いないんですから」
「解かってます。ぼくを、信じて下さい」

 そんな会話を思い出して、すぐに頭の中で打ち消した。
 今はもう、こんなこと思い出したくもない。何もかも忘れてしまいたい。
 逃げるように、ふらふらとおぼつかない足取りのまま前に進もうとしても、上手く行かない。足に力が入らなくて、目の前の景色が揺らぐ。酷い吐き気だ。胸具合が悪くて、どうしようもない。
 次の瞬間、くら、と眩暈が襲って、手にしていたトランクが派手な音を立てて地面に落ちた。それと同時に、体がバランスを失って、ぐらりと崩れ落ちる。そのまま、成歩堂の体はトランクと同じ運命を辿るはずだったのに。
 不意に掴まれた腕が、ぐい、と力を込めて引き上げられた。
「大丈夫ですか、成歩堂さん」
「……!」
 いつか掛けられたのと同じ台詞、同じ声色に、成歩堂は揺れる視界の中ぼんやりと目を上げた。眩暈のせいで側にいる人物の輪郭はぼやけてよく見えない。でも、それが今一番会いたくない人物なのだと言うことは、すぐに解かった。
「……王都楼さん」
「事務所にいないから、探しちゃいましたよ。どこ行くんですか。ちゃんとお礼しようと思ったのに」
 そこで、彼はふと言葉を止め、地面に転がった荷物に目をやった。
「その……トランク」
「……!」
 どこかへふらりと出掛けるにしては、明らかに多過ぎる荷物。成歩堂がどこかに逃げようとしているのだと、すぐに解かってしまうだろう。何か言われるのも嫌だったし、何より彼とこれ以上話していたくなかったので、成歩堂は掴まれた腕を乱暴に振り払った。
「離してくれ」
 けれど、一度離れた腕はまた成歩堂の腕を捉えて、執拗に絡みついた。
「王都楼さ……」
「いいから、来て下さいよ、お願いします」
「……!」
 地面に落ちたトランクを軽々と片手で起こして、もう片方で成歩堂の腕を掴みながら、王都楼真悟は強引に足を進め出した。逆らう気力は、もう殆ど残っていなかった。

 引き摺るように連れて行かれた先は、彼の豪邸だった。
 彼は大きなソファに成歩堂を腰掛けさせると、自分も側にすとんと腰を下ろした。
「それにしても、酷いですよね、成歩堂さん。ぼくのイメージ、ちゃんと守ってくれるって言ったのに」
 その言葉に、カッと頭に血が昇った。
「止めろ、そんな芝居は!」
 ドン!と音を立ててテーブルを叩くと、置いてあったティーカップがガチャンと派手な音を立てた。
 続いて、はぁと長い溜息が耳元に聞こえる。釣られるように顔を上げると、彼は片手で顔半分を覆っていた前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。
「何だよ、あんた。いい子の俺の方が好きだったんじゃないのか」
「……」
「まぁ、どっちでもいいけどな、俺は……」
 どっちでもいい。確かに、自分もそう思う。
 彼のしたことは変わらない。そして、成歩堂の力が及ばなかったと言うことも。

「いい子にしてたか、シュウ」
 不意に、足元に擦り寄って来た猫の気配に、王都楼がそんな声を掛けた。柔らかく指先で喉を撫でると、猫は応えるように小さく鳴いた。そう言えば、餌をやってくれなんて、言われていたっけ。
「お前みたいなヤツでも、猫には優しいんだ」
 ふと、自然とそんな感想が漏れた。
 独り言のような呟きに、王都楼が顔を上げる。
「俺だって鬼じゃない、ペットには優しいさ」
 ふ、と凶悪な目に一瞬慈しみのような色を浮かべて、彼は唇を歪めて笑った。それから、成歩堂に向き直って、ぐっと距離を詰めた。
「弁護士くん、俺はさ……、俺の邪魔をするヤツが大嫌いなんだ。あのイサオのヤツも、霧緒も、みんなそうだ」
「……」
「だから、俺の為に一生懸命になってたあんたは、好きだったよ」
 びく、と怯えたように肩が揺れた。裁判の光景が一気に頭の中に流れ込んで来たからだ。苦し紛れに熱弁を振るう自分と、あくまで冷静だった御剣と。それから、小さい体を自身で抱き締めるようにして震えていた、霧緒の姿。
 自分は、何もしてやれなかった。霧緒は今頃、どうしているだろう。助けて、と訴える彼女の眼を、真っ向から見詰めた。
 それなのに。
「泣くなよ、先生」
 そう言われて、自分の頬を伝う冷たい涙に、成歩堂は初めて気付いた。幾筋も跡を残しながら流れ落ちるそれは、一向に止まらない。嗚咽も何も出ない。ただ、絶望の涙だ。
 その様子に、王都楼は不意に身を寄せて、小さな子供が大人に抱きつくように大袈裟に両腕を広げて成歩堂の体を抱き締めた。すっぽりと彼の腕に治まっても、抵抗する気すら起きない。鍛えられた胸板が、そっと頬に押し付けられた。
「霧緒のことなら、あんたが頑張って無罪にしてやりゃいいじゃないか」
「……?!」
「真犯人はあのコロシヤだ。俺は一切関知してない、そう主張して、あいつを無罪にしてやりゃいいだろ?」
「なに……、言って」
「どうせ、あんたが肩肘張ったって、俺の無罪は確定だ。もう翻らない」
「……」
「真実が暴露されたって、もう遅い」
 今日は、随分よく喋る。
 場違いにそんな感想を抱いてしまうほど、彼は自らの主張に酔いしれたように熱っぽい口調で言葉を紡いだ。
「春風のようになんて、もうどうでもいいしな」
 危ない魅力にも人は簡単に取り付かれてしまうから。
 だからこうして、あんただってこんなところへ来て、暢気に俺に抱き締められてるんだろう?
 王都楼は、そう嘲笑うように言った。
 違う、そうじゃない。そう言いたいけれど、唇は僅かに震えただけで、動かなかった。
 先ほどから、呼吸をする度に喉の奥が痛む。吸い込む空気は酷く重くて、じっとりと罪の味に濡れている。目の前は、血に塗られたように赤い。
 そんな中、抱き締める王都楼の手が、背中をゆっくりと撫でた。酷く優しい仕草に、すっと胸の内が軽くなる。こんなの、間違っている。そう叫びだしたいのに、上手くいかない。
「あいつは一人じゃ何も出来ないんだ」
「……?」
 そこで、不意に囁くような声が降って来て、成歩堂は視線だけずらして彼を見上げた。
「俺の言うことにも言いなり、他のヤツにも、全部。自分じゃ何一つ出来ない」
「……」
 彼が言っているのは、あの、一見優しくて人懐こい彼のことだろうか?
 胸中の疑問を肯定するように、彼は淡々と語った。
「でも、あんたのことだけは気に入ってるんだよ、俺たち」
 今となっては、彼が単に二つの顔を演じ分けていただけなのか、本当に二面性を持っているのか、それは解からない。それに、そんなことは、どうでもいい。
「だから、泣かれたりすると、困るんだよなぁ」
「……」
 ふと、間近で聞こえた声に顔を上げると、すぐ側で覗き込む目と視線が合った。以前に見たのと同じ、どこか媚びるような色に、凶悪そうな光が入り混じっている。見開いた黒い目に、唇の端を吊り上げて笑う男の姿が映った。
「なぁ、慰めてやろうか、先生」
 いつの間にか、こちらへと伸びていた指先が、そっと頬に残る涙の跡をなぞった。そのまま、指先は少しずつずらされ、小さく震える唇の上も手触りを楽しむように辿る。そのまま押し当てられた彼の唇が、ゆっくりと吸い付くように触れた。背中に回されたままのもう一つの腕は、相変わらずそこを優しく撫でている。
 自分に今何が起きているのか、冷静に判断しようとしたけれど、頭の奥が麻痺したように上手く行かなかった。
「優しくしてやるよ、特別に」
 先ほどまで猫の喉を撫でていた指先が、成歩堂の柔らかい喉を辿った。
「……っ」
 息を吐く度に小さく震える、急所。王都楼の指先が、皮膚の上に爪痕を残しながら移動する様を、成歩堂は息を詰めて見守った。
 少しでも気を抜けば、このまま引き裂かれて、食い破られてしまうのではないかと言う恐怖が襲う。
 でも、そんな中。
 沈黙を破って自分の口から紡がれた言葉は、到底正気のものとは思えなかった。
「どうせなら、滅茶苦茶にしてくれ。何も、解からなくなるくらい……」
「―――」
 成歩堂の反応に、王都楼が意表を突かれたのは、一瞬だった。見開かれた目はすぐに獲物を見詰めるように細められ、へぇ、と興味深そうに呟いた唇からは赤い舌が覗いてそこを舐め取った。
「いいぜ、来いよ。先生」
 彼に腕を引かれる自分は、彼の引く糸のままに操られる人形のようだった。誰かが、糸を断ち切るまで、きっとここから逃れられない。
 頭に浮かんだ親しい人物の顔が、幾度も脳裏を過ぎったけれど、目の前の恐ろしい誘惑に抗えないまま。成歩堂は扉の向こうへ足を踏み入れた。