Ram It
まるで悪戯でもするみたいに軽く唇が触れたのは、この前のことだ。一緒に飲んでて、魔が差したのか、本当に単なる気まぐれなのか解からないけれど、それは事実だ。でも、それ以上矢張は何も言って来なかったから、自分も忘れてしまおうと思っていた。
そして、その数日後。
彼はまた、何事もなかったように成歩堂の家にやって来た。
「成歩堂!聞いてんのか」
そう言って、矢張はぐい、と肩に腕を回して来る。馴れ馴れしい仕草は、いつもの彼だ。いつもと変わらない。でも、それが今は何だか腹立たしい。
「暑いからくっつくなよ」
「何だよ、つれないぞ、成歩堂!」
出来るだけ冷めた声で言い放ったけれど、矢張は離れるどころか成歩堂の首筋に回していた腕を徐にぐいっと引いた。
「わ……っ!」
バランスを崩した成歩堂は、そのまま矢張に向かって思い切り倒れ込んでしまった。急に側に近付いた体温に、思わず動揺してしまう。
「暑いからって言って……」
「どうせお前、寒くても暑くてもそう言うだろ」
「そ、それはそうだけど……」
珍しくずばっと言い当てられて、成歩堂はそれ以上何も言わずに黙り込んでしまった。
何だか、ばつが悪い。この前、あんなことをしたからだろうか。
あんなこと……。
二人とも酷く酔っていて、矢張は相変わらず女の子にふられただか何だかで、愚痴を聞いてやっていた。いつもこの世の終わりみたいに物凄く悲しそうに喋るから、本当に気の毒になってくるのだけど、立ち直りは早い。でも、それだって新しい恋をしないと立ち直れないみたいだし。矢張にとって、可愛い女の子に恋をすることは、もう日常の一部と言うか、当たり前のことなのだ。
だから、あのときうっかり彼とキスなんてものをしてしまったのは、本当にお互い魔が差したとしか思えない。
「でさ、お前はどうよ、成歩堂」
突然降りかかった質問に、成歩堂は眉根を寄せた。彼の会話は、本当にいつも突拍子ない。
「どうって?何だよ」
「だから、例えばマヨイちゃんとかさ、あの子、本当にお前のなんなのさ」
また、この話題か。
と言うか、早速次の女の子を物色しているのか。
「何度も言ってるけど、真宵ちゃんとは別にそう言う関係じゃないよ」
呆れながらも、成歩堂は出来るだけ素っ気なく言い捨てた。
こう言うことを話せるということは、彼はもう立ち直っていると言う事だ。この締まりのない顔を見れば解かる。もう、慣れてる。慣れているのだけど。
何だか、今は矢張の口からそう言うことを聞きたくない。だから、さっさと帰って欲しかったのに。彼はますます密着するように体を擦り寄せて来た。
「なぁ、成歩堂」
「しつこいぞ、お前」
「いいからさ、聞けって」
「ぼくはこれから出掛けるんだよ、もういいだろ」
「ぐだぐだうるさいぞ!いいから、この前の続きさせてくれよ」
「………は?」
単刀直入過ぎる台詞に、思わず目を見開く。
返す言葉もなく、圧し掛かる人物を見上げると、じっとこちらを見ている彼の目と視線が合った。
「お、お前、何言って……」
「解かったんだよな、俺ってば、この前」
「え?な、何が」
「だから、決めたわけ。お前とやるって」
「や、矢張?もう少し、人間に解かる言葉で……」
頭の中には疑問符しか浮かばなくて、焦ったようにそう言ったけれど、矢張は意に介す素振りもない。
「お前こそ何言ってんだよ、成歩堂!」
そんな言葉と同時に、強く押さえつけられて、ハッとしたように息を飲んだ。
「んっ、ちょっと、待……っ」
抗議するより早く、ぐぐ、と強く唇を押し付けられて、成歩堂はもがいた。けれど、自分より少し細身なはずの矢張の体はびくともしない。それどころか、何だか酷く熱くて、思わず身が竦んでしまうような……。
「矢……張っ」
切羽詰った声で名前を呼ぶと、成歩堂は何とか矢張の体を引き剥がした。けれど、その下から這い出す寸前に捉えられて、再び背中にマットの感触がする。
「どう言うつもりだよ、お前。酔ってるのか?」
腰の辺りの温かい重さを感じて、狼狽に揺れる声を上げると、矢張は焦れたように声を荒げた。
「そうじゃないって言ってんだろ、解かんないヤツよなぁ」
「な、何?」
「お前が好きだって言ってんだろ!最初から!」
「……!?!」
(はぁ……?!)
単刀直入に言われて、一瞬、頭の中が真っ白になる。
また、突拍子もないことを。でも、何故か不思議とバカにするなとか、いい加減にしろとか、怒る言葉は一つも浮かんでこなかった。
成歩堂は一度抵抗する手から力を抜いて、それから深く溜息を吐いた。
「何だよ、そんなウンザリしたように溜息吐くな!」
「吐きたくもなるよ。だいたい、最初からも何も、そんなこと一度も聞いてないけど?」
そう言うと、矢張は首を傾げて少し考え込んだ後、緩みきった笑みを浮かべた。
「あれ、そうだっけ」
「そうだよ」
「そうかも、なぁ。ま、いいか」
「……。良くないよ」
「じゃあお前、嫌な訳?」
「え……」
いきなり聞き返されて、思わず言葉に詰まる。
でも、その場ではっきり言えなかった時点で、矢張に伝わってしまったのかも知れない。
「この前キスしたときも、お前嫌がってなかったよな」
「別に、そんなことは……」
そんなことはない……とも言えない。
自身の状況を思い浮かべて、成歩堂ははったりを利かすのも忘れてしまった。
こいつ、よく見てる。見てないようで解かってる。
でも、だからと言って、抵抗はまだある。凄くある。
「矢張」
衣服の中に潜り込んだ手に非難するように声を上げたけれど、彼は少しも怯まずに、ゆっくりと手の平で肌の上を辿りだした。
「大丈夫だって、俺、優しいからよ」
「バカ言って、……っ」
思わず、小さく吐息のような声が上がってしまいそうなのを、ぐっと堪える。口元を手で覆うとしたけれど、何だか悔しくて代わりにきつく拳を握り締めた。
矢張が優しいとか、そんなことは、解かってる。いつも、女の子に対する態度で解かる。誠実かどうかはおいておいて、いつも矢張は優しい。
それに、今日立ち直って元気だったって言うのも、別に新しく好きな女の子が出来たからじゃないのか。
そう思うと、それ以上抵抗する気力は急激になくなってしまった。
「成歩堂」
「なん、だよ」
「大事にするからな、お前のこと」
「……」
そんなこと言って、いつかは又可愛い女の子が、何て言い出すに違いない。
でも。
「好きにすればいいだろ」
何だか抵抗する気にもならなくて、成歩堂はそっと体から力を抜いた。諦めた自分を見て取り、矢張はぐっと身を寄せるように屈んだ。
首筋に顔を埋め、そっと吐き出した彼の吐息が、成歩堂の肌の上を柔らかく擽った。
終