夏休み




「成歩堂」
「……」
「聞いているのか、成歩堂」
「え、あ、何?御剣」
 不意に、自分を呼ぶ御剣の声が聞こえて、成歩堂はハッと我に返った。
 御剣の家の広い部屋で、大きなテーブルに頬杖を突いたまま、ぼーっとしてしまっていた。顔を上げると、子供らしくなく、悩ましそうに眉根を寄せた彼の顔が見えた。
「何、ではないだろう。きみが勉強を教えてくれと言うから、こうして集まっているのだよ」
「あ、そうだよね。ごめん、御剣」
 テーブルの上に積み上げられた資料を指差す御剣に、成歩堂はしゅんとなってすぐに謝った。
 さっきからこんな風にぼうっとしてばかりだ。流石に可笑しいと思ったのか、御剣はじっと顔を覗き込んで来た。
「何か、あったのだろうか」
 心配そうな声に、成歩堂は慌てて首を横に振った。
「ち、違うよ、御剣。この前の御剣、凄くかっこ良かったと思って、思い出してたんだ」
「ム……」
 遠くを見るようなうっとりした目付きになって、成歩堂はほうっと溜息を吐いた。
 この前のこととは、紛れもない。学級裁判のことだ。あのとき、御剣がいなかったら、どうなっていたか解からない。そう思うと、何度思い出しても脳裏に浮かぶ彼の姿は眩しい。
 でも、御剣は何だか怒ったような顔になって、ふいっと視線を逸らしてしまった。
「そんなことはない」
「でも、本当に凄いよ。ありがとう、御剣」
「きみにお礼を言われる筋合いはない。ぼくは当然のことをしたまでだ」
「うん」
 にこにこと笑顔を浮かべて言うと、御剣もやっとこちらを見て、二人の間には和やかな空気が広がった。
 けれど、その直後。
「何見詰め合ってんだよ!二人とも!」
 柔らかい雰囲気を引き裂く、矢張の怒鳴り声が響き渡った。
「や、矢張、何だよ、大声出したりして」
「うるさいぞ、矢張。ぼくの家で大声は出すな」
「そんなことより!さっさと宿題やって俺に見せてくれよな!」
「さっきまで床で寝てたくせに、図々しいぞ」
 咎める御剣の言葉に、矢張は少しも動じることなくしまりのない笑顔を浮かべた。
 三人で一緒に夏休みの宿題を始めたのはいいけれど、矢張は早々に飽きて床にごろごろ寝転んで持って来たマンガを読んでいたのだ。
「最初から見せて貰うなんて駄目だよ、矢張」
「じゃあ、最後のページから見せてくれよ」
「そう言う、意味じゃなくてさ……」
 これ以上何を言っても無駄だろう。
 成歩堂は小さく溜息を吐いて、それから再びテーブルの上に視線を戻した。
 けれど、御剣はどうもこう言うことは許せないのか、尚も彼に説教を続けている。
「とにかくだな、矢張」
「ん?何だよ、御剣」
「誰にかに教えて貰おうとか、そう言う性根がまず良くない。少しは自分で考えなければ、どうしようもないだろう」
「何だよ、いいじゃんか」
「良くない!」
 バンと片手でテーブルを叩いた御剣に、成歩堂はびくっと肩を揺らしてしまった。
「ご、ごめん、御剣。ぼくも、きみに教えて貰おうなんて、甘ったれてるよね」
 成歩堂が怯えながら言うと、御剣はハッとしたようにこちらを見て首を振った。
「ム……成歩堂。きみならば構わない」
「み、御剣……」
 その言葉に成歩堂はほっとしたけれど、当然矢張は納得いかない。
「何だよそれ!卑怯だぞ、御剣!」
「ぼ、ぼくが、卑怯?」
 矢張の言い分は滅茶苦茶だったけれど、今までそんなことを言われたことがなかったのだろう。ガン!とショックを受けた御剣を見て、矢張はしてやったりとばかりに目を輝かせた。
 そうして、彼が呆然としている間に、矢張は二人の間に勢い良く割り込んで来た。
「俺にも見せろ!」
「わ、わぁ!危ないよ、矢張!」
 反動でバランスを崩し、成歩堂は非難の声を上げたけれど、矢張は止まらない。
「いいじゃねぇか、別に!」
「離れろ、キサマ、暑苦しい」
「キ、キサマとは何だよ!俺だって幼稚園は出てるんだ!」
「筋の通らない理屈を述べるな、矢張!」
「何でもいいけど暑いよ!」
 そんな感じで、三人揃って宿題をしてもいつまで経っても終らないのだが。一人欠けると何だか落ち着かないので、いつもこう集まってはこんな調子で騒いでしまう。
「ああ、もう!こんなんじゃすぐ夏休み終っちゃうよ!」
 成歩堂の悲痛な叫びも、周りの怒鳴り声や物音に虚しく掻き消されてしまった。