PROPOSE
「なるほどぉぉ…」
「うわっ!」
突然、背後から恨めしそうな声がして、デスクの上を片付けていた成歩堂は素頓狂な声を上げた。
この…締まりのない、尚且つ憐れみを誘うような、情けない声は…。
恐る恐る振り向いた成歩堂は、予想通りの人物を見付けて、深い溜め息を漏らした。
「矢張…」
そこには、小学校からの友人、矢張政志がうるうると目に涙を浮かべて立ち尽くしていた。
何だか、無性に嫌な予感がする。
「な、何だよ、お前。デートだって言って、誇らしげに出て行ったばかりじゃないか」
まさに、成歩堂の言う通り。
懲りずにまた、モデルの女の子にうつつをぬかしているらしい矢張は、先ほど突然ここを訪ねて来て、相手の魅力について散々喚いて行ったばかりなのだ。
それが、こう言う事態になっていると言うことは…。
まぁ、何となく想像がつくが。
大方、会いに行ったら別れ話をされたとか、新しい彼氏を紹介されたとか。
そして、その予想は外れていなかったようだ。
「俺…もう、女何か信じないぞ…」
「その台詞、もう何度も聞いたよ」
「今度は本気だぜ!俺、決心したんだよな」
「え…何を?」
いつもなら、あいつがいないなら死んだ方がいいだの、もう生きる気力がないだの、ぐたぐだと三日は落ち込んでいる筈なのに。
この異様な切り替えの良さ…。
(な、何だか…嫌な予感がする…)
ごくっと生唾を飲んだ成歩堂は、次の瞬間、とんでもない台詞を耳にして、危うく卒倒するところだった。
「俺、こうなったらもう、お前と結婚するからな!」
「はぁぁぁ?!!」
一体また、何を言い出すのやら。
成歩堂は激しい眩暈を覚えて、足元がくらりとした。
けれど、そんな自分にお構いなく、矢張は先ほどと打って変わって、希望に満ちた目で尚も続けた。
「と言う訳で、成歩堂。俺のこと、養ってくれよな!」
「ぼ、ぼくが養うのかよ!」
彼のこの目、信じたくないけど、どうやら本気らしい。
「馬鹿なこと言うなよ。そんなこと出来る訳ないだろ」
「な、何でだよ!お前、御剣の事件の時、証言台に立った俺に、きゅん…と来たって!そう言ったじゃないか!」
「そ、それは、そう言う意味じゃないだろ!」
ムキになって言い返して、成歩堂はハッと我に返った。
取り乱しては、矢張のペースにまんまと飲み込まれてしまう。
これではいけない。
成歩堂は一度言葉を止めて、深く息を吐き出した。
ここは落ち着いた態度で諭してやろう。
彼は今混乱して、血迷っているだけなのだ。
彼に必要なのは、ただ穏やかに優しく言い聞かせてやることだ。
「いいか、矢張。言うまでもないけど、ぼくもお前も男なんだぞ。つまりは、そんな簡単に結婚なんか出来る訳ないんだ…」
が…。相手はこちらの予想以上に血迷っていたようで。
成歩堂の言葉に、矢張は何事もなかったような顔で、にっこりと笑った。
「なんだ、そんなことか。お前、弁護士だろ、何とかしてくれよ。なっ、成歩堂!」
「…?!そ、そう言う問題じゃないだろ!?」
「まぁとにかく、これ、よろしく頼むぜ」
「……!!」
(こっ、これは…!!)
矢張がポケットから取り出したもの。
どうみても・・・婚姻届、と書いてある。
しかも、恐ろしいことに、夫になる人の欄には矢張政志、妻になる人の欄には成歩堂龍一、と書いてあった。
(ぐ……っっ!!!)
成歩堂はこれ以上ないほど、思い切りダメージを受けてしまった。
何故、生まれて初めて手にした婚姻届がこれなのだ!
そもそも、さっきは養ってくれだか何だか言っていたのに。
ちゃっかり夫になる気でいるとは、何て図々しい。
いやいや、問題はそこじゃない・・・。
そんな感じで、蒼白になりながら色々と思い巡らしていた成歩堂の唇に、その時ふと、何かが触れた。
続いて、軽く吸うような、チュッと言う軽快な音。
「……?」
我に返って目を見開くと、矢張の顔がやたら近くにあった。
「……っっ!!!」
息を飲んで、先ほどの感触が何だったのか悟ると同時に、成歩堂はズザザと部屋の隅まで後ずさりした。
「なっ、なっ、何するんだよ!!」
叫びながら、ぐい、と唇を拭う。
けれど、目の前の矢張は一向に反省の色など浮かべていなかった。
それどころか、子供のようにぺろ、と舌を出して、照れたように頭を掻いてみせた。
「いや〜、何となく…。これから色々する訳だしさ。キスくらいしておこうかと思ってよ」
「い、いやいや!!しなくていいよ!!だ、第一、何だよ色々って?!」
既にペースがどうのこうのなんて、悠長なことは言っていられない。
半ばパニックに陥りながら、成歩堂は訳も解からず喚いた。
すると、後ずさりした分だけ距離を詰めた矢張が、何だか真剣な顔で成歩堂の両肩をぎゅっと掴んで来た。
そして、又しても、とんでもないことを言い出した。
「成歩堂…。俺さ、子供は一人でいいから」
「……!!!」
もう、ひゅっと息を飲むしか、反応が返せない。
成歩堂が正気に戻ったのは、たっぷり数秒経ってからのことだった。
「ふ、ふざけるなよ、矢張!!ぼ、ぼくに産める訳ないだろ!」
「大丈夫だって、四人欲しいだなんて、無茶なこと言わないから」
「……!!!」
ぽんぽんとあやすように肩を叩かれ、思わず絶句する。
無茶なら、もう十分過ぎるほど言っていると思うのだけど?
「…と、とにかく、目を覚ませ!矢張!」
「お前こそ、何も心配するな。俺、こう見えて、かなり一途だし」
「う、嘘付け!!も、もういい加減にしろよ!」
「何だよ、ごちゃごちゃうるさいぞ!成歩堂!」
「…?!ん…っ!!」
それは、こっちの台詞。
そう言い掛けた筈の成歩堂の口は、次の瞬間ぐっと押し付けられた矢張の唇で塞がれて、最後まで言うことが出来なかった。
更に、両肩を掴む手にもぎゅっと力が込められる。
「んんん、ん、む…」
目を白黒させながら、もがこうと試みたものの・・・。
壁に押し付けられている上、頭がよく働かなくて、上手く行かない。
しかも、何を思ったのか、矢張のキスは深くなるばかり。
「ん、んんぅぅ…っ!」
(し、舌を…舌を入れるな!!)
成歩堂はただいたずらに、がむしゃらになって手足をばたつかせてみた。
けれど、矢張を退かすことは出来ず、結局無駄に体力を消耗してしまった。
ようやく矢張が唇を離したのは、酸欠で成歩堂の思考が停止する寸前になってからのことだった。
「はっ…、はぁ、は…」
突然流れ込んで来た酸素にむせ返りそうになりながらも、成歩堂は唾液で濡れた唇を拭って、ぎろ、と矢張を睨み付けた。
でも、むせそうになった為に潤んだ目で凄んでも、何の効果もなく。
矢張は実に嬉しそうにしながら、再び口を開いた。
「と、言う訳だから…」
その上…何が、と言う訳だ!と突っ込む気力もない成歩堂に向けて手を伸ばすと、襟元のネクタイを解き始めた。
(も、物凄く嫌な予感がする…!!)
そう思って、聞くのが果てしなく怖かったけれど。
成歩堂はごくりと生唾を飲み込んで、意を決して口を開いた。
「お、おい…な、何…してるんだ?矢張…」
「相変わらず、鈍いな、お前」
「え……?」
「決まってるだろ。早速、作ろうぜ、子供」
「…ぐっっ!!」
(や、やっぱり…!!)
「じょ、冗談じゃな…!む、ぐ!」
その時。
逃れる術のなくなった成歩堂が、この上なく悲痛な叫びを上げるのと、矢張が勢い良く口を塞ぐのとは、ほぼ同時だった。
終