猫のキス
成歩堂が弁護士を辞めてしまった後も、春美は度々元法律事務所へと遊びに行っていた。
真宵も倉院の里に戻ってしまって、今ここはあのときと大分様子が違う。
成歩堂の胸元には、あの弁護士の秘宝であるバッジはもうない。
でも、彼は彼だし、引き取ったと言う春美と同じくらいの年の女の子も気になる。
「お、お邪魔致します」
朝っぱらからそんな言葉と共に事務所を訪ねると、中にいた成歩堂とみぬきはくるりとこちらを振り返った。
「あれ、春美ちゃん、早かったね」
「わぁ!おはようございます。春美さん」
「おはようございます、なるほどくん、みぬきさま」
ぺこ、と頭を下げると、二人は春美に向かって笑顔を浮かべた。
「じゃあ、行って来ます!パパ」
「ああ、行ってらっしゃい」
春美がソファに腰を下ろした途端、みぬきと成歩堂はそんな会話を交わした。
察するに、みぬきはこれから外出するのだろう。
まだ春美と同じくらいなのに、もう一人前に仕事をしているそうだから。
(凄いです、みぬきさま)
そんな感想を胸中で漏らした途端、成歩堂の側まで歩み寄ったみぬきは、屈み込んだ彼の頬にちゅっと音を立ててキスをした。
「……?!」
(な、なるほどくん?!)
もう恒例になっていることなのか、成歩堂は少しも動じていなかったのだけど、春美はこれ以上ないほどに驚いてしまった。
あまりのことにすぐには口が利けなかったけれど、みぬきが扉を閉めて行ってしまった後、すぐにハッと我に返った。
今のは、口付け?
(わ、わたくし、初めて見ました)
何だかどきどきと緊張しつつも、それどころではないことに気付く。
「な、な、なるほどくん!」
「わっ?!」
今にも掴みかからんばかりに詰め寄ると、成歩堂は驚いたように引き攣った声を上げた。
「な、何?春美ちゃん」
「な、なるほどくん!今のは、今のは口付けではないのですか!」
「え、ああ、そうだね。まぁ、頬にだけど……」
暢気な返答に、春美は慌てて声を荒げた。
「く、口付けは恋人同士がするものではないのですか?まさか、なるほどくん!」
「は、春美ちゃん、落ち着いて……」
「なるほどくんは、みぬきさまを愛していらっしゃるのですか!」
ずい、と詰め寄って尋ねると、成歩堂は焦ったように首を横に振った。
このままでは、春美の渾身の平手を食らうと思ったのだろう。
「いやいや。そうじゃないんだよ、春美ちゃん。あれは、どうもみぬきちゃんが前のお父さんとしてたみたいで……だから家族の愛情表現みたいなんだ」
「か、家族の?」
「そうそう、例えば、猫とするみたいな」
「猫と、ですか」
家族の間の、キス。可愛い猫とするキス。
それは、恋人同士のものではない?
「そ、そうなのですか……申し訳ありません……」
でも。
(でも、わたくし)
慌てて謝罪したけれど、先ほど先ほどから瞼の裏に焼き付いている光景を思い浮かべると、到底納得出来ない。
だって、あの可愛い女の子の唇がそっと成歩堂の頬に触れるのを見たとき、何だか知らないけれど、どく、と大きく心臓の音が鳴ってしまったから。
それに、今もそうだ。
何だか落ち着かなくて、心臓の音も胸に手を当てなくても早くなっているのが解かる。
あんな、ドキドキするようなものが、成歩堂の言うだけのキスなんて、そんな。
「ですが、やはりわたくし……納得できません!」
「は、春美ちゃん」
両の拳を握り締めて、きっと視線を向けると、成歩堂は狼狽したように視線を泳がせた。
「でも、本当なんだよ、信じてくれないかな」
春美と同じ目線まで屈んで、成歩堂は優しく言う。
彼の言うことだ、信じてあげたいけど。でも……。
少し考えて、春美は思いついたように声を上げた。
「それでしたら!証拠をお見せになって下さい!」
「しょ、証拠?」
「はい。先ほどの家族のキスと言うのを、わたくしにもして下さい!」
「えええ?!」
引き攣った声を上げる成歩堂に、春美はずいずいと詰め寄った。
ここは、はっきりさせておきたいから、引く訳に行かない。
「わたくしと真宵さまは、恐れ多くも家族同然ですから!なるほどくんと真宵さまがご結婚された暁には、わたくしたちも晴れて家族に」
「そ、そう、なるね」
「ですから、わたくしにも家族の口付けを!」
「い、いや、でも」
戸惑う成歩堂に、ぎろりと視線を送ると、彼は困ったように肩を竦めた。
でも、数秒後。
「解かったよ、春美ちゃん」
観念したのか、そんな言葉が返って来た。
「じゃあ、いいかな」
「はい、どこからでもどうぞ!」
臨戦態勢のように和服の袖を捲くり上げて叫ぶと、春美はぎゅっと目を瞑った。
突然事務所の中はシン、と静まり返って、春美の心臓の音と、成歩堂が動く衣擦れの音だけが聞こえた。
そして、少しの間の後。
むに、と頬に押し付けられたものに、ドキ!と心臓の音が跳ね上がって、春美は閉じていた目をパッと見開いた。
「こ、これでいいかな」
成歩堂は少し照れたようにそんなことを言っているけれど、頭に入らない。
「わ、わたくし……わたくし」
何だか、急に物凄い罪悪感に襲われたような、でもそれだけじゃないような。妙な気持ちが溢れ返って、頭が混乱してしまった。
「春美ちゃん、どうかした?」
ようやく異変に気付いた成歩堂が、心配そうに顔を覗き込む。
そっと、触れようと伸ばされた手に気付いて、春美は思い切りパァンと平手を食らわせてしまった。
「いたた!は、春美ちゃん?!」
涙目になった成歩堂に名前を呼ばれて、ハッと我に返る。
(わ、わたくしは……)
なんてことを、なんてことをしてしまったのだろう。
こんなこと、してはいけなかったのだ。
だって、こんなにドキドキしてしまって、心臓が口から飛び出しそうで。
あれは猫のキスなんかじゃない。家族とするキスなんかじゃない。
真宵に、何て言えばいいのか。
「も、申し訳ありません!」
「春美ちゃん!?」
何がなんだか、と言う成歩堂の呼び声にも耳を貸さず、春美は脱兎の如く事務所を飛び出した。
「うーん、女の子は難しいなぁ」
みぬきのこともあって、成歩堂はすっかり父親みたいな心境で呟きを漏らしたけれど。春美には届かなかった。
終