Milk
「なるほどくん、大丈夫?」
裁判の後。
例の検事に奢られて、頭から被ったコーヒーの水滴を拭いていると、真宵が心配そうに覗き込んで来た。
「あ、うん…まぁ」
曖昧な返事を返しながらも、被ったコーヒーの熱さを思い出して、成歩堂は深い溜息を付いた。
今日も本当に疲れてしまった。
一体、あの検事は何だと言うのだろう。
「それにしても酷いよねぇ、ゴドー検事」
「ああ…。いつか大火傷させられそうだよ」
「ね、なるほどくん!こっちはこっちで牛乳ぶっかけてやろうよ!」
言いながら、真宵はきらきらと目を輝かせながら、手に持った牛乳瓶を高々とかざしてみせた。
そう言えば、以前にそんなことを言っていたような…。
「…どこから持って来たんだよ、それ」
「ふふん、ちょっとね」
何だか勝ち誇った顔になっている真宵に、疲れが更に増す。
「あのね、真宵ちゃん…そんなこと、出来る訳ないだろ」
溜息混じりに吐き出すと、彼女はにこりと笑みを浮かべて、からかうような口調になった。
「あ、怖いんだね、なるほどくん。もう、情けないなぁ」
「いやいや、そう言う問題じゃなくて。やられたらやり返すなんて、子供だぞ」
「えええ!折角とびきりの牛乳用意したのに!低温殺菌だよ!美味しいんだよ!新鮮で凄い濃いんだよ!」
「そうは言われてもなぁ…。じゃあ、自分で飲めば?」
「うーん、それもいい考えだね。でも、残念だなぁ。顔色変えるよ、きっと。幾らゴドー検事と言えども」
「まぁね…」
いきなり牛乳を掛けられて、顔色を変えない人物がいるなら、ちょっと見てみたい。
ゴドーの慌てた様子、見たくない訳じゃないけれど。
今度、綿密な計画の上に掛けてあげてもいいかも知れない。
勿論、決して自分だとバレないように。
成歩堂が暢気にとそんなことを思い浮かべている中。
真宵は楽しそうにスキップしながら、少し先に見える曲がり角に差し掛かっていた。
その、直後。
「きゃあっ!」
「……?!」
ドン!!
…と言う大きな音とともに、真宵の悲鳴が上がった。
「真宵ちゃん!?」
どうやら、曲がり角の向こう側から歩いて来た人物にぶつかってしまったのか。
弾みで尻餅をついた真宵に、慌てて駆け寄る。
そして、目の前に飛び込んで来た光景に、思わずぎょっとしてしまった。
「……!!」
曲がり角で真宵とぶつかったらしい、相手…。
ぶつかった衝撃で、派手に床に倒れていて。
しかも、彼女が持っていた牛乳の瓶を頭から被ったのか、髪の毛やら顔からぽたぽた白い雫を滴らせているのは…。
(う……!)
紛れもなく、ゴドー検事、その人だった。
物凄く信じたくないが、例の特殊なマスクを付けている彼を、見間違えようもない。
「ゴ、ゴ、ゴ、ゴドー検事…!」
「……」
何と言うことに…!
成歩堂は青褪めて名前を呼んだけれど、彼は少しもうろたえることなく、実に落ち着き払った物腰でゆっくりと立ち上がった。
「……」
「……」
広がる沈黙が、物凄く痛い。
確かにこうなることを望まなかった訳じゃないけれど。
成歩堂は、思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
しかも、たった今存分に頭から牛乳を掛けられたと言うのに…彼の顔、物凄く平然としている。
(顔色、全然変わらないじゃないか!)
第一、マスクで殆ど見えないし。
とにかく、このまま立ち尽くしていては、居心地が悪過ぎる。
ここは、放心でもしているであろう真宵の代わりに、自分が謝ってあげよう。
そう思って、成歩堂は恐る恐る唇を開いた。
「あ、あの…すみません、ゴドー検事。これはその、この子が…」
そこまで言って、ハッとする。
(って、あれ?真宵ちゃん?!)
今の今まで、成歩堂の足元に転がっていたはずの彼女の姿が、忽然と消えていた。
きょろきょろと辺りを見回してみても、どこにもいない。
(…えええ?ま、真宵ちゃん!?)
真宵がいない。
つまり自分は、こんな状況で、ゴドーと二人、取り残されている訳で…。
これでは、どう考えても自分がやったようにしか、見えないではないか!
「不意打ちとはな、いい度胸だぜ、まるほどう」
成歩堂が懸念した通り、ようやく口を開いたゴドーは、ニヤ、と不適に笑うと、そんなことを言い出した。
このままでは、どんな報復をされるか解からない。
成歩堂は慌てて弁解しようと口を開いた。
「ふ、不意打ち何かじゃありません!これは、真宵ちゃんが…!」
そう言いながらも、思い切り腰が引けてる自分と、牛乳を滴らせながらも、威風堂々としているゴドー検事。
何も悪いことはしていないのに、最初から勝敗は決しているような気がする。
「情けねぇぜ、まるほどう。自分の罪を他人に被せる…。男じゃねェな」
「いや、あの…」
じりじりと間を詰められて、成歩堂はずるずると足を後退させた。
(よ、寄らないで欲しいな…。な、何か)
恐ろしく不穏な空気を感じる。
「痛……っ」
彼はすぐ目の前まで来ると、ダン!と音を立てて成歩堂を壁に押し付けた。
逃げようとする前に、腕を掴んで押さえ付けられる。
「な、何するんですか…!」
「クッ…やられたことはやり返す。それが俺のルールだぜ」
「う……っ」
この台詞…。
彼が言うと、全く持って子供っぽくなんて聞こえない。
成歩堂は真宵に言った言葉を心の中でそっと撤回した。
けれどすぐに、うっかり感激している場合じゃないことに気付く。
だいたい、この自分にあれだけコーヒーをぶっかけておいて、それはないだろう!!
成歩堂が胸中で不満を爆発させていると、彼はまた唇の端を歪めて笑った。
「何か反論の材料はあるのかい、まるほどう」
未だに髪の毛からぽたぽたとミルクを垂らしているのに、何故か、かなりかっこいい。
(うう、何か…、ムカつくな)
いや、でも。
今はそんなことを羨ましがっている場合ではない。
腕を掴むゴドーの手に力が籠もって、成歩堂はハッと我に返った。
このままでは、何をされることやら。
「は、反論も何も、さっきから言ってるじゃないですか!あなたに牛乳を思い切りぶっかけた犯人は、ぼくじゃないですよ!」
「…そうかい、まるほどう。じゃあ、こう言うつもりかい?他に犯人がいる、と」
「だ、だから、そう言ってるじゃないですか!」
ムキになって言い返すと、彼はぐい、と成歩堂の近くに顔を寄せた。
「じゃあ、あんたに聞くが…」
「は、はい」
妙な迫力に圧倒されつつも、何とか頑張って睨み返す。
ゴドーはその視線を真っ向から受けながら、くっと喉を鳴らして笑った。
「一体誰が俺に、この濃厚な一杯を奢ってくれたんだい?」
「そ、それは、真宵ちゃんですよ…!ぼくじゃありません!」
「真宵ちゃん…ねぇ、そんなかわいこちゃんは何処にもいないようだが?」
「どこかに隠れたんですよ、決まってるじゃないですか!」
「ほう…。あんたの言うどこか…それは一体、どこだい?」
「そ、それは…」
成歩堂はしどもろもどろになりつつ、必死にきょろきょろと辺りを見回したけれど。
彼女の姿はどこにもない。
(ま、真宵ちゃん!どこに隠れたんだよ!)
このままでは、なし崩しに自分が犯人だ。
「決まりだな、まるほどう。あんたの悪あがきも、もうお終いだぜ」
「…ううう…」
勝ち誇ったように言われて、成歩堂は呻き声を上げた。
何だってこんなことになったのか。
けれど、ここまで来たらもう、認めなければ解放してもらえそうにない。
こんなところで、こんなに密着したまま立ち尽くしているのは、あんまりいい気持ちではないし。
「あの…。じゃあ、ど、どうすればいいんですか?」
半ば投げ槍になって言うと、彼は今までで一番愉しそうな笑みを浮かべた。
物凄く嫌な予感がする。
「いい覚悟だな、まるほどう…」
言い終えるなり、彼は成歩堂の耳元にぐいと顔を寄せた。
彼の低い声が直接耳元に届く。
「俺をこんなミルク塗れにした責任、取って貰うぜ。あんた自身の体でな」
「あ、あの…そ、それって…どう言う」
「クッ…とびきり熱くて濃厚な俺のミルクを、あんたにぶっ掛けてやるさ」
「あ、怪しげな言い方は止めて下さい!」
条件反射で、大声で突っ込みを入れた、途端。
「うわっ!!」
いきなり両腕を纏め上げられて、肩の上に担ぎ上げられ、成歩堂は引き攣った悲鳴を上げた。
自分だって、体格は決して悪くない。
と言うか…結構がっちりしているつもりなのに。
軽々と抱えられて、血の気が引く。
「お、降ろして下さい!」
「大人しくすることだ、まるほどう」
「ゴ、ゴドー検事!」
一体何処へ連れて行かれるのやら。
じたばた暴れてみても、全然効果がない。
しかも…。
「なるほどくん、頑張れ!ホネは拾ってあげるから!」
「ま、真宵ちゃ…」
(そ、そんな…!)
一体何処に潜んでいるのか…。
何処からともなく聞こえて来た、元凶とも言うべき真宵のエールを受けながらも、成す術なく。
成歩堂はただ、ゴドーの肩の上で悲痛な悲鳴を上げて、無駄にもがき続けるしかなかった。
END