鞭と彼女
その日は、とても平和と言うか、のんびりとした一日だった。昼過ぎに、突然の来訪者が成歩堂事務所を訪れるまでは。
突然けたたましく鳴ったチャイムに、王泥喜と成歩堂は顔を見合わせた。
「あれ、お客さんかな」
「あ、俺出ます」
もしかしたら、久し振りに依頼人かも知れない。慌ててソファから立ち上がると、王泥喜は入り口の方へ足を進めた。
「はい、どなたで……」
扉を開けて、そう言い掛けた途端。
「出るのが、遅い!」
「うわっ?!」
気の強そうな女の人の声と共に、王泥喜のおデコに物凄い痛みが走った。
「な、な、何なんですか、あなたは?!」
あまりのことに呆気に取られながら、対面する人物を涙目で睨み付けると、彼女の目は動揺するように揺れた。
「な、成歩堂龍一?暫く見ない内に何て言うか……随分雰囲気が変わったわね……」
「い、いやいや、俺は王泥喜法介です!成歩堂さんなら、奥にいますけれど……」
「……!!わ、解かってるわ!少しふざけてみただけよ。成歩堂龍一、いるのね」
「え、ええ」
一体、この人は誰なんだ。いきなり鞭で引っ叩くなんて、普通じゃない。
呆然とする王泥喜を余所に、彼女は真っ直ぐに姿勢を正した状態で、腰に手を当てた。
「それにしても、酷い有様ね。こんな浮ついた場所が元法律事務所だなんて」
「あ、あの!誰なんですか、あなたは」
「何でもいいわ。そこを退きなさい」
「え、ちょっと、待って下さい!」
王泥喜の叫びを無視して、彼女は強引に事務所の中へと足を踏み入れた。
「成歩堂龍一!いるんでしょう」
凛とした声が、事務所の中に響き渡る。
彼女が部屋の中央まで足を進めると、奥の部屋から成歩堂龍一がゆっくりと姿を現した。
「何の騒ぎだい、オドロキくん」
「な、成歩堂さん、すみません、この人が勝手に……」
「ふん、久し振りね、成歩堂龍一」
「ああ、きみか。狩魔冥」
「挨拶代わりに受け取りなさい!」
叫ぶと同時に、彼女は成歩堂に向けて大きく鞭を振り上げ。直後、王泥喜の体は何か強い力にぐいっと引かれた。
そして。
「いててて!」
バシっと言う鋭い音と共に、悲痛な叫び声が上がったのだけど、何故かそれは成歩堂のものではなく。
彼は向かいに立つ彼女に意味有り気な笑みを浮かべてみせた。
「甘いね、狩魔冥」
「な、成歩堂龍一!何てことなの、わたしの鞭をかわすなんて!」
「残念だったね。ぼくはもう、七年前のままじゃないんだよ」
「お、俺を盾にしただけじゃないですか!」
まだおデコに走る痛みを堪えて王泥喜は必死の訴えを上げた。
全く、人を咄嗟に盾にするなんてあんまりだ。
でも、王泥喜の叫びなどには関係なく、狩魔冥と呼ばれた美人は思い切り悔しそうに唇を噛んでいる。
「な、なかなかやるわね、成歩堂龍一」
(な、何がどうなってるんだ!)
王泥喜はおデコをてかてかにしながら、成歩堂に詰め寄った。
「成歩堂さん!何なんですか、この人は!」
そりゃ、凄く綺麗で何というか上品ぽい人だけど。上品な人が鞭を振り回すのかとかそう言うことはさておき。
一体、成歩堂龍一と彼女の関係はなんだろう。こんな美人がわざわざ会いに来るなんて。
それに、今までの成歩堂の女性関係などを考慮すると、まさかまさか。
いつの間にか想像が膨らんで赤面している王泥喜に、成歩堂は溜息混じりに吐き出した。
「オドロキくん、何か誤解してるようだけど、ぼくと彼女はきみの思っているような甘い関係じゃないよ」
「そ、そうなんですか」
「まぁね、昔はよく泣かされたし」
「ふん、あなたが情けないからよ」
勝ち誇った彼女の声が、すかさず投げ掛けられる。
(な、泣かされた!?)
それって、どう言う。もし文字通りじゃなくても、何だか、意味有り気な。考えてみて、一つだけ、王泥喜には思い当たることがあった。
まさか。
成歩堂に限ってそんな。
いやでも、鞭と言えば、一つしかないではないか。
(もしかして、エ、SMプレイ!)
王泥喜は胸中に思い浮かべた言葉に、思わずごくりと喉を鳴らした。途端、成歩堂が少し冷めた視線を送って来る。
「オドロキくん、生唾を飲むのは止めてくれないかな」
「あ、え、いやあの!俺、SMプレイが悪いだとか、そんなこと思ってませんから!!」
「……」
「……」
(あ、しまった)
一瞬広がった痛い沈黙に、もう一度ごくりと喉を鳴らした途端。
「この、無礼なおデコが!」
「いたたたた!」
ひゅんと音がして鞭がしなり、おデコに痛みが走った。
「流石あなたの弟子ね、成歩堂龍一。人がわざわざアメリカから来てやったと言うのに」
(ア、アメリカ?)
「な、成歩堂さん!い、いい加減に紹介して下さい!」
擦り剥けた額をさすりながら、涙目になって訴えると、成歩堂はようやく首を縦に振った。
「ああ、彼女はね……」
けれど、言い掛けた言葉を遮るように、彼女の声が重なった。
「わたしは狩魔冥。天才検事よ」
「け、けんじぃぃ?」
意外な自己紹介に、王泥喜は引き攣った声を上げてしまった。
この人が、検事。
いや、待てよ。聞いたことがある。成歩堂の扱った事件で、このカルマと言う名前があったような……。まさか、こんな女の人だったなんて。
王泥喜が呆然としていると、成歩堂はパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、そっと首を傾げた。
「で、きみ、何しに来たんだい?」
「ふん、そうね。敢えて言うなら、あなたの……落ちぶれてとことん惨めな姿を見て笑いに来た、と言うべきかしら」
「……?」
(え……?)
挑発とも取れる不穏な言葉に、王泥喜は眉根を寄せたけれど、成歩堂はただ口元を綻ばせただけだった。
「変わってないね、きみ」
「本当にバカなことをしたものね。弁護士ともあろうものが、証拠を偽造だなんて、恥さらしもいいところだわ」
「なっ、失礼じゃないですか!成歩堂さんはそんな!」
否定しようと咄嗟に大声を上げると、成歩堂にやんわりと制止されてしまった。
「いいんだよ、オドロキくん」
「ど、どうしてですか!」
「それは、彼女が狩魔冥だからだよ」
「……?!」
(え……)
それって、どう言う意味だろう。
彼女だから許すと言うことは。あんなこと言われているのに、この人が相手だから腹も立たないと言うことか。それだけ親密な間柄なんだろう。
それに、甘い関係じゃないと言うのは、まさかそう言う時期も過ぎて落ち着いた安定した関係であると言うこと?!
じゃあ、成歩堂と彼女は?!いや、それだけでただならぬ関係だと疑うなんて、いくら何でも。
けれど、やっぱり。
「言ってることはさ、この通り強気だけど、結構脆いとこもあってね。それに素直じゃないだけなんだ。話は半分くらいに聞いておいた方がいいんだよ」
耳元で成歩堂はそっと囁いたけれど、呆然としている王泥喜には殆ど届かなかった。
黙り込んだまま放心している自分を余所に、二人の会話は続く。
「で、本当は何しに来たんだい……冥ちゃん」
「その、人を見透かしたような口調、小馬鹿にしたような呼び方、物凄く気に食わないけれど、まぁいいわ。今日は、あなたの面倒を見る羽目になった可哀想なお嬢ちゃんに、一目会えたらと思って来たのよ」
「……そっか、みぬきに会いに来てくれたんだ。ありがとう、狩魔冥」
「お礼を言われる筋合いはないわ。それに、会えないと言うなら、今日はもう帰るわ」
「そんなこと言わずにさ、泊まって行けばいいのに」
「な、何を!バカなこと言わないで!」
彼女は顔を真っ赤にして、大きく鞭を振り下ろした。
そのとき又成歩堂が王泥喜を盾にしたので、未だに呆然としていた王泥喜はようやくハッと我に返った。
(ん!?)
今、彼は何と言った?
確か、泊まって行けとか言っていなかったか。
以前にも成歩堂は千尋と言う名前の色っぽい女の人を事務所に連れ込んで、一晩一緒に過ごしたなんて前科があるのだ。冗談ではない!
「成歩堂さん!」
思い切り成歩堂に縋り付くと、王泥喜は必死の声を上げた。
「俺は、俺は認めませんよ!」
「え、何がだい?」
「春美ちゃんは、春美ちゃんはどうなるんですか!」
「お、落ち着きなよ、オドロキくん」
「落ち着いていられませんよ!春美ちゃんがオトナになるのを待って、結婚するんじゃなかったんですか!」
「いや、きみ、いつの間にそんな話に……そもそもそれは誤解で……」
「何ですって?!あ、あなたが、あの小さな女の子と!!」
「いやいや、狩魔冥、あれからもう七年も経ってるんだよ。春美ちゃんは一応もうじゅうろ……」
「お黙り!不潔よ、成歩堂龍一!」
「そうですよ、成歩堂さん!」
「うわっ、ちょ、ちょっと……」
二人がかりで詰め寄られて、逃げ場のなくなった成歩堂は、狩魔検事の鞭を思い切り食らって床に倒れ込んでしまった。
その後。
「すみません。成歩堂さん」
「いや、いいよ」
彼女が帰った後、床に倒れた成歩堂を介抱しながら、王泥喜はちょっと反省していた。もうちょっと、ちゃんと話を聞いてあげれば良かったのかも知れない。
「俺、あなたがあの人と何かあるんじゃないかと、誤解してしまって」
「ああ、誤解と言えばさ、オドロキくん」
「はい?」
「ぼくと春美ちゃんのことだけど、ぼくたちは、別に付き合ってる訳じゃ……」
成歩堂がそこまで口にした直後。凄いタイミングで扉が開き、みぬきが顔を出した。
「パパ、オドロキさん!ただいま!」
「みぬきちゃん!」
「どうしたの、二人とも、仲良く顔に傷なんか作って」
「何でもないよ」
「な、何でもないから」
「そう?」
覗き込んで来たみぬきに声を揃えてそう言い、二人は誤魔化すように笑顔を浮かべてみせた。
さっき、成歩堂は何と言おうとしたのだろう。まぁ、その内解かることに違いない。
そう思い直して、王泥喜は未だにひりひりと痛むおデコを手の平で撫でた。
終