いちばん




 『成歩堂様。あなたの一番大切なものをお預かりしています』

 成歩堂の元に、差出人不明のそんな手紙が届いたのは、あまりにも突然のことだった。
 思わず、手にしていた書類を取り落として、呆然としてしまった。
 真っ白な便箋に書いてあるのは、たったそれだけの文。勿論、名前なんて書いてるはずもない。
 何度か穴の開くほど便箋の字を読み直して、成歩堂は血の気が引くのを感じた。
 落ち着け。悪戯かも知れない、こんなの。
 いや、でも。今まで散々色々な事件に係わって来た。だったら、又巻き込まれる可能性だってある。
 それに。
(一番、大事なものって)
 必死で頭を巡らせて、成歩堂はハッとした。
 何か大事なことを忘れている。そのことに気付きたくなくて、頭が麻痺している。でも、思い出さなくてはいけない。一刻も早く。この事務所に来たとき、違和感があった。声を掛けても、誰もいなかった。いつもなら、あの子が一番に飛び出して来るはずなのに。
(真宵ちゃん!!)
 胸中で彼女の名前を呼びながら、成歩堂はバン!と勢い良く奥の部屋の扉を開けた。けれど、そこには成歩堂の望んでいた人影はなかった。
 まさか、この手紙が指す「もの」とは、真宵のことなのか。彼女にまた、何かがあったって言うのか。
 いや、彼女のことだ。ちょっとそこまで買い物に行っていることだってありえる。朝食を買いに行っているんだ。きっとそうだ。
 そう思いながらも、落ち着くことなんて出来ず、成歩堂は事務所の扉を乱暴に開けて外へ飛び出した。
 その途端。
「きゃぁっ」
 衝撃と共に小さな悲鳴がすぐ側で上がって、成歩堂はハッとした。
 慌てて声の方を見下ろすと、見慣れた少女が床に尻餅を付いていた。どうやら、飛び出した弾みで思い切りぶつかってしまったらしい。
「い、痛いよ、なるほどくん!」
「真宵ちゃん!」
 いつもと変わらない彼女の様子に心底ホッとして、胸を撫で下ろす。
 良かった。無事だったか。
「ごめんね、大丈夫?」
「うん、大丈夫。何か、あったの?」
「いや、うん。なんでもないんだ」
 言いながら、成歩堂は真宵の手を取って立ち上がらせた。
 とにかく、この子に何もなくて良かった。
(良かった。本当に……)
 思わず、感傷に浸るようにまじまじとその顔を見詰めて、もう一度安堵の息を吐くと、心なしか彼女の双眸が泣きそうに潤んだ気がした。いや、潤んでいるのは自分の目だ。ホッとするあまり、涙ぐんでしまったのだろう。しっかりしろ。
 それに、まだ危惧は残っている。あの手紙が指すのが真宵でなければ、一体、何だろう。
 次に浮んだのは、家にある通帳とか、印鑑とか、その他もろもろ。
「ごめん、真宵ちゃん。ぼくはちょっと家に一度帰るから、事務所閉めて待ってて」
「なるほどくん?」
「今日は開けなくていいから。ね」
 強く念を押すと、成歩堂は慌てて家へと向った。

 先ほど出たばかりの部屋は、いつもと何ら変わったところはなかった。
 通帳も印鑑も、大事なものはちゃんと元の場所に残っていた。荒らされた形跡さえない。
 じゃあ、一体、何だろう。あの手紙の差出人の目的は、何だと言うのか。
 困惑すると同時に、成歩堂の頭の中は段々と冷静になって来た。苛々したように部屋の中をぐるぐると歩き回っていた足を止め、顎に手を当てて考え込んでみる。
 ふと、思いついたようにポケットに突っ込んだままの手紙を取り出すと、今度は冷静に観察するように眺めた。
「あなたの……一番大切なものをお預かりしています」
 声に出すと、何だか妙に違和感があった。この文から連想されるのは営利誘拐などだ。もしくは、脅しか。でも、この文にはそのことによって生じる相手側の利益が何も書かれていない。
 それに。
(それに、この字……)
 何だか、見たことがあるような気がする。いつか、どこかで。いや、逆だ。いつも、いつでもどこでも目にしている。
 そう思うと、全てが腑に落ちたような気がした。
 でも、問題は動機だ。動機がはっきりしなければ、何も立証出来ない。
 成歩堂は、手紙を受け取ってからの数分間をじっくりと思い出してみた。
 取り敢えず、一番大事なものを取られた、そう思った。頭の中に真っ先に浮かべたのは、他の誰でもない、真宵だった。でも、その彼女が無事だと解かって、あからさまにホッとして、真っ向から彼女を見詰めた。
 そのとき。泣きそうに目を潤ませていたのは、確かに自分ではなくて、彼女の方だったのだ。あれは、安堵の表情じゃない。胸の奥底から湧き上がってくる悦びを無理に押さえ込んで、それでも溢れ出してしまったかのような、涙。
 どうして?自分がホッとして目を潤ませるなら解かる。でも、真宵がそんな風になる理由なんて……。
 そこまで考えて、あることに思い当たった。
(もしかして……)
 辿り着いた結論を頭の中で組み立てると、がくりと脱力してしまった。
 でも、それ以上に胸中は複雑で、何も言葉にならなくて、成歩堂はそのままずるずると床に崩れ落ちてしまった。



「真宵ちゃん。ぼくの一番大事なもの、返してくれないかな」
 事務所に帰ると、成歩堂は目の前に立っている少女を真っ向から見詰めながらそう言った。
 その台詞に、真宵は少し驚いたように目を見開いたけれど、すぐに両肩を竦めて、困ったように笑った。
「あ、バレてたんだね。流石、なるほどくん」
 悪戯がバレた子供のような、バツの悪そうな顔。こちらが示す反応に、少し怯えている。無理もない。ちょっと、性質の悪い悪戯だ。だけど、責める気にはならない。だってきっと、彼女にこんなことをさせたのは自分だ。
「ごめんね。怒ってる?」
「怒ってないよ」
「ほんと?本当に怒ってない?」
「本当だよ」
「……良かった」
 今度は彼女の方が心底ホッとしたように胸を撫で下ろした。
「なるほどくん、あたしね……」
「……」
「あたし……」
 真宵が紡ぐ言葉を、成歩堂は黙って受け止めた。
 彼女が言い終えたら、何て言おう。何と言って、安心させてあげたら……。
 頭に巡っているのはそんなことばかりだった。

―確かめてみたかったんだ、なるほどくんの一番大事な人が、誰なのか。